60年前の今日、靖国通りは火の海だったという。 以前のバイト先の大先輩が、彼女のお父さんとお兄さんの経験したことを話してくれた。
新宿に住んでいた彼女の一家は、父と長兄を残して栃木県に疎開していた。中断する仕事の調整も終わり、彼らが自分たちも栃木に出発しようとした当日未明、東京大空襲が始まった。 家は焼け落ちたものの、荷物はまとめてあったので二人とも無事に逃れ、リヤカーを引きながら靖国通りまで来た。 しかしそこはごうごうと火の手が上がり人が杭のように立ったまま燃えている地獄だった。 到底渡ることはできない。 火は広まる一方で、近くには飛び込む川すらない。 だがそれが幸いしたと、後年、父親は娘と妻に語ってきかせた。 水を求めて川に行けば押し潰され、火で上昇した水温は熱湯になって逃れてきた人々は生きたまま煮られたらしい。
二人は、リヤカーの荷物を背負えるだけ背負うと、リヤカーは捨てて他の道を探して歩きだした。なんとしても家族に再会したい、東京で何が起こったか伝えたいという一心で二ヶ月かけて栃木県足利市までたどり着いた。山のように背負った服や着物は、途中で食べ物や一夜の軒下を借りる代償に消えていた。
私のお気に入りの服も人形も、全部換えちゃって、と当時60歳だった彼女は冗談を言った。戦後、彼女のお父さんは上方からトラックに服の生地を満載してきて、焼け跡で売り歩いてまたたくまに一財産築き、家族にお金の苦労をさせなかったという。よほど腹が据わって目端の利いた人だったのだろう。
それから60年後の今日、幼稚園で最後の保育参観があった。 38人どの子も制服を着て、お弁当を持ち、食べ物の好き嫌いがある。 春にこの教室に入ってくる子供たちのために、紙のくさりを作っていた。 来年の今頃は、その子供たちが次の子供たちのためにまたくさりを作る。
春が来ない年があったことを、いつ理解できるようになるだろうか。 同じ歳の子供たちが一日で何千人も生きながら焼かれた日に、彼らは小さな指先をのりだらけにしながら、懸命にくさりをつくる。
空襲に対して、怒っても悲しんでもいいと思う。 真珠湾を奇襲したことを恥じても悔いてもいい。 ただわきあがる感情を受け止めなければ、他の民族が日本に対して抱く憎悪や憤怒も受け止められない。それ以前に理解できない。
食い違う感情の連鎖にくらべ、次の春のために歓迎の心をこめて繋げられたくさりの美しさ。 のりがはみだし、輪が歪み、だからこそ真剣につくったものだとわかる。 理解できる歳になったら、いつかのこの日に靖国通りへ連れて行こう。
抹茶ミルク味のキャラメルコーンを食べながらそんなことを思う夕刻。 カリカリしててけっこう美味しいこれ……!
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