ダメダメちゃむ日記
DiaryINDEX|past|will
忘れっぽい私だが、忘れられない卒業式が2つあった。 それが今日、4つになった(ノД`) 最初の「忘れられない卒業式」は2001年の3月だ。 2004年3月30日の日記「離任式」に書いてあります(〃 ̄ー ̄〃) 2000年秋、私はうつ病で初めての病休、そして春から休職を取った。
次女が生まれ、12ヶ月取れるはずの育児休暇を私は途中で切った。 どうしても、4月から現場復帰したかった。 1999年4月、0歳児の次女と3歳の長女を信頼できる保育所に預けた。 ダーは当時単身赴任だった。 4月、いきなりの椎間板ヘルニアに襲われた。 ほぼ3ヶ月毎夕整骨院に通った。 朝は眠たがる娘を無理矢理起こし、保育所へ預けて出勤する。 2年部だった……んだろうか?(記憶が曖昧)うん、多分2年部。 妊娠するまで持っていた学年に復帰させてもらったのだと思う。 授業は楽しかった。生徒が大好きだった。 そして夕方整骨院で治療を受け、娘sを保育所へ迎えに行った。 夕飯を食べさせ、風呂に入れて、洗濯? ……家庭生活の記憶はほとんどない。 近所に住む実母が手伝いに来てくれていたはずだ。 そう、椎間板ヘルニアで次女のおむつを替えるのも激痛だった。 生まれて以来布おむつを使っていたが、 4月からは紙おむつにしたような気がする。 不思議ときつかったとか辛かったとかいう記憶がない。 イヤなことは忘れる質なのでだろう(笑)
夏休みに県サークル集会があった。 尊敬する部長さんが、 地元新聞の差別記事に何度も抗議している話を聞いた。 彼女1人に闘わせてはいけない、素直にそう思った。 その直後、地元紙のコラムにとんでもないセクハラ推参文章が載った。 私は怒り狂った。 レポート用紙5枚に殴り書きした抗議文書を新聞社に送った。 翌日、少し落ち着いてからワープロで清書して再度送った。 質問項目への返答と、社をあげて対策をとり、謝罪記事を掲載せよという趣旨だった。 何日も総務部長と連絡を取り、 経過をワープロで記録していった。 ひどい風邪をひいた。 きつい抗生物質を飲みながらたった1人きりでの闘争だった。 当時の信頼していたA校長には報告していた。 個人として、新聞社に抗議し、対応させています。 もしかしたら校長先生にご迷惑をお掛けするかも知れませんが……。 と言った私に、A校長は「ああ、どんどんやりなさい!」と励ましてくれた。 質問状への回答は大変不満足な代物だったが、それが彼の会社の現実だった。 そして、謝罪を装ったコラムが数日後掲載された。 私は小躍りして喜んだが、校長と社会科のベテラン教諭は鋭かった。 「これ、全然謝ってないよ。前と同じ言葉を繰り返して茶化してるだけだよ」Σ(。。lll)ガーン!? その通りだった。 更なる謝罪記事を改めて掲載して欲しいという再抗議には、 「弊社といたしましてはこれ以上の対応をする意志はありません」 の一言だった。。。。_| ̄|○
ここから逆襲を始めた。 女性部はもちろん、県下各地のベテランサークル部長たちに、 ファックスで資料を送付した。 「ちゃむさん、どうして1人でやったの? 最初に声を掛けてくれれば手伝ったのに」 と何度も聞かれたが、私は「1人の読者」がどこまでできるのか試してみたかったのだ。
ダーはかなりの無理をして、何度も帰宅して家事育児を助けてくれた。(K官は勤務地外に出るときには上司の他行許可が要るんですヨ) 週末にダーの赴任地に運転して行く元気は私にはなかった。
秋。 ふと気づいた。 「娘が笑わない!!!」く(""0"")> 結婚前に治ったはずのうつ病が再発した! と直感した。 確かに私は多忙で過労状態だった。 自主的に再通院し、カウンセリングと投薬治療を受けた。 今度は私1人の生死の問題ではない、娘sの人生が係っていた。 ドクターと話し合い、ダーと話し合い、それでも仕事は続けたかった。 朝、空き時間、昼休み、夕方、私はいつも職員室の外で煙草を吸っていた。 この頃、既に同僚とはうまくいっていなかった。 副学年長のW先生からはいつも怒られていた。
ある呑み会の2次会で。 私は1人で飲んでいた。語り合う仲間はそこにはいなかった。 S先輩が隣に座った。 2年前、飛び込み3年副担任をやった時の、数少ない1人だった。あの時の学年部は最高だった。今でも機会あるごとに焼き肉パーティーをやる団結力ある「仲間」だった。 S「最近、お前に対する風当たりがきついの、わかってるな?」 ち「はい……」 S「W先生が何故お前にだけきつくあたるのか、わかってるか?」 ち「……わかりません」何故私だけ!? と理不尽な閉塞感で一杯だった。 S「お前に期待しているからだ。俺だけは2年前のお前を知っている。あの荒れた3年部に飛び込みで入って、大きなお腹抱えて(次女入り)、それでもふうふう言いながら、お前は生徒たちの間を飛び回っていた。」 ち「……」Hちゃんと一緒に学年通信書くの楽しかったな。 S「他の先生は知らなくても俺だけは知っている! お前は『こんな風』(多分無気力ってこと)じゃなかった!!」(≧ ≦)Ω ち「……『あの頃の私』とは違うんです。……うつ病が再発して、きつくてきつくて動けないんです」(┰_┰) S「……!? 何故お前はそれを仲間に言わないんだ? お前は仲間をそんなに信頼できないんか!?」 『信頼できません!!』く(""0"")> 本当はそう叫びたかった。 今とは違って、1999年当時うつ病はポピュラーな病気ではなかった。 新採用の時、私は既にうつ病だったが、母から「絶対に誰にも言ってはいけない!」と箝口令が敷かれていた。 『うつ病だと話して、誰がわかってくれる!?』く(""0"")> 私は恐怖でいっぱいになった。特にその学年部ではS先生以外に信頼できる先生はいなかった。 S「お前が言えないんなら、W先生だけにでも、俺から話してやろうか?」 ち「……考える時間を下さい」(ノД`) 記憶があまりない。 しばらくして、私はまず学年部にうつ病をカムアウトした。 多分校長と教頭にも。 W先生からの厳しい指導は途端に止まった。多分S先生が話をしてくれたのだと今でも思っている。 そして、3月にS先生は異動した。
新3年部。1年間教えた子どもたちを私は大好きだった。 でも、うつ病は理解してもらえなかった。 朝起きて、どうしても学校に行くことができない日があった。 急な自習、自習課題のない自習監督の増加による多忙化。 負担という名の愚痴は、私の聞こえるところで、聞こえよがしにささやかれた。私以外は皆健康だった。 私は現実から逃避するために、チャットにはまっていた。 朝、「行ってきま〜す♪」とチャット仲間に話しかける。 「いってらっしゃ〜い。無理するな〜」とチャット仲間が答えてくれる。 子どもを保育園に送迎、授業、最低限の家事育児、睡眠。 それ以外の時間、私はずっと娘sに背を向けてPCでの仮想家族と会話し続けていた。 完全なるチャット依存症だった。
そして、忘れもしない10月。 弁論大会の事前指導として、 私は昨年の新聞コラム闘争を授業した。4時間扱い。 既に昨年度の3年生の3学期に実践済みであり、手応えも感じていた。当時の校長にも報告したし、生徒の感想も読んでもらっていた。校長は応援してくれていたが、その年の3月に定年退職して、校長が替わっていた。 1,新聞のコラムを読み、感想を400字以内で書く。 2.ある女性の抗議文書と社の回答を読み、感想を400字以内で書く。 3.新聞社曰くの訂正コラムを読み、感想を400字以内で書く。 4.再抗議文書とその返答を読み、感想を400字以内で書く。 その過程で、今でも憎むY担任がかみついてきた。 生徒の作文を返そうとした時に読んだらしい。 Y「ウチにはこの新聞を配っている生徒もいるんだ! この新聞社に親や親戚が勤めている可能性もある。コラムに載っている事件の関係者もいるかもしれん。あんたは事前にそれを調べたんか!? あんたのやっていることは新聞社差別や!」 ち「最後まで授業をやらせて下さい! そして生徒の変容を見て下さい。関係の生徒にはきちんと謝りますから」 次の時間、配っている子、家族親族に社の関係者がいる子に謝った。 「あの新聞社自体が悪いんじゃないんだよ。主筆といって、誰も文句も意見も言えない立場に恐ろしいほどの差別と偏見をもった偉い人がいる。そして、その人が差別記事を流し続けることに、私は抗議しただけなんだ」<自白?(笑) 昼休みだったか、放課後だったか、またYが噛みついてきた。 Y「俺があんたに文句を言ったから、あんたが謝ったことになってるやないか!?」 ……私はY先生の名前は決して出していませんし、 事実その通りですが、何の問題が……?(??) K「そんな授業やるんなら、事前に担任に断ってもらわなきゃねぇ〜え」 (多分当時分会長。「年休って権利でしょう?」と言った私に「限度があるけどね」と冷たく答えた働く子持ち女性教師) そこからは、もうわけがわからなくなりました。 そして、そこがもう私の活動限界でした。。。_| ̄|○ 全てのクラスで最後まで授業実践した私には、 もうこの人たちと働く気力も体力も残っていませんでした。 ドクターとダーリンと何回も話し合いました。 私が受け持っているのは3年生です。受験生です。そして私は受験教科です。 でも、もう私はその学年部で生きていくことができなかったのです。 校長とも相談し、ドクターに書いてもらった「うつ病のため病気休暇が必要」という診断書の前日まで、笑顔で生徒たちと授業をしました。 生徒たちと離れたくなかった。 でも、あの教員集団とではもう私の命が限界だったのです。 あの生徒たちの卒業式が「2004年3月30日(火)離任式」に書いてあります。あれが一番忘れられない卒業式でした。
長くなったので、明日に続く。
|