| 2007年08月15日(水) |
「熱球」と負ける権利 |
重松清著「熱球」
内容と時事が絶妙に関わりの有るタイミングでのこの作品との出会いだった。 二十年前に町中が甲子園への夢に盛り上がったときのエースが主人公。県予選の決勝前日にチームメイトが不祥事をおこして夢破れ、地元の恥さらしという目で周りからは見られてしまう。 そして今や、妻はアメリカに留学中、自分は失業中という状態で一人娘と故郷に帰ってきて、父と娘と三人の同居生活がはじまる。 地元に残ったチームメイトやOBとの再会、妻が留学から帰ってきたら仕事や生活はどうするか、娘は、父は、妻は、そして自分は……。 戸惑いながら、それでもやがて、少しずつ、その答えを見つけてゆく。
いい。 やっぱり、いい。
毛穴が開くほど、芯から震わされた。
内容に関連することでつらつらと……。
「高校野球」は特別な世界だと思う。 プロ野球を目指す高校生と、高校球児は、別モノ、だ。
結果的にプロへと繋がる、ということを考えると、同じだろう、という見方が大半だろうとも思うけれど。
プロに進むためには「技術論」が重要になる。 しかし高校球児には「精神論」が大きなウェイトを占める。
実際は届かないほうが現実的な「甲子園」という夢に向かって、非効率的とも思える練習量をこなしたりする。
だけど、それが私たちにとっての「高校球児」であって、そこではスーパースターもエースもスラッガーもレギュラーも補欠もスタンドで応援する者たちも、すべて、等しく尊い「高校球児」である。
技術論は、自らみつけだしたり求めなければ、誰からも与えてもらえるものではない。なぜなら、本人にとってなにを求めたいのか、どこまでわかっているのか、が他人からは皆目見当がつかない上に、持論に対する裏付けが自分自身にしか通用しないからである。 自分が感覚として身につけたものをつたえることは難しいだけではなく、それがその相手に合っているかどうか、が重要でもあるからだ。 今現在、巷に溢れかえっている技術論は、並べ立てるとそれぞれで矛盾がまた溢れかえっている。 だから、もっと根本的な基礎体力、筋力をつける練習が多くなってしまう。 するとそこには精神論が付きまとってしまうことも往々にして、ある。
だから、敬遠されてしまうのだろう。
汚れず、傷つかず、疲れず、効率的に技術を得たい、と。 なんか、違わなくないだろうか……。
「スポーツマンには負ける権利」がある。 「勝つ」ことからよりも「負け」ることからのほうが、何倍も学ぶべきものがある。 「負ける」ことすらできずに故郷を去った主人公は、元チームメイトの息子との勝負で、ようやくすっきりとした「負け」を手にすることができる。
父親が抱く、永遠の(と思い込んでいる)夢。
息子とのキャッチボール。
そう。
遥か遠くにある、夢……汗
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