鶴は千年、生活下手

2002年11月20日(水) ワイルドアームズ3(長いです)

夕べ、24時近くまでかかって、やっと終了。
夫が帰ってきたのが23時ごろ。
「もう、いやんなっちゃったよぉ〜。」
「なんで?」
「だって、ラスボス(最後の大勝負)、進化しながら戦って、
 もう8回目くらいなんだよぉ。」(半べそ状態)
「せっかくここまできてるんだから終らせたら。」
「う〜ん、がんばる。」
じわじわ、ねちねち、じりじりとラスボスを攻撃するわたし。
傍らで、晩御飯をかっ込み終えて、インターネットで攻略法を
確認してくれている。(ラスボスは第10形態まであった。)
やり方はあってるみたいだ。
けど、ねちねちした攻撃。(爆)

エンディングまで見終わって、なんて感動が少ないんだろうと
思った。
「ワイルドアームズ」の1作目とどうしても比べてしまう。
「ワイルドアームズ」は、2もやったけど、すぐに売った。
3も売ることになると思う。
それは、もう1回やってみたいかと聞かれたらNOだから。
それは、わたしにとってはそのストーリーをもう一度味わいた
いかという問いだからだ。
もう、このお話は、いいです。たくさんです。
そういう心境。

終ってから、夫と1作目との違いについて語り合った。
同じような話なのに、なぜ感動ではなく嫌気がするのか。
悩みながら主人公達が成長するのはある程度お決まりのことだ
から、それはOK。
その精神的な成長、それぞれが抱えている悩みを乗り越えると
いうことに対して共感が持てる。
言ってることも、ちょっとは青臭いけど、いいことだった。

では、なぜ主人公の言動が鼻につくのか。
1作目では、3人の主人公がそれぞれの悩みを乗り越えて成長
していく様が感動的だった。
お互いを思いやる気持ちに溢れてくるのが良かった。
3作目でも、同じようなものなのだが、決定的な違いはその話
の見せ方にあった。

1作目では、一人一人が思索するという形でプレイヤーに訴え
かける。
プレイヤーは、キャラクターの考えていることをなぞらえる形
で自分のものにしていくのだと思う。
3作目は、殆どが会話の中で語られる。
悩んだことも、乗り越えたことも、すべて主人公の口から少女
の青臭い言葉として語られる。少女の言葉づかいでだ。

そこにプレイヤーは入り込めないような気がする。
会話をずっと聞かされて(読まされて)いると、プレイヤーは
ただの第3者にならざるを得ない。
そこには、観客という立場の自分しかいないように思う。
1作目の、一緒に思索している感覚が味わえないのだ。

熱い心を語ってくれるのは、子供向け番組であって欲しい。
テレビゲームもそういうものだけど、自分でプレイしていると
いう時点で、それは自分の言葉や思考に引き寄せている。
憧れるヒーローではなく、自分で操作する自分を同化させたも
のだから、話し言葉ではなく思索して欲しいのだと思う。
要するに、「ワイルドアームズ3」はしゃべりすぎってことだ。

他の人はどうなのだろう。
頭の中で、考え事をするとき、どんな言葉で考えるのだろう。
わたしは話し言葉で考えない。
話し言葉で考えるとき、それは実際に言葉に出して独り言とい
う形になっている。(歩きながら、夕陽がきれいだねなんて。)
考えるときは、書き言葉であることが多い。
たとえば、この日記のようにね。

「ワイルドアームズ」の1作目。
実はもう3回も繰り返しやってたりする、溺愛しているゲーム
なのだ。
だからこそ、1作目を越えるものを期待してしまうのだけど、
それは作る方にしてみれば大変なことなんだろうなぁ。
わたしみたいなファンばかりではないもの。
あくまでも、これはわたしの願望で、趣味なので。

3作目、途中までの方が感動的だったなぁ。。。。ラストより。

それにしても、「ポポロクロイスはじまりの冒険」を開封でき
てうれしかったよぉ。(T_T)
説明書を読んでるだけで、うれしくなるあほなわたし。
ポポロが好きなのは、同じ人物が登場してくるシリーズものだ
からなんだろうなぁ。
ファンタジー小説の続編を見ているような気持ちになる。
さっそく途中までやったよ、やった。
なんてかわいいのだろう、このキャラクターたちは。(嬉)

多くを語らせなくても、一言のセリフだけで主人公の優しさが
わかるところに、このシリーズの良さがあるのだと思う。

 新しい主人公たち見守ってその一言に優しさを見る(市屋千鶴)

マニアックで長い日記、読んでくださってありがとう。


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市屋千鶴 [MAIL]