鶴は千年、生活下手

2002年12月27日(金) それぞれの年末

今年もあと5日。
それぞれの家庭に、それぞれの年末がある。

7年前まで、叔母は肉屋をやっていた。
肉屋も暮れには大忙しなのだった。
上京してから、ほとんど毎年のように、年末には叔母の肉屋を
手伝っていた。もう一人の叔母と姉とわたしと従姉妹達。
店員さんが4、5人増える。

お正月には来客があって、すき焼きやしゃぶしゃぶをするとい
うところが多いらしく、そのための肉を「○○日に行くから、
用意しといて。」、というお客さんがけっこう多かった。
29日からの3日間は、そういう予約のお客さんの品物を揃え
るために、始発電車に乗って叔母の所まで行き、6時半くらい
から用意するのだった。
二人一組になって、予約の品物を揃えるものと他の準備をする
ものとに別れて作業するのだ。
お客さんが来始める10時くらいまでには終わらせておく。

店頭には、さまざまな商品がならんでいた。
毎年、手伝いの最初の日は値段を覚え直すことから始まった。
とはいっても、たいていは値段に変わりはないのだが。

隣は魚屋さんで、威勢のいいお兄さんが「いらっしゃいませ」
の声を上げ、それと張り合うように、こちらも声を上げる。
お兄さんはいつも同じ人だが、こちらは入れ替わり立ち代わり
声の主が替わるのだから、「勘弁してくださいよぉ、声枯れち
ゃったんすから。」などと弱音を吐かれた。
隣に買い物に行くと、サービスしてくれたりした。(笑)

肉屋のある商店街は、平日なら午後3時から、休日には午後1
時から、車両通行止めになっていた。
そうすると、一気に店先が張り出して、賑わいが増すのだった。

早朝から丸々1日、昼食の時にほんの5分ほど腰掛けるだけで、
ずっと立ちっぱなしで駆けずり回っているような状態が、毎年
3日間続いた。
当然、自分の家のお正月の用意などは、手付かずだった。
大掃除は夫達の役目で、買い出しもお願いすることになる。
お節料理だけは、31日に帰ってから作れるものだけ作るのだ
った。あとは叔母が詰め合わせのようなものを持たせてくれた。

1日が長いような短いような暮れの3日間。
そのころは、わたしは普段は机やパソコンに向かって仕事をし
ていたが、叔母の店で「いらっしゃいませ」と声を張り上げ、
大声で笑いながらお客さんと話をし、「元気があっていいねぇ。」
などと言われてうれしくなったりしていた。

エプロンの下には、ちゃんと綿入りのちゃんちゃんこを着て、
腰にはカイロを付けて、ジーパンの下にはズボン下やタイツを
はいて、寒さ対策をしていた。
もこもこで帽子をかぶってエプロンをした、どこか似ている女
達が4、5人集まっている様子は、なんだか微笑ましかった。
姉の子供達も、大きくなるにつけ手伝うようになっていた。
常連のお客さんは、女達が血縁だということを知っていて声を
かけてくれた。
わたし達の仲の良さは、この肉屋が有ってこそだったのだろう
とも思のだ。

 どれもみなどこか似ている女達笑い声さえコーラスになる(市屋千鶴)

その後、叔母達は肉屋をやめた。
わたしたち従姉妹4人は、ごく一般的な年の暮れを迎えるよう
になった。
肉屋に来ていたお客さんのように、29日から買い物をして、
おせちを作る。
夫と結婚してからお節料理を作りはじめたのは、それまでに何
もできなかったその反動かもしれない。
まあ、大した物は作れないし、きんとんとか、お煮しめとか、
田作りとか、煮豚とか、紅白なますとかだけど。
その甲斐有って、カロリー制限や塩分制限のための手作りお節
も、なんとか作れるのだった。
出来合いの煮物とか、味が濃すぎて食べられなくなっていてね。
きんとんも、砂糖は少な目に作っているから、照りが少ないし。
紅白なますだって、いやに酸っぱいよ。(爆)

わたし達を繋ぐ絆は、血ではなく思いやりなのだと思う。
なぜなら、父方の血の繋がりは皆無に等しいから。
母方の絆は思いやりで作られていると思う年の暮れである。

 懐かしき絆を思う年の暮れ血は水よりも濃いとはいうが(市屋千鶴)


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