日記王(ニッキング)
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2002年12月07日(土) 総括

 職場の決定は思いがけない話だった。まさかとは思っていたが…というのが最初聞いた時の正直な感想だった。100%望んだ結果ではないものの、新しい生活を前にして期待に胸膨らませていた事も偽りない事であったし、何よりも周りの家族や友人が祝ってくれた事が嬉しかった。新生活への不安をそっちのけにしてくれる程だった。初めて一人で眠る夜も涙は出なかった。絶対に泣くと思っていたのに。

 仕事は忙しい方だったと思う。入社して1週間程は定時に帰してくれるとの事だったが、3日目から8時、9時と増えていき1週間を待たずして帰宅は平均11時となった。でも、それはそれで良いと思っていた。良いというよりはむしろ『そういうもの』だと思っていた。既卒者を中途半端な時期に雇用したのだから、頑張って当然、他人(ひと)より稼いでナンボという気構えで臨んでいた。

 工場の人数はそこそこ多いが私が所属している開発は人数が少なく、一人が平行して3,4機種を抱えている状況で、なおかつ短納期で試作を1ステップ飛ばして量産するという無茶な事をしていた。下請けの柔軟な対応と短い納期は昨今珍しい事ではないし、テレビなどのメディアでは最早風化しつつある話だ。先日も『路上格闘者』シリーズを作っている会社が「試作で出た赤字はそっちで全部被れ」とか言ってきたりと厳しい状況。その話は蹴ったそうですが、兎に角全員忙しかった。

 そんな中に私は入社する事となった。当初は工場の方に半年程研修させるかもという話だったが最初から開発にねじ込まれた。私が付く事になった人は開発に入って3年目で高卒。「俺が入った頃はAC・DCも解らなかったよ」とは本人の弁だが、その前に検査部で7年のキャリアがあるのは後から別の人に聞いた話である。
 もう一人、入社して半年の人がいましたがその人は契約社員で院卒、研究室は半導体系でトランジスタの扱いにもそこそこ長けており、何よりも派遣会社に所属した時点で3ヶ月の研修を受けていた。私はこの人に随分助けられたが、10月末日をもって契約が切れ、別の会社へと去った。

 私が付く事になった人(以後『高卒』と表記する)は、初日から私に回路図と配線図を見せて電気を説いた。しかしそれは『説く』というものとは程遠く、むしろ自己満足な『リサイタル』だった。レーザー系の研究室だった私は電気回路に関して全く疎く、リサイタルに暖簾に腕押し状態の私に対する高卒の態度はだんだんと冷めたものになっていった。
 後から聞いた話だが、高卒と派遣は私がもっとデキると思っていたらしい。三端子レギュレーターの存在も教えない大学教育に何を期待しているのか。コンデンサの仕組みや極板間の力云々についての授業はありますが、回路を設計する際の使い方なんてのは1分もない。そんな状態の私に回路素子を渡して「結線して」と言い放ち1日放置されても何が何やらさっぱりで終いにゃ泣きたくなってくる始末。こっそり派遣に教えてもらい完成させましたが、調べる方法もない私がどうやって回路を組めばいいというのだろう。

 入社して間もなく、よく「教えないから自分で勉強しろ」という内容の話を手を変え品を変えて何度もされた。自分でやらなきゃ覚えない、というのが相手の言い分だったが、確かに自発的にやらなければ知識は身に付かない。私もそう思う。でも、仕事の流れや機微というのは独学とかそういう話ではないと思う。誰かの下に付いて覚えていくのではないだろうか。入社して1月半後、私は取締役から携帯端末写真印刷機の回路図と接続図を振られた。為す術もなかった。

 電気回路についても勉強した。2ヶ月で本に費やした金額は3万円近かった。11時過ぎに帰宅してご飯を作りシャワーを浴びると日付は変わる。そこから勉強を始めて、寝るのは1時半か2時。それでも8時頃には会社に行かねばならないのだがそんな生活サイクルでも慣れるもので、なんとかやっていた。

 それでも実用段階になるには程遠く、本を理解するための本を読むという状況だった。毎日高卒から「〜〜解る?」と聞かれ、答えられないと「勉強してないな〜」と冷やかされる。仕事をしたいのに突如始まる電気回路説法。派遣は派遣で私に同情しておきながら、契約事項で残業出来ずに6時に帰る身分を棚に上げて他人には「○○(私の名前)君は勉強しないとダメっすよ!」と酔った勢いでクダを巻き次の会社へ去って行った。
 11月を過ぎたあたり、配線図の件で不覚にも人前で泣いてしまった。人前では泣くまいと決めていたが、こらえきれなかった。上からの仕事の振り方よりも、高卒の「じゃあいいよ俺やるから」という言葉に自分が情けなくて仕方がなかった。今にして思えばそれ程自分を責める事でもなかったのだが、そんな余裕があるはずもない。その日は帰ってからも涙が止まらなかった。

 翌日、私は明るく会社に行った。部長からは来ないかと思ったといわれたが、笑顔で否定した。そうでもしないとやっていられなかった。でも、それをきっかけにみんなとの距離が近くなり、状況は好転した。かに見えた。

 取締役は誰もが嫌っていた。性格的な事もさることながら仕事の振り方が酷く、自分がやって出来ない事は他人(部下)に丸投げして責任を押しつけるのだ。そんな話を聞くにつけ、暗くなっていると突然仕事が回ってきた。先に書いた携帯端末…がそれで、私の知らない所で担当にされ、納期も知らされず、顔を見れば「まだ出来ないの?」とせっ突いてくる。しかも部長には「勉強のために口出し無用」とか言ってある。それを知ったのはそんな私の状況を見るに見かねた部長からである。
 ネジ止めした基板がお気に召さなかったらしくボロカスに怒鳴られ、言いすぎたと思ったのかその日の午後になぐさめに来たり、かと思いきや次の日にはいつも通り私の知らない所で話を進めていたりと、先が暗い毎日であったし、「空いた時間に装置を1日1個覚えろ」とか言われましたが、毎日毎日誰かの補佐に回るので、常に忙しいピークを渡り歩く私に空いた時間などある筈もなく、無責任な発言に辟易することしきりだった。

 この頃からであろうか。眠れなくなり、帰っては椅子に座って壁を見つめ、涙も枯れ、玄関で足がすくむようになったのは。電話も取れなくなり、家族との連絡さえも一切取れなくなっていた。

 会社内に理解してくれる人が全く居なかったわけではなかった。部長、課長共に温かくいい人であったし、係長も私の状況を理解してくれていた。開発という部署自体、アットホームで好きだった。しかしみんな忙しく、出張も多いので目の届く部分が少ない。自分で何とかするしかない。

 入社して少し経った頃、誰かに「こっちに友達とかは居るの?」と聞かれた事がある。今思えば、友達と愚痴でもこぼしあって息抜きしたらどうだ?、というつもりで言ったんだと思う。確かに「一生懸命やりすぎだ」とよくたしなめられていた。明らかに余裕がなかったのだろう、今も昔も。
 自分の『ものさし』を他人に押しつけるのは悪い事だが、自分の『ものさし』を明示しない事も良くないのではないか。 周りが私に全てを押しつけているのではなく、私自身が勝手に全てを背負い込んでいるだけではないのか。社会とはすべからく生身の人間が相手であり、自分一人で藻掻いてもしょうがない。どうせ誰も分かってくれないと心を閉ざし、助けてくれ、手伝ってくれと口に出さず、伝えずして解ってくれ等と言う方がそれこそ勝手な話ではないのか。

 意を決して、取締役に言いに行きました。


 潰されました。


 会社辞めました。


 先日、母親に会いました。
 涙なんて、とうの昔に枯れたと思っていたのに。


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