2003.02.24 (Mon) 15:57 Viewer: 25 Access: 6389 Letters: 4729 えーっと。 朝起きて、ゲームして、寝ました。 起きたのは12時で、寝たのは次の日の7時です。 ちなみに、15時40分に起きてこの日記を書いてます。 …ダメだ。廃人生活爆走してる。 ゼミの課題はどうした…?
たぶん、風呂にも入っていない。 起きて、ゲームをして、やりながら昼食を摂って、 夕食だけ普通に食べて、 それからずっとゲームをしていた。 毎日徹夜で睡眠時間1時間という人ほどではないが、 それでも、僕は十分に廃人だと思う。 今日は課題をやらないと…。 でもそれ以前に、PCや家から離れるべきかも知れない。
う〜ん。止まってしまった。 他には何もないぞ…。
しょうがないので新聞の話でも。 書いたような気もするが、 先週から、今まで読んでいた朝日新聞以外に 日経も読むようになった。 サンプルをもらえるようになったのだ。 販売店が同じで運が良かった…。 これ、書いた気がする。絶対どこかで書いた…。
それで読み比べたわけだが、 やはり論調を見ても紙面の構成を見ても、 日経の方がよいように思えてならない。 日経の方が高いようだが、それはやむを得ないだろう。
まず、記事の内容が具体的だ。 朝日新聞だと、「韓国の企業が…」という記述しかないところ、 日経にはきっちり「サムスン電子」とか書いてある。 また、内容が公平で冷静だ。 朝日新聞は、どうも自分の社の方針に合うような 記事が多いような気がする。 社説だけでなく、全体的に左寄りなのだ。 父はこれではバランスを欠くと、 朝日新聞と一緒に、朝日新聞に批判的な雑誌も読んでいたが…。 確か、週刊文春だったと思うが。 しかし、あれはあれで、 内容がどうも煽動的であるような印象がある。 雑誌の多くは、内容が刺激的で冷静さを欠く。 視聴率至上主義のようなテレビと同じ問題を抱えているのだろう。 新聞は、よく言えば規模が大きくて安定している。 悪く言えば読者の意志を反映しなくても、何とかやっていける。 そういう意味で、あまり売れる紙面づくりにこだわっていない気がする。 おかげで、今や新聞が一番読み応えのあるメディアになっている気がする。 もちろん、一般の本の中には もっと読み応えのあるものが山ほどあるに違いないのだが。 それにしても、読者の意志を反映しないことで 内容が優れたものになるというのも皮肉なものだ。 これは、結局読者のレベルが低いことを意味するのだろうか。 はっきり言って、バラエティ番組やワイドショーを見ると このような番組を喜んで見る人間の レベルは低いのではないかと疑いたくなる。
新聞に、バラエティ番組を好んで見る人間は、 基本的に批判的精神に富んでいるという論説が載っていた。 番組自体を見ておもしろいと思っているのではなく、 その裏を見て楽しんでいると言うのだ。 つまり、ヤラセであることが分かっていて、 その表現をどうするかってことを楽しんでいると言うのだ。 僕が見る限り、周囲の人間がそんなことを考えているとは どうしても思えないのだが、それはいい。 だが、それが批判的精神に富んでいると言えるのだろうか。 そもそも批判とは、何らかの意見、主張に対して、 自分の意見を述べることだ。 そもそもの由来は、臣下の提出した書類に 天子や大臣が善し悪しの判定をすることから来ているらしい。 つまり、高所からその考えについて見下ろさなければならない。 そして何よりも、全体を見据えた判断が必要なのだ。
さらに言えば、批判は悪口ではない。 日本語として批判を悪口という風に解釈する場合もあるが、 それは違う意味であって、ここで言う批判は、 善し悪しなどについて、論理的・科学的に検討して判定することだ。 否定的な意味に使う場合は確かに多いが、 だからと言って否定的でなければならないわけではない。
バラエティ番組を見て、 一体何を検討しているのだろう? どこが論理的なのだろうか。 それに何らかの意義があるのか。 すべてに、疑問符が付くのではないだろうか。 確かに、バラエティ番組から検討できることは山のようにあるだろう。 話術でもいいし、人間の感情に関する問題でもいい。 でもそれは、あえてあのような形で検討すべきものなのだろうか。 そして、あのような番組から論理的な検討をすることは極めて難しいだろう。 そもそも、番組内容自体が、論理的考察を否定している印象を受ける。 さらに意義だが、これは難しい。 検討課題によっては意義を見いだすことは十分に可能だからだ。 だが、これについては検討課題の選択と同じことが言える。 つまり、あのような形で提示する必要性があるのかどうかだ。
ここで僕が取り上げている問題は、 バラエティ番組を好んで見る人間に、 批判的精神があるかどうかだ。 今まで挙げてきた要因を考えると、 バラエティ番組は、批判するのに適した題材でないと言える。 差別だとか偏見だとか、いじめだとか常識に反した内容とか、 負の意味での批判には適しているのかも知れないが、 結局のところ、このような行為は、やめればよいという性質のものだ。 このような行為を批判することは、批判的精神を養うことにはならないだろう。
だから、結論として、 バラエティ番組を好んで見る人間に 批判的精神があるとは言えないと思う。
確かに僕はバラエティ番組が嫌いだが、 ここで言っているのは、バラエティ番組そのものについての是非ではなく、 バラエティ番組を見る人間に批判的精神があるかどうかということだ。 ちなみに、同じような理由で バラエティ番組を見て批判的精神を養える、ということは否定できる。 これにはさらにいくつか挙げるべき点があるだろう。
まず、番組の構成自体が、 視聴者の考えを1つの方向に導くよう調整されている。 平たく言えば、すべてはオチに向かって収束しているのだ。 このような状況では、多様な考えを持つのは難しい。 さらに、よく言われることであるにもかかわらず 僕が論理的に説明することはできないのだが、 「脳味噌を預けている」という問題だ。 少なくとも僕は、バラエティ番組を見ているときに 字幕などの手段によって、 極めて明確に番組作者の意図を読みとることができる。 そして、それがあまりに明確であるために、 考察の余地がほとんどないのだ。 小説などでよく言われる、自分のイメージというのを 広げる余地がないのだ。 だから結果として、作者の考えをそのまま受け取り、 それについて自分で考えるというコトをしなくなる。 ちなみに、その作者の考えそのものが あまりにひどいとも思う。 どんなに押しつけられたような手段でも、 内容が優れていればいくらでも考えることができる。 例えば、テレビや映画はすべて、 映像と音で伝えるという点において、 バラエティ番組と同じだ。 だが、その内容に天地の差があることは、 誰しもが認めることだろう。
バラエティ番組は優れているが、映画はくだらない? もしそう思うのなら、僕の価値観とは根本的に相容れない。 こんな日記を読むのは、やめた方が良かろう。 だがそれは、 おそらく世の中の、ほとんどの人の価値観とも相容れない。
多くの人は、作者のテーマについて考察の余地が 極めて少ない作品について、強い興味は覚えないものだ。 バラエティ番組に考察の余地があると言っても、 それは上にも述べたように話術や番組内容の倫理的是非、 人間の感情などの問題であって、 番組作成者が提示したものではない。 むしろ、番組作成者の意図しないところで発生した派生的な問題だ。 一方で、優れているとされる映画などの作品には、 強いテーマ性がある。 見て笑えばそれでいいということではなく、 見ている人に訴えるものがあるのだ。 このような作品にこそ価値がある、と考える人は多いだろう。
寝ぼけて書いている割には ずいぶん調子よく書けた気がする…。 やはり、日頃から不満を持っているテーマについては よく書けるものなのかも知れない。 このようなマイナスの感情が 人間の行動に対して大きな原動力となるのは悲しむべきことだと思うが。 だが、人間はもとより、 多くの生物は、マイナス要因から逃げることで存続してきたのだと思う。 食物連鎖の頂点に立つ肉食動物ですら、 飢えという苦しみから逃げるために他の動物を狩っているに過ぎないとも言える。 そう言う意味では、マイナスから逃げることは 生物の本能と言えるかも知れない。 だが、それにとどまらないのが、人間の価値ではないだろうか…。 また、欠点でもある。
マイナスから逃げるだけでなく、プラスを求める。 要するにそれは、欲深いということだ。 良く言えば、環境を受け容れるだけではなく、 それを改善していく意志を持っているということだ。 欲深いと言っても改善すると言っても、 印象こそ違うが、本質的な意味は変わらないと思う。 つまりどちらにしても、環境に訴え、変えていく意志を持っているということだ。 …どうも、中性的な表現にすると、意味をとらえにくい気がする。 人間は感情で意味を把握しているのだろうか。
これが価値だというのは、よく分かるだろう。 人間は、現状から逃げて生き残るだけでなく、 現状を変えて、新しいものを生み出して、 それを蓄積していく能力を持っているから価値があるのだ。 では、なぜ欠点なのか? それは、歯止めが利かないからだ。 逃げるには限界がある。 もっとも安定するところに落ち着けば、 環境が変わらない限り、そこにとどまればよい。 だが、環境を変えはじめると、それには限界がなくなる。 もっと良くなるはず、まだ改善の余地がある、 と言って、いくらでも進んでしまう。 それは何度も言うように、価値でもあるのだが、 欠点とも言える。 目的のために、他のことを見落とすからだ。
でもそれは、人間の能力的な限界なのだから 仕方のないことだろう。 できることは、なるべくいろいろなことを見落とさないようにして、 自分の行為で、逆に環境を悪化させないようにすることくらいだろう。
ちなみに、ここで言う環境は 一般の環境であって、地球環境ではない。 つまり、宇宙も社会的な状況も、自分の体調も含む。 自己以外のすべてだ。 自分の周囲を取り巻く状況、と辞書にはある。 システムに置ける環境の定義をご存じの方は、 それを想起していただいてもいい。 「システムは、要素とそのつながりからなる全体である。 要素がつながり合うことで要素単独ではできないことをする。」 というものだ。 そして、要素とそのつながりからなる全体以外のすべてを環境と呼ぶのだ。 例を挙げれば、 コンピュータは、ディスプレイやPC本体、キーボード、マウスからなるシステムだ。 これらは相互に接続されて、仕事をする。 それら単独では、文字を入力して処理をして表示をする、 という一連の作業をこなすことはできない。 すべてを配線で繋いで、初めてそういう仕事ができるようになる。 そして、そのコンピュータの外部からキーボードを叩いたり、 ディスプレイの文字を読みとったりする僕が、「環境」なのだ。 ちなみに、僕自身をコンピュータシステムの一部と考えれば、 環境から何の刺激もないにも関わらず、 勝手に日記を書いてしまう自動システムとなる。 コンピュータだけでは、環境から何もされないのに 何か仕事をするということは、通常ない。 あらかじめある時間に何かをするとセットされていれば別だが、 それは別の時間に環境から影響を受けたと考えられる。 ちなみに、環境は外部と言い換えると分かりやすいかも知れない。
起きて2時間ほどなのに、もう眠くなってきた。 なぜだろう…。
マイナスから逃げるだけでなく、新しいことを求めるのが人間の価値。 最初に結論を言うと、最後にどうすればいいのか困る…。
2003.02.24 (Mon) 17:25
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