Seakの日記
日々感じたことを書き留めていこうと思っています。

2003年07月15日(火) 例、例、とにかく例を!

例示は、意思伝達のおいてきわめて重要な手段である。何かを説明しようと思ったとき、例示はきわめて強力な手段になりうる。

僕も、いろいろな場面で例示を心がけてきた。たとえば、この日記でもそうだ。抽象的なことをいくら語ったところで、具体的なイメージを伴わなければ心には響かない。それだけならいいかも知れないが、こちらの意志が相手に伝わらないとなると問題だ。

これは何も僕だけの意見というわけではない。18世紀のイギリスの哲学者、Edmund Burkeは語る。

「例は人間の学びの場である。他の場所では学ばない。」

さらに、医師・哲学者・宗教家・音楽家であるAlbert Schweitzerは

「他者に影響を及ぼすものの中で例がその代表というわけではない。例のみが他者に影響を与えるのだ。」

と述べている。また、20世紀最大の理論物理学者、Albert Einsteinはこう言っている。

「例は物事を教えるときの数ある方法の1つではない。教える方法はこれしかないのである。」

例の重要性はあえて言うまでもなく、説明するとなると、ありとあらゆる分野で用いられる手段だ。たとえば数学の教科書も多くが例で構成されており、数学を学ぶ早道は例題を何度も解くことだといろいろな人から聞いた。それが真実かどうかはともかく、例題を多く解くことで数学を修得した人が多くいることは確かだ。

だが、例示を嫌う世界が存在する。あらゆる世界の中でもっとも人に理解を求め、また、人が理解することでもっとも知的な価値があると思われる世界である。

それは学会だ。と言っても、僕が知る限りだが。僕が知る限り、学術文書は多くの場合、例示を嫌う。「たとえば」や、「など」という言葉を禁忌として嫌う場合が少なくない。いや、まともな学者ならみんなそうだと言っていいかも知れない。何度も言うが、あくまでも僕が知る限りでは、だが。理由は明白だ。例示は、すべてを示さない。当たり前のことだ。抽象的なものから、具体的な一部分を取り出して説明するのが例なのだから。数学の公式について述べたあと、その公式を用いた例題を解く。例題は公式を用いているだけで、公式のすべてを語っているわけではない。1つの公式には多くの使い道があるし、そこからいろいろと発展する。例題は、その中からたった1つを選び出しているに過ぎない。このように、すべてを示さないから例を嫌うのだ。正確ではないとのことだが。

僕には、それが理解できない。学術文書は、難解なのが普通だろう。慣れた人だって、サッと読んですぐに理解するのは難しいに違いない。難解な文書こそ、例を使って分かりやすく示すべきである。人間は一度に全体を理解できない。まずは部分を取り出して、イメージを持たせなければならないはずだ。それが、最初に述べた先人たちの言葉の意図のはずである。

理解できないはずの学術文書の常識。これを理解したとき、僕はまた1つ、妥協を学ぶのだろう。


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