今日、僕は研究室のメンバーと、研究室の床を引っぺがして配線工事をした。英語学習システムの実験のためにPCを並べなければならないらしい。なんか毎日論文ばかりで疲れているので、そういう雑用をやっているとなんだか嬉しくなってしまう。人間、やはり頭ばかりよりも体を動かしたほうがいい。論文にしたってそうかも知れないが、結局、何らかの形で動かなければ、頭の中で考えているだけでは、何も変わらないのだ。僕は永遠に変わらなくてもいいと思っているが、一般にそういうわけにもいかないだろう。たとえ変化を望まなくても、自然は時間とともに変化する。最低でもその変化に対応しなければならない。しかし、最近の変化は急すぎる。どうしてそれほどまでに懸命に変化を追わねばならないのだろう。なぜみんなで必死に走らなければならないのだろう。政治の世界を見ているとしみじみと感じる。保守の政党が必死に変化を訴えているのだ。基本的に保守的な考えの僕としては、なんだか気に入らない。
マニフェストが大流行になって、各党がさまざまな主張をしていた。その中で、僕は共産党の主張がもっとも保守的であるように感じた。憲法を変えず、消費税も上げず…、という感じで。革新派の野党のはずなのになんだか変だと思ったが、それはそれとして、一番僕にとってよいと思う主張をしているのが共産党だったので、共産党に一票を投じた。実は、国政選挙は初めてだった。県知事選のときは僕が投票した候補が当選したが、今回の共産党候補は見事に落選。まあ、自由党の幹事長がいたんじゃ仕方がないか…。と言っても、次点でもなく、5人中4番目だったのだから、まあ、惨敗だろう。比例代表も党首のみというなかなか散々な結果になっていた。各論に賛否はあるにせよ、総論では自民党か民主党のどちらかというのが国民の総意なのだろう。マスコミがあおった結果という気がしないでもないが、今のところ選挙より公平な手段はない。国会議員だけでなく、国民であり有権者である僕も、その結果を受け容れねばなるまい。まあ、自民党だって民主党だってそれほど嫌いなわけではないのだ。どこぞの独裁政権なんかより100倍マシだし。これから政治はよくなるのだろうか。どれだけ小泉さんや菅さんががんばっても、希望的観測を持てないのはやはり報道のせいだろうか。まあ、希望しか語らない報道なんて信用できないことこの上ないが。マスコミは、矛盾の上に立っているのだ。真実を報道しなければならない。政治を批判しなければならない。社会的な正義を貫かねばならない。基本的人権は守らねばならない。数々の命題はそれぞれに矛盾をはらんでいる。もちろん、こんなことはマスコミに限ったことではないが。たった一つのことを目的にしている集団などまずありえない。いくつかの目的があって存在し、その目的はそれぞれ矛盾しているのが普通なのだろう。きっと。大学だって研究と教育が大きな目的だが、限られた資源をどちらかに投入しなければならないのは、ある意味矛盾と言える。
まあ、世界がどう変わろうと、政治がどうなろうと、僕は日々の生活を送っていくしかないのだ。確かに僕には世界を変える力があるのかもしれない。その気になれば人一人でも世界は大きく変えられるのかも知れない。でも、今のところ卒論に追われて世界を変えるひまなどないのだ。たとえその能力が僕にあったとしても、僕にその能力を発揮する時間などない。僕だけではない。限られた学生を除く多くの人たちが、僕と同じような状況にいるのだ。力はあるが、時間がない。考えるゆとりもない。体験的に推察するに、余裕こそが何かをやり遂げる力の源だ。余裕を持っているからこそ、人と違うことが考えられる。ギリギリでこなしていては、できることもできなくなるというものだ。ただ、今の時代は誰しもに余裕がない。ゆっくりと世界について考えるひまなどないのだ。こんなに重要なことなのだから誰かが考えてくれるだろうと思っているかもしれない。もしかしたら考えている人もいるかもしれない。でも、考えるだけではダメなのだ。行動に移さなければ。そして、現実に制約された現代の人々は、そんな行動など起こせない。絶対に。仮に行動に移すと決断したとしよう。すべての現実的な制約を振り切ったとしよう。仕事もやめて、家族も捨てて、十二分な資金を用意したとする。人脈もあり、体力も権力もあったとする。だが、一体どうやって世界を変えるのだ?そんな方法などありえないではないか。