Seakの日記
日々感じたことを書き留めていこうと思っています。

2004年12月03日(金) フードファディズム

フードファディズムとは、食べ物が健康や病気に与える影響を誇大に信じてしまうことだ。『「食べもの情報」ウソ・ホント』という本を読んで、この考え方の存在を知った。

事例を挙げるとわかりやすいだろう。Wikipediaフードファディズムの項目によると、「砂糖とカルシウム不足伝説」、「炭酸飲料で骨が溶ける伝説」などが挙げられている。砂糖とカルシウムはともかく、炭酸飲料の方は、あきれるような論理展開だ。なんと、炭酸飲料に魚の骨を入れると溶けるから、炭酸飲料は骨を溶かすのだそうだ。あきれて物も言えない。一応解説すると、飲んだものは消化器官で消化されてから吸収される。したがって、骨を溶かすものを飲んだからと言って骨が解けるわけではない。第一、酸性の度合いで言えば炭酸飲料よりもレモン水やオレンジジュース、グレープフルーツジュースのほうが高く、さらに胃酸の強さはそれらをはるかに上回る。もし炭酸飲料で骨が溶けるのならば、その前に胃酸で骨が溶けているはずだ。

これほどひどくはなくても、ファーストフードが体に悪いという意見を聞いたことがある人は少なくないだろう。もっと一般化すれば、天然や自然のものは体に良く、人工や化学のものは体に悪いと言う意見を聞いたことのある人は少なくないと思う。しかしその根拠を考えてみると、はなはだあいまいであることに気づくはずだ。ファーストフードを考えてみると、そもそもファーストフードの何が体に悪いのかが分からない。まず、ファーストフードの原材料を考えてみる。ハンバーガーの場合、パンと牛肉と言っていいだろう。で、パンと牛肉の何が体に悪いのだろう。それとも、調味料だろうか。化学調味料だから体に悪いのだろうか。

ということで、天然と人工について考えてみる。で、いきなり壁にぶち当たる。いったい何が天然で、何が人工なのだろうか。ここでは、自然にあるものをなるべくそのまま利用しているものを天然とし、精製や加工を行っているものを人工としよう。おそらくそれほど一般的な概念から離れてはいないだろう。

化学調味料の中で一番有名なのは、おそらく味の素だ。これは、僕の記憶違いでなければグルタミン酸ナトリウムという物質が主成分だ。これは、小麦を精製して取り出すことによって作る。さあ、ここで問題だ。僕の知る限り、この工程では何一つ加えてはいない。ただ、必要な物質以外を取り除いただけだ。そもそも精製とはそういうものだ。では、こいつの何が問題なのだろう。脳に悪いと言われるが、小麦を食べて頭が悪くなるなど聞いたことがない。精製するだけでだめなのだろうか。精製すると純度が上がるから、たくさん取り過ぎてしまうのだろうか。それなら、量を減らせばいい。量が多いと問題なのは、何も化学調味料に限った話ではない。世界で一番有名な天然の調味料である塩だって、取りすぎれば高血圧などの原因となる。だいたい、塩だって物質名は塩化ナトリウムという立派な物質だ。有機物と無機物と言う意味では、グルタミン酸ナトリウムとはまったく違うものだが。

そう言えば、有機は良くて無機はダメ、という考え方もあった。その考え方で言うと、化学調味料は良くて塩はダメと言うことになる。つまり、論理展開につながりがなく、言っていることに無理があるのだ。

これは一例に過ぎない。科学的な根拠があったとしても、過大な評価を行えば、それはフードファディズムとなり得る。ビタミンが体にいいと言って、ビタミンばかり摂取するような場合だ。ビタミンが体にいいというのはあまり適切でない。どちらかと言えば、ビタミンが不足すると体に悪いと言うべきだ。ごく普通に活動するためにビタミンが役立つのであって、特殊な効果があるわけではないのだ。だから、不足さえしていなければ、あえてたくさん摂取する必要はないのだ。

フードファディズムに限った話ではないが、最近の短絡的な議論には、ことごとくバランスという視点が欠けている。一つのものに着目するとき、他のものを無視してしまうのだ。他のものを低く評価するなら、まだ理解できないこともない。食品の場合はバランスの良い栄養素の摂取が重要だが、他の問題なら、何か一つ重要なものがあって、他は重要度が低いかもしれない。しかし、考慮すらせずに無視してしまうのは問題だ。

結局のところ、この種の議論は視野が狭いという結論に帰結する。物事について考えるときは、どんなものがその物事に関連するのかを考えるのが普通だ。人間の健康について考えるとき、人間の食事として食品を考えたりすることが例として挙げられる。このとき、何の前提もなければ、特定の食品だけが健康に大きな影響を与えると考えるのはおかしい。いろいろな食品が、それぞれ影響を与えると考えるのが自然だろう。そのあとで、特定の食品に強力な証拠があれば、それからその食品について考えていくべきなのだ。ああ、しかしフードファディズムの考え方の場合は、強力な証拠を捏造してしまうのか。つまり、捏造を見破る目が必要になるわけだ。もっとも、「他の食品はどうなってるの?」というバランス感覚さえあれば、違和感を感じるはずだが。

さて、このフードファディズムの議論だが、きわめて大きな問題点がある。それは、現実的な視点に欠けているということだ。安易な食品の過大評価を批判しているわけだが、なぜそんなことが起こるのか、という視点が欠けている。マスメディアや商品を売る側が悪い、と言うだけでは済まない問題なのだ。では、消費者の頭が悪いのか。確かに、そういう一面もあるだろう。しかし、「頭が悪い」なんてとても論理的な考え方で導き出した答えとは思えない。他にあるはずだ。

それが、「現実」という問題だ。フードファディズムの問題は、あくまでも科学的な議論だ。つまり、モデル化した理想状態を論じている。現実問題に対応できていないのだ。「三食をバランス良く」などということがお題目に過ぎず、現実的に不可能なのは多くの人が感じていることだ。著者は高校生の息子を例に挙げていた。確かに、高校生ならできるかも知れない。しかし、例えば僕のような理系の大学院生の場合、三食キッチリ調理して食べることなど不可能だ。フードファディズムを主張する人たちは、駅のホームを歩きながら食事するという実態を、果たして考えているのだろうか。東京や新宿の駅を見るがいい。多いとは言えないが、少なくもない人が、ホームや駅構内で食事している姿が見られるだろう。その人たちのすべてが、単に好きでそんなところで食事をしているのだと思うのだろうか。そんなわけはない。時間がなくて、駅しか食べる時間を確保できる場所がないのだ。野菜ジュースの話を見て、最初に上げた本の著者が、この現実を理解していないことが読みとれた。

その本の著者は、野菜ジュースは野菜の代わりにはならないと述べている。検証したわけではないが、事実なのだろう。重要なのはその先だ。「だから野菜を食べよう」というのは非現実的だ。野菜を食べる時間がない場合にいかに問題を解決するかという視点が不可欠なのだ。だが、この著者はそれ以降の進展がない。この場合必須なのは、「では、野菜ジュースは野菜と比較してどれほど劣っているのか」という議論だ。劣っているという表現に問題があるならば、栄養素の含有量の比率を示しても良い。まさか、野菜を野菜ジュースにしたからと言って、すべての栄養素がまったくなくなってしまうということはないだろう。野菜ジュースを野菜の代替にせざるを得ない人が現実に存在することは、想像力を働かせれば容易に分かることだ。これは望んでそうしているのではなく、あくまでも妥協だ。しかし、だからこそ栄養状態に問題があるわけで、栄養摂取により気を使わなければならないのだ。三食をキッチリ食べられる人なら、栄養摂取に気を使うことなどあまりないはずだ。これは、著者自身が言及していることだ。重要なのは、そんな恵まれた、理想的で、多忙な社会人から見れば非現実的な議論ではないのだ。食生活に問題のある人こそ、栄養について気を使うべきなのだから、彼らに対する言及があってしかるべきではないだろうか。現実を見据えていない議論など、専門家の自己満足に過ぎないのだから。


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