僕は今まで、朝日新聞がそれなりに売れているのだから、その内容もある程度支持されているのではないか、と思っていた。ところが、インターネットの掲示板などを見るとそうでもないことが分かってきた。
朝日新聞の内容は、今の世の中一般から見ると比較的偏った内容だと思われる。朝日新聞だけを見るとそうでもないように感じるが、世の中にはもっと国家を軸に据えた考え方をする人が多いのだ。彼らの主張は、平たく言えば現実主義ということになるだろう。戦争反対と言うのは簡単だが、現実問題として北朝鮮の脅威が存在する、と言った主張だ。今も日本にミサイルを向けている国に対して、「戦争はよくないから話し合いで解決しましょう」などという考え方は甘い、という意見は分かりやすく説得力がある。論理的に正しいかどうかは改めて考え直す必要があり、こんないい加減な文では何とも言えない。しかしながら、感情的に強く訴えることができる。
また、朝日新聞の論理の最たる部分は、一人一人が幸せなのが一番じゃないかということになるだろう。これだけ見ればもっともな気もするが、意外と理解されにくい。と言うのも、現実はそんなに甘くはなく、「みんなのために、一人一人が我慢しなければならない」というのが現状だからだ。だから、みんなのためにそれぞれは犠牲になって、国家をもり立てていこうとする考え方が支持されるのだろう。
しかし、僕はそうした考え方を好きにはなれない。それは、一人一人が自分の生活をしていくと発想ではない。みんなで力を合わせて勝利しようという発想だからだ。一人一人であれば、それぞれが食べていければそれ以上望むことはないだろう。もちろん、人によってはいろいろと望むこともあるだろうが、全体として一定の方向へ流れていくような考え方ではない。しかし、みんなで力を合わせるとなると、必ず目標が必要となる。みんなで幸せに、なんて曖昧な目標ではダメだ。指導者も含めて、誰にも理解できないからだ。より具体化が可能な目標が必要となる。つまり、何かを獲得したり、何かに勝利したりする必要がある。何かを得ること、何かに勝利することには快感を伴う。嫌いな人は少ない。だから、これなら支持される。
しかし今の世の中を考えると、何かを獲得したり何かに勝利することは、必然的に奪われる者、敗北する者を生み出す。勝者が敗者を生み出すのは自明だ。では、獲得することが奪われる者を生み出すとはどういうことか。世の中には、誰のものでもないものはたくさんある。自然環境と言い換えてもいい。そこから何かを獲得する分には、誰にも迷惑をかけないはずだ。しかし、今の地球環境を考えてみれば、地球から資源を獲得することは将来の自分たちに必ず問題を引き起こす。将来のことなんて考えないならどうでもいいが、ただみんなをまとめるために資源を獲得するのでは意味がないだろう。そりゃ、資源があれば嬉しいだろう。しかし、資源を獲得することは生活のための手段であるべきだ。資源を獲得すること自体を目的化して、たくさん手に入って嬉しいな、なんてやっていたら自然環境はどんどん崩壊していく。
だから僕は、あえて団結して、必要のない目標をうち立てる必要などないのではないかと思う。今の世の中で、例えば他国に勝利する必然性などないし、あえて多くのものを奪い取る必然性もない。まあ、そんなことは僕が言うまでもなく分かり切っているのだが。日本は目標を失ったなんて、別に珍しくもない意見だ。こんなときまで必要のない力を合わせて、組織のために多くの犠牲を払う必要などあるのだろうか。
目標があるから力を合わせるのだ。特にやることがないのなら、未来を見据え、一人一人の力を高めることを考えるべきだ。そしてそのために、国家やその他さまざまな組織のために犠牲になってきた一人一人のことを考えるべきだ。人間の社会は、社会のためにあるのではない。人間のためにあるはずなのだ。今こそ社会ではなく、人間のことを考えなければならない。