「 未来は現在と同じ材料で出来ている 」
シモーヌ・ヴェイユ ( フランスの思想家 )
The future is made of the same stuff as the present.
Simone Weil
ある日を境に、運命が好転することはある。
ただし、それは 「 十分な準備を重ねてきた者 」 にかぎった話だ。
総裁が代わっても、あるいは政権与党が代わっても、人並に努力しない者が報われたり、悪が善と評価されることはない。
大半の人は、それを理解しているので 「 努力して好機を待つ 」 わけだが、一部の不心得者は、何もせず怠惰に時を過ごし 「 奇跡 」 を待っている。
冒頭の名言が示す通り、過去の 「 不良品 」 で未来を作ろうとしても、そこで生まれる製品は、やはり 「 不良品 」 以外の何物でもない。
指導者が代わることによって、多少は処遇の違いが現われるかもしれないけれど、粗悪な品物が一級品として扱われることは、現実的に有り得ない。
大事なことは、「 不良品が冷遇されない社会を待つ 」 ことではなく、自らの品質を改善することだという意識を、誰もが持つべきではないだろうか。
国政に不満のある人の声を聴くと、なかには 「 なるほど 」 と納得する内容もあるし、逆に、ちょっと首を傾げたくなるものもある。
たとえば、しきりに 「 格差社会 = 悪 」 という表現を使う御仁がいて、格差の無い社会こそ、理想郷のように考えておられるようだ。
大企業や、お金持ちを目の仇にし、それが公正な競争の結果であっても、成功者を妬み、彼らに多額の徴税を強いるべきと持論を展開している。
歴史認識があれば、「 ソ連や共産主義諸国が、どんな末路を辿ったか 」 を知らないはずはないと思うが、とかく 「 競争 」 や 「 格差 」 を毛嫌いする。
では、競争や格差の無い社会が、本当に 「 素晴らしい理想郷 」 なのか、現在、不遇な人までが実際に救われるのか、検証してみればよい。
まず、個人の所得に格差が無くなると、他人より優れた仕事をしようとする 「 励み 」 を失い、社会全体の労働生産性は確実に低下する。
では、怠け者は楽ができるかというと、まったく逆で、格差の無い社会では、お金があっても、病気でも、誰も 「 特別扱い 」 は許されない。
格差社会だからこそ、生産性の低い人間を高い人間が補えるわけで、所得が同じということは、当然、仕事量も同じものを要求される。
全体の労働水準が低ければ、国際競争力が低下するし、高ければ、脱落して 「 粛清 」 される対象者が数多く発生する。
脱落者を社会保障で救済することにし、企業に多額の納税を強いたなら、ただちに優良企業は本拠を海外へ移し、自動的に優秀な人材も流出する。
格差の無い社会では、企業間競争もなくなり、他社よりも良質で低価格の商品を生み出す経済活動もなく、消費者は苦しい立場に追い込まれる。
ざっと考えても、このように 「 格差が無くなること = 善 」 とは思えず、弱者救済のための福祉は必要だが、強者をイジメることは逆効果である。
格差に対する疑問を並べる人の大半は、ごく私的なレベルで、自分の所得や社会的立場における 「 格 」 に、不満があるだけのケースが多い。
その証拠に、「 格差社会はけしからん 」 と叫ぶ一方で、自分の子供は小中学校から私学に通わせ、格差的な恩恵を受けようとする矛盾もみられる。
つまりは、「 格差社会に問題がある 」 のではなく、「 恵まれた環境にある誰かが得をし、そうでない自分が損をしている 」 ことに不満があるだけだ。
格差を無くすことが重要なのではなく、平均的な生活への格差を感じている低所得者層の底上げが、真の課題であることに気づかねばならない。
その手段は、国費、税負担による福祉や、同情、憐憫などの優しさだけでなく、「 常識的な厳しさ 」 も必要となるが、今の社会にはそれが足りない。
希望を託すのは悪いことじゃないが、政治家だけに問題の解決を求めず、自らの苦難は自分の力で乗り越える気概を、各人が持つべきである。
たとえば、明日からの 「 三連休明けの出勤 」 を、憂鬱だな、面倒だなぁ、などと愚痴っているようでは、明るい未来など創造できない。
今の自分を変えれば、未来の自分も変わるし、皆が少しづつ努力すれば、格差社会の不安も解決することを、忘れてはならないだろう。
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