| 2003年01月06日(月) |
デビット・ゾペティ『いちげんさん』 |
話題の本!というものに、とびつくのはなんとなくミーハーな気がしてあまのじゃくな私は気が引けるのですが、ほとぼりが冷めた頃、こっそり読んでみることがあります。 『ノルウェイの森』で、国家一種にうかった、あの先輩の言っていたことば 「時代の洗礼を受けた作家しか信用しない」 みたいな。 まあ、そんなかっこいいポリシーではないけれど、少し時間が経って、それでも私の心に手に取りたいという気持ちがまだある本だけ読んでみます。
デビット・ゾペティ『いちげんさん』は1997年の出版。 留学生が京都でであった全盲の京子とのはかない恋。
作品としての興味というより、日本語を外国語として用いて小説を書いた、ということ、そとから見た日本というものに対する興味から気になっていた作品です。 だから、読む側としても「外国人らしさ」みたいな、ものをある種期待して読んでいたんだと思います。 そして、私の思い浮かべる「外国人らしさ」(たとえば、日本の寺社仏閣、歴史的なもの、日本人のなかに根づく謙遜やていねいさ、繊細さみたいなものに対する賞賛)が感じられる箇所は 「いかにもだなあ」 なんて、思いながらもまんざらでもなかったりして。
日本文学を専攻する主人公は何よりも読書が好き。 作中では谷崎潤一郎や田山花袋、樋口一葉なんて、嬉しくなっちゃうようなジャパネスクな作家の作品をさらっと登場させます。 京子は生まれながらの全盲ながらも「目が見えないから」という理由を嫌悪し、はつらつと前向きにものごとにチャレンジしていく。 本を読むことが好きだが点訳されたもので、文学作品はあまりにも少ないため、朗読者を探していて主人公に出会います。 そして、ごく自然にふたりは恋人になります。
と、まあ、なんとも「らしい」感じに、少々がっかりだったんですが、中盤から終盤にかけて、この物語の奥にひそやかに隠された本当のメッセージに気づき、この作品が書かれた本当の理由を知ったように思いました。
「見られる」ということ。 日本に外国人が暮らすということは多くの目に晒されることです。 「日本人は親切だ」とよく言われますが、それも「外国人だから」という特別視がなきにしもあらず。 そうでなくても、あからさまさ差別や偏見が根強く残っている。 それはすべて外国人というフィルターを通して見ているから起こるもの。 主人公は始めいかにも日本的なもの、控えめなものに心とらわれて京都に暮らし出しましたが、最終的には京都が特に強く持つ日本的だからこその「外に対する特別視」に耐えられなくなります。 そして、京子は「見られない」という点で彼にとって救いだったのです。
私も見てしまいます。 内と外を区別してしまいます。 日本的な感覚や感情をすごく大切にしていきたい、と思う一方で、その根底の部分でつながっている差別にもつながるような、外に対する特別視を排除する必要を強く感じます。
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