きよこの日記

2003年07月20日(日) 道徳の先生

最近、私が思うこと、「私は道徳の先生になりたいのかもしれない。」

道徳のイメージ。
時間つぶし?
何やったっけ?
いつまんない。
かたくるしい。
言うまでもない。

こういうイメージでOKだと思う。
むしろ、道徳は、目立たないからこそ、とても大きな意味がある。
そして、道徳は道徳の時間だけが道徳ではなく、どの教科の時間にも根底を脈脈と流れるものでなければならない。

よく、道徳的価値を授業に取り入れることを「種をまいておく」というように表現する。
例えば、授業中、問題の答えを間違えた生徒を、くすくす笑うということがあったときに、
「失敗を笑わない!間違ってもいいじゃないか」
と、笑った生徒を注意することは、「弱いものいじめをすることは絶対によくない」という価値観の種をまくことで、その後、いじめの問題が起こるときの予防線となる。

この「種をまく」ということは、言い換えると、「常識を教える」ということかもしれない。
今の学校で、中学生に接していて、その常識のないこと、道徳的なことを知らないことに驚かされる。
例えば、「人のために働くことは尊い」ということを、まったく知らないわけではありません。
表面的に、知識的には知っています。
でも、それは実感の伴わない、脆弱なものです。

私は、学校生活の中で、いろんな体験をとおして、ひとつひとつ常識を身につけていってもらいたいと切に思います。

私自身を顧みたときに、学校で常識をすごく教わった気がしている。
私は親を拒絶していたし、親も私のやることに口出ししなかったから。
すべての常識は学校で教わった。
とくに、高校時代に教わった。
その高校はカトリックの学校で、精神性というものを非常に大事にしていた。

道徳は「宗教」という名で、聖書をテキストに、キリスト教的世界観を学んだ。
聖書、というと、1週間で神が世界を作ったりとか、エジプトからモーセが脱出するときに海が割れたりとか、
「ありえないからー」
っていう話もよくあるのですが、いいんです。
聖書は科学的に読むものではないので。
寓話ですから、その話の奥にこめられたメッセージを読み取ることが大事なんです。

キリスト教は性悪説です。
人間は、神の言いつけを守らず、エデンの地を追放されました。
人間は原罪を抱えた、ちっぽけな弱い存在なんです。
だけど、「求めよ、さらば救われん」
自分の否を認め、悔い改めれば、救われる。

だから、徹底的に自分という存在を見つめます。

人と比べることではなく、良心や規範というものを自分の中に打ち立てること、それができれば、人としてまっとうに生きていけるでしょう。

私は、こういう力をつけてあげたいと思うのです。


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