オレンジ色の間接照明も入っている午後9時過ぎのカフェは、しっとりと穏やかな空気とカフェラテの香りに包まれていた。
雰囲気に少し気を許してか、半年に気を緩めてか、今まで封印してきた話が出てしまった。
メガネを左手で外すくらい短い間だけ、表情が嫉妬(しっと)に狂った。
数年前にもなる、歌舞伎町で、お洒落なカラオケ屋で、ほんの10分ぐらいだけの逆ナンパの話をしたからだろう。
メガネをティッシュで拭(ふ)くくらい話し終わってから時間があったから。
言葉を続けた。
麗しい黒髪の、その下の美しい眉ラインの、透き通るような白肌の、その下のドロドロどす黒い粘液を清流に換えようと。
その時はクリーム色に近い金髪だったし、コンパだったからまともな服も着ていたし、今はもう着ないし、黒髪から変える気はないし、もうずいぶん年を取ったよ。それにもう君しか見ていないんだから。
だけどね、
彼女のどす黒い粘液が言わせる。
うん、分ったわ、
彼女の純白のドレスに映(は)えるもち肌が言わせる。
必死に戦っている黒髪の君がいじましいと感じる。
加齢と共に肌の色がくすんできて、粘液が段々主導権を握るのを眺めたい、と感じる。
目じりの小じわも増えるだろう、隠しようがなくなる首周りの皺(しわ)もみ続けていきたいと感じている。
「なぜ、あなたは一時的な満足感で人生という長い期間を誓い合えるのかしら、私には不思議でならないわ。どうしても。」
「そうかもしれないけれど、今を生きると言うのは、実は生きるというのはそういうものじゃない。一瞬一瞬の積み重ねでしかないんだよ。」
「私にはあなたのその自信が羨(うらや)ましいの。親と周りの人間とあなた自身が一緒と疑わない、その傲慢(ごうまん)のような自信が。本当に羨ましくてしょうがないの、だって私には持てないものですもの」
「人は人だよ。そういう風にインプットされているんだ。人類が緩やかな一夫一妻制をとるのは直立二足歩行と妊娠期間の長さなんだよ」
「その通りよ、それは解っているの。けれど、種と個の違いはあるのよ。私は私の感覚からどうしても不思議に感じてしまうし、自信が持てないのよ。」
「君の内的な感覚は感覚でしかないじゃないか。最終的な決定が内的な感覚に頼れば、一貫したものは一生得られないし、霧散してしまうだけだよ。それだけは気をつけて欲しい。」
「・・・判ったわ・・・」
「じゃあ・・・」
「ありがとう、じゃあね、体を大切にしてね」
「うん、こちらこそ。クサイけれど出会えて本当に良かったよ」
「私もよ」
思い出していた、数年前の女性を。
この目の前の肉体の塊(かたまり)は、揚々として朽ち果てていくだけの外見のメンテナンスや化粧やらに1日2時間以上もかけている。無意識に対価を要求し、外見の醜い女よりも傲慢だ。そうだまさに傲慢なのだ。
もう、治まりかけてきた。
バックやら靴やらを買い与えれば、その本能のままに気分が晴れる。だからこそ、彼女を選んだのだ。
忘れられないのかもしれない、数年前の女性を、何故なら全く正反対なのだから。
忘れてしまっているのかもしれない、数年前の女性を、何故なら全く正反対なのだから。
右唇横の小さな黒子(ほくろ)だけが、唯一の共通点だと思っている。
目の前の黒髪の君は疑わない、永劫の約束を、親を友達を
目の前の黒髪の君は見ようとしない、離婚率が最も高いと40%を超えることを
目の前の黒髪の君は考えようとしない、加齢という現象を精神的には
目の前の黒髪の君は足掻(あが)こうとはしない、自らにないと思われるものを
もう後10分で、閉店時間になるから店員が声をかけに来るだろう。
それまで、もう少し言葉を続けよう、君のその豊かな漆黒の長髪の、そのたゆたう様をを眺めながら。
今まで付き合ってきた中で最も好きなのは君だけなんだよ。
知っているだろう? もう、何度も何度も言ってきたじゃないか。
抱きしめて、そしてキスをして、頭を撫(な)でながら、見つめ合いながら
どうして好きかって?
そんなのに理由はないよ、君だけなんだよ
たとえ君の豊かな髪を切ってショートにしたって、交通事故であるけなくなったって、君の側にずーっといるよ