辛い事があって、この世を憎んで全ての人がいなくなればいいと思った。
苦しい事があって、身の回りを壊しつくして全ての人を殺そうとさえ思った。
けれど、それは1つ1つの関係を間違っているだけ。
辛い原因はこの世の全てではないし、苦しいのは何も自分だけではないのだから。
だから、その1つ1つの関係をきちっと分けて行こうと思っていたんだ。
透明のふわふわとした風のような塊を両手を大きく振って分けていくと1つ1つは少しだけはっきり見えてきた。
やっと僕は気持ちよくなって、辛さや苦しさに耐えられるようになってきた。
そうすると、意外と人生も悪くないな、いや周りの人と一緒にいるのも結構楽しいかもしれない、って思うようになったんだ。
そう思っていると、また風のような透明のふわふわとした水母(くらげ)がどこからともなく漂(ただ)よってきた。
面倒くさかってけれど、最初よりは上手く分けて行って友達や親やお金や恋人なんかを少しはっきり見えるようになったんだ。
けれど、少しはっきり見えてきたのはただの錯覚だった。
両手を大きく左右に振り分けた後には、別の、もっと透明なふわふわとした氷のような塊が入り込んできただけだった。
氷だから空気よりも少し見え方が違っただけだったんだ。
それを知って愕然(がくぜん)として、前よりも焦って焦って、辛くなって苦しくなったりもした。
けれど直ぐに褪(さ)めた僕にも気がついた。
「どうせ、これでいいんだ」ってね。「これが幸せってものだよ」ってね。「もう諦(あきら)めたらいいよ、だって皆幸せそうじゃないか」ってね。「また、あの社会不適応者に戻るのか、皆に迷惑かけるだけの、それって結局若いから許されるんだろう」ってね。「もう、お前は安住の地を見つけられるし、それは歴史が保証してくれているじゃないか」ってね。
僕は、その内なる声を振り払うように、無視するように、動力にするように思いっきり両手を振り払って払った。無理だと判ると浮浪者のダンボールを使って、捨てられていたマックのゴミ袋で大きく振り払ったんだ。
少しづつ透明なふわふわとした氷を払い出せるようになって、コツをどんどんマスターしていった。
マスターしていくのはとても気持ち良かったから、自分の周りからは完全になくなるまで頑張った。
恋人を抱き寄せてキスをする距離なんて当然で、6畳の狭い部屋の端から端までは充分に、昔行った小中学校の教室ぐらいの広さまで完全になくしたんだ。
けれど、またはたと気がついた。
あの嫌な直観が、ゴキブリが、カサッと部屋の隅(すみ)でささやく瞬間を捉えるようなあの嫌な直観が、僕を襲ったんだ。
今度は氷のような鋭さじゃなくはんぺんのような生々しい透明な塊だった。
やっと仕事から帰ってきた僕は、狭い暗い6畳で一気にへたりこんでしまった。
やっと手に入れたこの部屋が、世間によってやっと許されたような、つまり自分は働かないと全く価値が無い人間じゃないかって罵倒されているようなそんな感覚が蘇ってきて、振り払うために使った労力を思い出して、もうへたりこんでしまった。
また、一から透明の塊を払うのかな。
それとも、もう疲れたから、と見ない振りをするために、色んな口述をつけて透明の塊が身の回りにあってイライラするのを、心の奥底に封印するのかな。
ああ、もうどっちでも良いんだ。多くの人が払っていないじゃないか。
ああ、もうどっちでも良いんだ。だって僕は人間なんだから、人生の目的など1人1人に与えられていないのだから。
このまま逝ってしまってもいいし、このまま愚痴を言い続ける人生でも良いし、このまま闘争し続けても良いんだ。
透明の塊は決して振り払ってなくすることは出来ないんだ、それだけははっきりした事実。
透明の塊が観える合理性を与えられ、そして同時にそれと相反する不信不明感情情欲を与えられたのだから。
振り払うのが上手くなって気持ち良くなっていく事、振り払いながら汗が出た事、そういう1つ1つが1つ1つの関係を誤らせる基になっているのだから。
救いなんてない。苦しみも本当はない。喜びも分かち合いも愛も自分も他人すらも本当は無かったんだ。
透明のふわふわとした塊が、僕たちにまとわりつきながら見せていた陽炎(かげろう)だったのだろう。
決して触れなかったんだ、だって透明の塊を振り払えないんだから。