冬至は太陽が最も短い日です。今年は満月も重なりました。
雨上がりでまだ雲が残る夜空に、テラテラと輝く満月が美しい。
中秋の名月も好きですが、少し妖艶すぎたりもします。冬至の名月は、シャンと透き通ったような、日本一の滝の側にいる時に浴びる水しぶきのような、そんな心の穏やかさがあります。
洗剤が切れたので買いに出たら、なんとも冬至の満月の見事さに惹(ひ)かれてしまいました。
裏の公園に行くことにしました。
ふらふらと、まだ雨でやわらかい土の上を自転車でヨロヨロとしながら、ベンチに着きました。ペットボトルのお茶と無添加に近いポテトチップを取り出して腰掛けました。
上を見上げれば、秋のように揺れない名月です。すっと透き通るような恐ろしいようなまっすぐの満月です。公園は落ち葉を先に落とすために剪定(せんてい)されたので木々の枝が殆どなく、月まで一気に見通せます。丁度木々の一番上と遠くのビルが一直線に並んでいて、まるで、遠くの名月を支える台のような感じです。 本当に美しい。美しすぎて怖いくらいです。全く他の事が浮かんできませんでした。
少し凍えるなか、ポテチをパチパチ、お茶をチョビチョビ。すると少し浮かんできました。「人と人とを結ぶ道は本当に細くて、だから眼を常に凝らしていないと見つからないし、ないと思ってしまえば消えてしまう」という台詞があります。楽しく会話したりビジネス上の会話ではない、もっともっと深い心のつながりの話です。みんな子供の頃はしていたつながりで、大人になるとオブラートを包んでしまう深いつながりの話です。あの人とはつながりが持てなかった、あの人とは持てた、家族でも持てない人もいたし、家族でなくても持てた人もいました。そんな深いつながりを考えると、どうも冬至の名月の透き通りは私には強すぎて、ベンチを立ち上がり、まだやわらかい公園内を散歩し始めました。
何度も何度も思い返してきた気持ちが出てきました。
何度も何度も
けれどももう時間が経ったからでしょうか、名月の美しさに打たれたからでしょうか、不思議と苦しさが出てきませんでした。
電灯に照らされている木々はすっかり葉も枝さえも落としてしまったのです。けれども、この冬を越せば、つまり冬至を越していけば、また枝を出し、芽吹き、葉をつけます。満月の透き通る強さは欠けていきます。けれども満月が最も美しくて三日月が醜いわけではないことに気がつきました。満月も美しく、三日月もまた別の美しさがあるのです。私は満月の美しさしか見なかったのです。私は眼を凝らさずに自分の考えだけを押し付けてしまったのでしょう。道が途切れてしまったのです。
グルッと小さな足跡を残してベンチに戻ってきました。
冬至の満月の美しい理由も、夜の公園に立ち寄った理由も、もろもろもやっと解ったような気がしました。自転車のハンドルを握り、足をまたぎ、漕(こ)ぎ出しました。