2002年02月28日(木) |
息子の部屋(名古屋駅前グランド2にて) |
カンヌ映画祭、マスコミ向け上映で総立ち拍手の作品、という惹句と亡くなった息子に両親の知らなかったガールフレンドが…、という内容に惹かれて楽しみにしていた作品を最終日前日に観にいきました。 う〜ん、確かに誠実につくられた作品ではあるのですが、いまひとつでした。 ナンニ・モレッティ監督自ら演じる精神分析医は互いに信頼しあい睦み合い亀裂や破綻などとは無縁の家庭を妻と高校生の娘と息子とで築いています。 精神分析医としても、職能ゆえか、本来的資質としてか、クライアントの挑発的な態度にも動じることなく常に穏やかです。 後半の彼の苦悩を描く布石として必用だと感じてでしょうか。 前半、診察室でのクライアントとのやりとりと、事故の前に息子が理科室のアンモナイトの化石を盗んだのではないか、という嫌疑をかけられた時に夫婦揃って、疑いを晴らすために関係した少年たちの家を訪ねたりする場面がかなり長い間続くのです。 (息子はアンモナイトはいたずら心で盗んだ、と告白するんですけどね。) なぜ、いまひとつ、と感じたのだろうかと考えてみると、この延々と続いたように感じられた場面がその後の展開とそう密接につながってこないあたりで、です。
息子はある日曜日、友達とスキューバ・ダイヴィングに出かけ事故にあいます。父親とジョギングをする予定だったのに往診の依頼の電話があって海へ行くことになるのです。 素直で、穏やかな好青年に育った息子を不慮の事故で亡くし悲嘆に暮れる日々。 両親を気丈に支える姉。仕事に復帰していく妻とは裏腹に夫は「あの時往診を断っていれば…」という後悔に苛まれて立ち直れない。 日頃、穏やかにクライアントを受け止め、気持ちを楽にして外に向けての一歩を踏み出せるよう静かに励まし続けていた、その職業も最早続けていけない。 妻との間にもぎくしゃくしたものが。
そんなある日、息子宛に遠い町の女の子からの手紙が届きます。 サマー・キャンプで知り合った子。 ラスト近くでこの子がこの家族を訪ねてきて、息子がこの子に送った自分の部屋で写した写真を持ってきてみせます。 この家族はお互いに認め合っている、お互いに認め合っているがゆえに内面を推し量りはするけれど立ちいったりは決してしないのです。 自室でくつろぐ息子の数葉の写真は、家族にとって初めて見る顔でもあったわけです。 この息子が恋した女の子泊まっていったらとすすめられるのだけれど、男の子を道連れの旅の途中なのです。 ヒッチ・ハイクでフランス国境まで行く予定だという2人を乗せて、結局は一緒に国境まで行ってしまう3人。 この邂逅とドライブでこの家族には曙光が見えてきます。
息子には、恋する心を育て、自室でくつろぐ姿を見せたい思いも伝えていた女の子 がいた、そのことが息子の死を受け入れるきっかけになっていくであろうことを暗示する3人の寄り添う姿で映画は幕をとじます。
こうしてふりかえってみると家族の絆、喪失からの再生、個の尊厳を守っていくことを尊重していくこととそれにかかる負荷等様々な問いかけがある映画だったとは思います。 でもね…。
朝日新聞夕刊に連載されている三谷幸喜の「ありふれた生活」を愛読しています。 これまでのものがまとまって単行本にもなったくらいですから、好評の連載なのでしょう。 映画「ラヂオの時間」以来、三谷ファンです。とは言っても「みんなのいえ」を見にいったくらいでその舞台はまだ見たことがないのですが…。 3週間前からこの「ありふれた生活」になんと、陽水さんが登場。 挿し絵の和田誠さんによる陽水+幸喜が目に飛び込んでくるだけで嬉しい。
内容は、三谷さんが次の舞台「You Are The Top」の曲を陽水さんに依頼した、事の顛末。 ミュージカル「オケピ!」のナンバーを作った時の経験をもとに作詞家と作曲家が一晩かけて曲をつくるお話、真の主役は作詞家の市村正親でも作曲家の加賀丈史でもなく彼らが作る曲そのものといってもいい、と思っている三谷さんはプロデューサーに井上陽水の名前を挙げるのです。 そして緊迫の会見。本題に入らないままの雑談。その内容が出色。可笑しかったです。新聞記事そのまんま全部引用したいくらい。 なんせ、依頼主なのに徹底して1ミーハー陽水ファンの姿勢の三谷幸喜VS仕事の依頼で会っているのに話が進展しないままお開きになってもどこふく風の陽水、この組み合わせだもの。 奇天烈な四方山話をして別れて1週間後に「仕事をひきうける」との連絡。 そして今日のこの話に入って3回目のNO96では、2人の共同作業(?)の様子が。 ここでも三谷幸喜はあれこれ気を遣い、気を廻し、彼のイメージでは「孤高の修行僧」である陽水さんに「ブロードウェーミュージカルのような底抜けに明るい曲」 が望ましいことを何とか遠回しに伝えるべく二十項目の要望リストなるものを渡すのです。 数週間後出来上がってきたものは、二十項目はほとんど無視、でも「耳に残り」「ブロードウェーの華やかさを持った」本当に望んでいたものだったそうです。 ただし、さすが「ただ者ではない」「計り知れない」陽水、三谷幸喜が詞をつけるにあたっては、過酷な条件が…。 この先は来週のお楽しみ。 切り抜いた3葉の「ありふれた生活」これは、永久保存版です。
「You Are The Top」も是非観たいものです。
お店にふらりと遊びに寄って下さいました。
その作品のイメージ通り、飄々と飾らぬ暖かな方です。 月岡とは長いおつきあいでたまに今日のようにお店に寄られることがあるのです。
今日は次回作のラフを持参でいらっしゃいました。 題して『ワニのぼり』、文章は内田隣太郎さん。 コイのぼりを買って帰ったワニのお父さん。 空で泳ぐコイのぼりを見ているうちに…。 その後の展開はタイトルからご想像いただけるかと思いますが、最後のページが圧巻です。 もう、大笑いでした。
そして、お客様には、いつものように、持参のカラー水性ペンで書いた絵入りのサインを。純さんの『ピースランド』昨年の版から文字が手書きになって色も少しソフトな感じになったのをご存じでしたか。
以前の活字のピースランドにはサインして貰ったことがあったのですが、この手書きの味わいはまた格別。 2冊目を買って、みねこちゃん、Nちゃん、Mちゃん、とサインして貰いました。 ビールを持つペンギン、リクエストしちゃいました。
毎月1度、Book Clubの本をお母さんと一緒にお店に取りにくる、姉、弟がいます。 今日はゴロゴロとローラーのついたおもちゃをひっぱっての来店。 いったいどうしたのかしら、と思っていたら帰りがけにお母さんがこんなことを。 「先日のY通りのマンションで月岡さんのお話を伺った時にいただいた『いぬがほしいよ!』(徳間書店)二人ともすっかり気に入ってしまって、家の中で遊んでいたおもちゃを外に持ち出しているんですよ。ローラー・スケートではないけれど。あのお話と同じようにうちもマンション住まいまので犬が飼えないのだけれど、K子は飼いたくて仕方がないんですよ。」 ダイヤル・カー・カルサの絵本のメイと同じ様に、おもちゃを犬にみたてて散歩させていたわけです。 お店でであう子どもたち。 それぞれ自分のお気に入りがあって、ぬいぐるみを肌身離さず持ち歩いている子もよく見かけます。 お店でお分けしたことのあるバムセが存分にかわいがられて、見事あのロッタちゃんのバムセに変身していたりするのです。このバムセの持ち主Hちゃんはトイレにまでバムセをつれて歩いて、寝る時も一緒。いつも何か話しかけているのだそうです。 絵本のお話の世界を生きてしまう小さいひとたちにはローラーをカタカタ言わせながらのお散歩も、バムセとの内緒話も、みーんなホントのことなのでしょう。
2002年02月21日(木) |
巨岩と花びら(船越保武画文集 ちくま文庫) |
ものを見る目。 見たものを形作る姿勢。 見たものを形作る姿勢を語る言葉。
ひとがどう見えるのかを語る言葉。 ひとをどんなふうに見る自分であるのかを綴る文章。
自然の造形の前には卑小なひとの技。 巨岩を何にも優る時間の彫刻であると感じるこころ。
先刻亡くなった船越保武氏が70代に入り老い先短いと感じ始めた頃、主に新聞、雑誌に掲載された文章をまとめ、そこで話題になっている氏のデッサンや彫刻作品を10点収録したエッセイ集です。 これまで、その彫刻家としての仕事を「長崎26殉教者記念像」や田沢湖畔の「たつこ像」を写真で目にした、というふうにしか知りませんでした。 先日次女と話していたら、その作品を図書館で目にした次女が「船越保武さんの作品が好き」といいだしました。この文庫本を見かけた時、彼女に、と思って求め、 次女の世界を間接的にのぞき見るような興味もあり、先に読み始めました。
渓流釣りで自然のただ中にいる時、真の美しさに出会う時、彫刻とデッサンという 天賦の才を持つ人は、こんなふうに感じたり、感じたことを彫像という形の昇華させたりするのか、と造形的才覚皆無の私には新鮮な驚きでした。 そしてロダンへの憧れから出発して、ロマネスクの無名の石工たちの作品の丹念さ、素朴な生真面目さを尊しとするに至り、「複雑な思考に汚染されている」と自らをふりかえる姿を、氏のデッサンや作品に漂うの清浄な気品と重ねあわせてて見る時、そのひととなりの品格の一端にふれたように思いました。 それはまた「病醜のダミアン」の一節、「平凡なものを平凡に描いて、しかもその画面が、高い品格を持って人の心に深く沁み込むことこそが、作家の本来の姿勢でなければならない、と私は思う」にも連なってくることなのでしょう。
盛岡中学で同級、36歳で亡くなった友人で画家の松本竣介に寄せる思いの深さ。
友人の出版記念で「詩人の会」に参加した時のこと。思い切りふんぞりかえって「オレハ、タカハシ・シンキチデアール」と怒鳴った後「いかに出版祝賀会といえども、いやしくも詩人たるものが、人の詩集を、ただおざなりに、ほめるとは、何事だ、バカヤロー!」と言った高橋新吉を描写しつつ、「会の終わりに、草野心平さんが立って、『今日は、実にたのしい会でした』とスケールの大きなところをみせていた。」と結んでみせる洒脱さ。
これらが相俟って、学生たちからも慕われ続けたのでしょう。
東京芸大退官の時に学生たちから贈られた「卒業証書」を家宝にしているといいます。原文のまま引用されているものを孫引きします。
卒業証書 船越保武殿 貴殿は、東京芸術大学美術学部彫刻科に 於て、長年教職にありながら、およそ私 たち学生を指導、教育することなく、自 らの制作に励み、彫刻科の歴史に残る程 アトリエをコンパに、ディスコに、コー ヒーショップにと、フルに活用され、ユ ニークな教育のあり方を示されました。 その業をたたえ、当大学に於て、その課 程を立派に終了されたことを証明します。 昭和五十五年二月二日 東京芸術大学美術学部 学生一同 (東京芸術 大学学生 一同之印)
美術の学生には他学部には見られない奥深い美しさがある、と感じていた船越氏は「私は、美術学生たちの若い力に、ぶらさがって生きているような気がする。」と述懐します。
2002年02月20日(水) |
UFO少年アブドラジャン(シネマテークにて) |
旧ソ連時代、1990年につくられ、1992年に公開された映画です。 まったく昔ながらのお鍋をさかさにしとようにしか見えない円盤の写真の載ったチラシを見て、無性に見てみたくなりました。 冒頭このお話の顛末を「スピルバーグ様」への手紙で語りかけているのだからSFXを 駆使したその映像を百も承知で、もう笑うしかないような超ローテク映画を作って超然としている1958年生まれの監督ズリフィカーム・ムサコフ、見終わってみると 凄いヤツなんじゃないかって思えてくる。 そこでファンレターをば。
拝啓ズリフィカーム・ムサコフ様 これまでスクリーンで出会い心の中に住みついてしまったあまたの少年たちの中にあなたの映画アブドラジャンが仲間入りしました。 この、風貌は「人間の金髪の男の子」なのに緑の血の生殖器のない完全生命体である少年がウズベキスタンののどかな草原に落ちてきてからの物語は、その心底嘘っぽいUFOや見るからに模型をワイヤーでつってすれ違わせているアメリカとソビエトの宇宙船、アブドラジャンがコルホーズにもたらす巨大スイカのいかにも張り付けただけ、という映像、これらすべてが物語をチャーミングに彩る効果になってしまう不思議な経験をさせてくれるものです。 この事実は、あなたが尊敬しているスピルバーグ様に果敢に挑みかかっているのだろうな、という思いを裏付けます。 アブドラジャンの性根の優しいこと、無垢なこと。彼を匿い、「隠し子」として世話するバルバザイを「お父さん」と呼び彼を思ってその超能力を駆使するあたりのエピソードを見ていると、あなたが異星人を登場させて描きたかったのは、この子にこんな優しい感情を湧きおこさせる、地球での「お父さん」「お母さん」、痩せた土地を耕すコルホーズの人々、だったのだなぁ、と感じるのです。 ラッセ・ハルストレム監督の「マイ・ライフ・アズ・ア・ドッグ」をご覧になったことがあるでしょうか。 この映画には母親が病んで、叔父のもとに預けられる少年が登場します。ここに描かれた村人たちの大らかさ、懐の深さ、に通じるものを、このコルホーズの人々は持っている、とも思いました。 次回作が、日本で上映されるのを楽しみにしています。
2002年02月19日(火) |
ヤーノシュ・シュタルケルのチェロ |
1924年、ハンガリーのブダベスト生まれのシュタルケル。 今日聴いているのは「白鳥〜チェロ名曲集」(ピアノ ジェラルド・ムーアGX286)。このCDはJR千種駅で毎月一度1週間ほど廉価版のCDを販売している露店(?)で買い求めたもの。たまにあるんですよね。こういうところでの大当たりの買い物。このCDもそう。ちなみに定価\2000(この定価っていうのもおおいにあやしげではありますが)のところ、販売価格\980でした。 このCDの全18曲のうち後半12曲がシュタルケルの演奏です。 音源は1967年以前のものとあるだけで、モノラル録音なので相当古く、シュタルケルの若い頃の演奏ではないかと思うのですが廉価版の悲しさそういったデータはいっさいありません。 最初の6曲を演奏しているモーリス・ジャンドロンさんには申しわけないのですが、7曲目、「G線上のアリア」(バッハ)でシュタルケルの演奏が始まると音の差が歴然です。それに続く「アレグレット〜ボッケリーニの主題による」(クライスラー)「アレグロ・アパッショナートOP.32」(サン=サーンス)の豊かな音の響きと躍動感。いつ聴いても心躍ります。続く「亜麻色の髪の乙女」(ドビュッシー〜 フェイヤール編)「夜想曲ホ短調OP.9の2」(ショパン〜ポッパー編)はおなじみの曲。でもこの人のチェロの深く美しい音色で聴くと周知のフレーズが耳に新しく聞こえてきたりするのです。緩急のめりはりが素晴らしい「ハンガリヤ狂詩曲」(ポッパー)をたっぷりと8分28秒堪能した後は、「アリオーソ」(バッハ〜クランユ編)を静かに味わいます。「アレグレット・グラツィオーソ」(シューベルト〜カサド編)や「楽興の時 第3番D.780-3」(シューベルト〜ベッカー編)ゴバック( ムソルグスキー〜ストゥウスキー編)と聴きすすむうちに、体の内側から刻まれているような心地よいリズム感にのった演奏に魅了されます。「メヌエット〜小組曲第3楽章」(ドビュッシー〜グールト編)は初めて聴いた時から何か懐かしいような曲にふさわしい情感を湛えた演奏です。最後の曲は「カプリース第13番作品1の13」(パガニーニ〜クライスラー編)。ヴァイオリン曲「24のカプリース」の中の曲。 この曲のように高音域の細かな指の動きをチェロで演奏するのはどれくらいむずかしいことなのでしょうか。かなりの技巧を要することなのだろうなぁと想像はするのですが。 以上12曲を聴きながら、ヤーノシュ・シュタルケルこういった小品だけを集めたCDが他にもあるのだろうか、と少し調べてみましたが藤原真理さんとか他の方とのオムニバスのCDが発売されているのみでした。
2002年02月16日(土) |
ベートーベン スプリング/クロイチェル(ヴァイオリン ジノ・フランチェスカッティ SRCR1634) |
風に空に、春の気配を感じるようになるこの季節になると聴きたくなる曲が「スプリング」。 ベートーベンが作曲した10曲のヴァイオリン・ソナタのうち5番目の曲です。 愛称にふさわしいのびやかでチャーミングなこの曲を初めて聴いたのは中学2年生の時でした。 当時深夜放送をよく聴いていましたが、今は亡き土居まさるさんがパーソナリティーをされていた番組である時このヴァイオリン・ソナタを全曲流してくれました。「何て素敵な曲なの」と思った私は曲名をひかえておいて翌日母と共にレコード店へ。初めて自分の小遣いでクラシックのLPを買ったのです。その時には演奏者やどのレーベルのレコードであるかなんていうことにはまったく無頓着で、そのレコード店にたまたまあったフランチェスカティ/カザドシュが1961年にレコーディングしたものを買い求めたのです。 それ以来、このレコードは私の宝物でした。長じてほかの演奏も聴く機会を持ちましたがこの2人の「スプリング」には特別の思いと親しみがあります。 6年前CDショップのクラシックの棚を見ていた時に、このLPがCD化され、出回っているのをみつけた時には嬉しかったです。(今でも入手できます。)ながーいつきあいの友人とばったり街角で出会ったらとても生き生きしていて、こちらまでうきうきしてしまう、そんな感じだったでしょうか。 そんな私にとっての「初めて」がいっぱいのこの曲は、出会いの不思議をいつも思いおこさせてくれます。
2002年02月15日(金) |
☆Really Rosie☆(キャロル・キング ESCA7771) |
今日の「トムの庭」バックグラウンド・ミュージックは「Really Rosie」(おしゃまなロージー)。CD作詞モーリス・センダック、作曲キャロル・キングという豪華版。アメリカで『ロージーちゃんのひみつ』(偕成社)でおなじみのロージーちゃんを主人公にしたアニメが放映された時のサウンドトラックです。 このロージーちゃんには実在のモデルがあり、センダックは生まれ育ったブルックリンで、二十歳の頃、自宅の窓から、ひがな1日その子をスケッチし、彼女の独白を書き留めていたそうです。 アニメは見たことがないのですが、本の方のロージーちゃん、なかなかに独創的で闊達。邦題のタイトル通りおしゃまな女の子でもあります。空想の世界に遊び豊かな発想を子どもたちとの遊びの中で形にしていきます。 CDにもそんな楽しい雰囲気が活かされています。小気味のよいリズムがきざまれ、 声色や、叫び声も飛び出してキャロル・キングの中の「ロージーちゃん」が目をさましたかのよう。彼女もセンダックやロージーちゃんと同じブルックリン育ち。 キャロル・キングには1971年に「TAPESTRY」(つづれおり)という名盤があり、その中の「空が落ちてくる」や「つづれおり」は大好きな曲でLPをよく聴いていました。昨年暮れにオンラインショップで年間売り上げベスト100の輸入盤CDを30%OFF でSALEしていたのですが、その中に昨年彼女がリリースしたの「Love Makes The World」が入っていました。息の長い活動をしているのですね。 お店ではその時流しているCDをワイヤーのラックに立てかけてお客様に見えるように置いてありますが、このひときわ楽しそうな「ライス入りチキン・スープ」のショーの場面は、『ロージーちゃんのひみつ』や『チキン・スープライスいり』(冨山房)をご存じない方の注目も集めています。
今日は朝からテレビ放映のための収録が「トムの庭」でありました。私は100%野次馬に徹してほぼ1日かかったこの収録の模様を観察しながら、「日々逍遙」の初期設定をしていました。 この番組は地元名古屋テレビが中部圏で週1回度放映しています。 1回5分。1人1冊の絵本を毎週紹介していく、という内容です。 今回の収録は月岡と、月岡が紹介した4人のもので、3月に放映の予定です。 そう、たった5分×5人の収録に10:30から16:30までかかったということです。ダメだしがあったわけでもなくスムーズに進んで、です。 月岡(『ガスパールびょういんへいく』)、S市立図書館のKさん(『きょうはなんのひ?』)、H社の絵本などを扱っているOさん(『ちびごりらのちびちび』)、H幼稚園園長のT先生(『花咲き山』)、N町立図書館のNさん(『おやすみなさい、おつきさま』)の順に収録は進みました。 担当のSさんの巧みな誘導によって、リラックスして会話をしているような感じで、 それぞれが選んだ絵本の特徴や、その絵本を選んだ動機、その絵本を通しての子どもたちへのメッセージなどが導き出されていきます。 5者5様、絵本を語る姿は雄弁にそのひととなりも語っているようで楽しい時間でした。 放映は金曜日の6:55から。トムの庭で収録したものは3月1日、8日、15日、22日、29日の5回放送されます。(月岡は3月1日)
2002年02月13日(水) |
『読書からはじまる』長田弘(NHK出版) |
長田弘さんの語り口調は朴訥です。ところどころ言いよどみ、流れが止まるようにも感じるような。先日、10年ぶりに、その語り口調をテレビで見ながら聴いていて、「ああ、この人は、この語りよう、このテンポを”場慣れ”して変えることもなくこの10年を過ごしてきたのだなぁ」と思いました。この間、講演や対談といった場に臨む機会はそれ以前に比べ何倍にもなったであろうのに、です。 長田さんの文章もまた、平易な言葉で、かんで含めるように綴られます。「筆にまかせて、つい…」というようなことの決してないその文章の奥行きに立ち止まって動けなくなることがあります。そこで選ばれている言葉に長田さんがたどりつくまでの蓄積を思い嘆息したり、その表現の適切であり豊かであることを味わったりして。 昨年6月出版された『読書からはじまる』でもそういった箇所がたくさんありました。特になかほどの絵本を読むことについての省察には付箋がいっぱい。NHKで放映された「絵本を読もう」でも一貫して言われたことは、「まず、大人たちよ、絵本を読もう」です。 長田さんは詩人である、と共に、希有な読書人であることはこれまでの数々の著書からも推し量ることができます。本と共に歩んできた日々を語り、読むという行為の意味を長い時間をかけて常に読み続けながら問いただし続けたこの人が今、「絵本を」と言います。大人たちが、生きていく上で大切なことを子どもたちに手渡そうとする時、それを絵本でしてきた。そこには、大人が自分で渡したいとは思ってもなくしてしまった大切なものがある。それゆえ大人にこそ今絵本を手にとって欲しい、と言うのです。 長田さんが手持ちの絵本の中から選び翻訳をてがけている『詩人が贈る絵本シリーズ』第2期の『人生の最初の思い出』や『私、ジョージア』『いちばん美しいクモの巣』『子どもたちに自由を!』(いずれもみすず書房)を読むと、長田さんが絵本に託したこうした思いがひしひしと伝わってきます。
2002年02月12日(火) |
「鏡」(シネマテークにて) |
かつて「僕の村は戦場だった」や「惑星ソラリス」などのタルコフスキーの作品をいくつかビデオで見ました。その後、それらの監督アンドレイ・タルコフスキーが1986年54歳で没した後、彼の仕事を回顧して「サクリファイス」や「ノスタルジア」が劇場公開された時に「サクリファイス」のメイキングも含めて見たのです。 よく言われるように難解。でもその映像に喚起されるイメージに眩暈が起こりそうになるほど。したたる水、浮遊する女性、燃え上がる家、突然の風、それらは私の 内でこれまで経験したことのない絵でありながら一度観てしまった後には何かの折にふっとあらわれる原風景のごとく感じられます。それも懐かしい感じで収まりよくそこにあるのではなくそこに戻っていって確かめなくてはいけないことがその絵の中にはある、というような収まりようなのです。 今日、「鏡」を初めて観てきました。監督自身の分身であろうナレーターが語る幼少期の父との別れ、母との生活、そして父と母がそうだったように結婚生活が破綻、母親のもとで育てられようとしているの息子とオーバーラップする自身の姿。主人公アリョーシャの母親と妻を同じ女優さん(マルガリータ・テレホワ)が演じることで、母親と妻が二重写しとなり、アリョーシャの母性への希求と、関係をうまく培うことのできなかった妻とのこととが呼応するように感じるのです。はさみこまれるソビエト兵の行軍、ヒトラー、広島への原爆投下などの映像がアリョーシャの少年時代の軍事教練とオーバーラップします。そして樅林の奥の丸太作りの生家やその窓の外の草原に吹き渡る突然の風、家の前の柵に腰掛けて煙草をふかす母親、途中さしはさまれる母親の印刷工場でのエピソードなどの映像など、この映画にも焼き付いてしまって離れなくなりそうな場面がたくさんありました。
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