元旦から4日にかけて、父の実家がある秋田へ行ってきた。とても月並みな表現になるが、楽しかった。
僕の家は神奈川県の北の端、相模原市にある。そこから秋田県の八郎潟の側、男鹿半島の根本にある父の実家まで行ったのだ。車がなかった頃は、主に鉄道を使っていた。新幹線ができるまではちょっと大変だったが、新幹線ができてからは、秋田新幹線で秋田まで行って、そこからすぐだった。しかし、今回は車があったので、車を使うことになった。理由はいろいろあるだろうが、やはり安い。何と言っても安いのが最大の理由と言える。ただし今回は、秋田の雪に備えて中古のスタッドレスタイヤを買ったので、そこまで安くは済まなかったのかも知れない。まあ、それは父の事情であって、僕の知ったことではない。
元旦の日に1日かけて秋田に到着し、2日間ゆっくりして、1月4日に帰った。元旦は到着したら終わり、4日も家に帰って終わりだったので、実質2日間だろうか。
元旦の日は、朝の9時から出発する予定だった。しかし、大晦日か30日からか忘れたが、とにかくそのくらいの頃に雪が降った。そのせいで、東北自動車道が通行止めになってしまった。そのまま様子を見ていたら、昼には通行止めが解除されたので、12時頃になって秋田へ向かった。…我ながら小学生の感想文みたいな文章だ。昔はこれほど下手ではなかったと思うのだが。本を読まなくなったからだろう。
父は僕に運転させたがっていたようだが、僕が乗り気でなかったことや、機会を失ったこともあって、結局、この日に僕が運転することはなかった。そして僕は、またゴールド免許への道を歩きだしたわけだ。ゴールド免許を取得するもっとも確実な方法は、免許を取っても運転しないことだ。運転さえしなければ、違反をすることもない。逆に、ひとたび運転をすれば、どこの道を走っても車はスピード違反をしている。高速道路の場合は、30キロや40キロ、ちょっと速い車なら50キロオーバーも珍しくない。50キロオーバーと言えば、一発免停の対象となる重大な違反だ。しかし、そこでその流れに逆らって走るとかえって危険だと言われる。まあ、実際はどちらが危険なのかよく分からないが、他の車がすべて120キロで走っているときに、制限速度が80キロだからと言って80キロで走っていれば、他の車よりも40キロも遅く走っていることになるから、危険であろうことは感覚的に分かる気はする。
結局、初めは父が運転し、北上ジャンクションあたりまでを弟が運転し、秋田道に入ってからはまた父が運転した、はずだ。北上ジャンクションのあたりは雪が降っていたはずで、そんなところを本当に弟が運転していたのかどうか、少々記憶が曖昧なのだが…。途中、たこ焼きとソフトクリームを買った。帰りの車の中で「今年の初買いは?」なんてことをラジオでしゃべっているのを聞いたが、僕の場合はたこ焼きということになる。しかも、あまりおいしくなかった。まずかったわけでもないが。ちなみに、弟は饅頭焼きというのを買っていたが、「どう焼けばこんなに中身がスカスカになるんだろう」と不思議がっていた。初め、首都高を抜けるときに、父はカーナビの指示を聞き間違えて、首都高から降りてしまった。そして、再び首都高に乗るときに逆方向に乗ってしまった。結局、東名から渋谷に入り、川口から東北道に入る予定だったのだが、飯田橋あたりで逆方向に乗ってしまい、銀座あたりを経由することになってしまった。まあ、おかげで父の会社のビルを見ることができたりしたのだが。それから、ビール会社のビルの隣にある、有名なオブジェも見ることができた。弟が非常に下品な通称を教えてくれた。正式名称や、何の形なのかは結局分からなかった。ググってみようかとも思ったが、名前が分からないのではしょうがない。それに、今日は長文を書くつもりなので、検索に要する時間が惜しい。
ここまでで30分程度だろうか。まあ、比較的順調に書いていると言えるだろう。このままでは手が疲れてくると思うが。明日は、あさってまでに仕上げなければならないプログラムを書くつもりだから、手を疲労させない方がいいのかも知れないが…。まあ、いいだろう。
首都高を抜けようとしたところで、今度は事故があった。何の事故だったのかはよく覚えていない。車がひっくり返っていたような。確か、単独事故だったはずだ。首都高を抜けるところなのだから川口ジャンクション近くのはずだ。で、その後は北上ジャンクションまで、特に渋滞もなく走っていった。まあ、元旦に走り回る車が、そう多いとは思えない。で、それはよかったのだが、秋田道に入ったあとは大変だった。とにかく吹雪がすごく、除雪も済んでいなかった。だから、雪でデコボコした道を130キロほど、延々と吹雪の中を走り続けることになってしまった。雪のせいで周辺の気配などまるで分からず、暗闇のせいであたりの様子も分からない。とにかく雪の中に見える道をひたすらに進み続けるだけだった。僕らは乗っているだけだったからよかったものの、運転していた父は大変だったことだろう。何か言うべきだとは思うが、僕は目上の人間にかけるねぎらいの言葉を知らない。「お疲れさま」というのは互いをねぎらう言葉だし、「ご苦労さま」というのは、対等か、あるいは目下をねぎらう言葉のはずだ。本来の意味合いは知らないが、少なくとも僕の周辺ではそういう使われ方をしている。ついたあとは結構豪華な刺身なんぞを用意してあったが、正直あまり食欲は湧かなかった。祖母がやたらと「食べれ食べれ」と言っていたからかも知れない。ありがたいのだが、正直に言って、少々うっとうしい。
親戚の家には、従兄の息子がいた。よく知らないが、甥というのだろうか。つまり、彼からみて僕は叔父である。…ん?いや、違うか。叔父と言ったら、僕の兄の息子ということになるのか。ちなみに、僕に兄はいない。弟に息子が生まれたら、そのときは僕が伯父になるわけだ。細かいことだが、先の「叔父」とは字が違っているが、これはそれぞれ「叔父」と「伯父」で正しいはずだ。ATOK13がうそをついていなければ。で、その子どもは2歳で、ちょうどかわいい盛りだった。しかし、僕はその年頃の子どもが嫌いだ。甘えるばかりで知性を感じられないし、周囲から一方的に愛され、圧倒的に与えられ続けることに羨望すら感じる。それに、電車の中で騒いだり泣いたりわめいたりする姿を見て、好きになる方がおかしいと思う。しかし、同じように騒いでいても、家の中で聞くのと電車で聞くのとは大違いだ。やはり、小さな子どもは公共の交通機関に乗せるべきではないのではないだろうか。今の日本は平和だが、本来は狭い空間に大勢が密閉された危険な場所だ。そんなところに、ストレスを煽るような子どもを乗せるべきではない。とにかく、そんな風に子どもが嫌いな僕から見ても、この子は意外と嫌な感じはしなかった。父の実家には僕から見て、祖母と祖父と伯父と叔母と従兄と義従姉(従兄の妻)の6人がいる。これだけの人間がいれば、一人で寂しい思いをすることもないわけだ。最近の子どもにしては恵まれているのではないだろうか。だから、甘え方も上手で、やたらと泣いたりしないのではないだろうか。まあ、それがいいことかどうかは分からない。それに、みんな余裕があるから、子どもに合わせてしまって断片的な言葉でしゃべっていた。これではなかなか言葉を習得できないかも知れない。まあ、僕の心配することではないのだが。あと、親と同じ食器を使うことが多かった。普通の病気がうつってしまうのはある程度仕方がないが、虫歯もうつると言うから少々心配ではある。
2日目は、その秋田の家でのんびり1日を過ごした。1日目もそうだったのだが、ここ1年ほど、大抵寝る前にROに繋いでいた。ROをやらないとしても、PCにまともにさわらない日など珍しかったので、これはいいリラックスになったのかも知れない。研究でPCに触れることが多いのだから、自宅ではなるべくさわらないようにすべきなのかも知れない。などと言いながら、こうしてPCを使って日記を書いているのだが。これまでさんざん使い続けたのだから、多少触っていなくても問題はないだろう。物事は何事もバランスが大事だ。やればいいというものではない。物事はやり方が大事なのであって、がんばればできるというものではないのだ。極端な話、がんばらなくてもできるものはできる。できたものがいいものかどうかは別として、僕はこの日記をがんばって書いているつもりはないが、それでもこれだけの量の文章が出てきているのだ。この日は、八郎潟の側に、弟の運転で出かけていった。八郎潟の側は、まったく除雪されていなかったので、車で進むのは大変だった。リアタイヤが取られてあっちこっちに滑るのを、弟は必死にハンドルを回して運転していた。
3日目はスキー場へ出かけていった。なんだか知らないが、何度も母から「スキーに行きなさい」と言われた。スキーってのは遊びであって、23にもなって親から言われて行くものでもないと思うのだが…。まあ、僕はかなり消極的なので、放っておくと行かないと思ったのかも知れない。確かに僕は、避けられるリスクは避ける主義だ。好きでもない遊びのために、それなりに危険なスキーなど行かないかも知れない。ただ、母には意外だったのかも知れないが、僕は元々、割とスキーが好きだ。僕は、運動神経は相当鈍い方だし持久力もないが、バランス感覚は悪くない。と言うよりも、バランス感覚を必要とするスポーツは好きなのだ。力ずくで物事が片づかないからだ。柔道も「柔よく剛を制す」などと言うからバランス感覚のスポーツだと勘違いしたのだが、それは高レベルの話であって、格闘技である以上、高レベルの肉体は当然要求されるものらしい。それに対してスキーの場合、体を鍛えなくても普通に滑るには問題ない。力がなくても滑れるもの…のはずだ。と言っても、別にうまいわけではない。一応パラレルターン(スキーをそろえてくる〜んとゆったり回るターン)ができる程度だ。ボーゲン(スキーを自分から見てハの字型にしてズルズルと斜面を下る基礎の技術)は一応卒業した程度と言ってもいい。ちなみに、このときに行ったスキー場は田沢湖スキー場というところだ。弟いわく、「一番下の状態の悪いゲレンデでも、上越の一番状態のいい雪くらい」なのだそうだ。東日本のスキー場を調べ尽くした(暇な)伯父さんが言うには、「雪の量が足りなくて少々荒れているが、雪の質は悪くない」のだそうだ。まあ、とにかくそんな感じだったわけだ。僕の知っているところと比べると、2月の札幌近郊のスキー場と比べると、若干雪質は悪かったかも知れない。しかし、ここでは30回以上転んだはずだが、一度も痛いとは思わなかった。のけぞったりつんのめったり、吹っ飛んだり転がったり、かなりいろんな転び方をしたが、どんな転び方をしても痛くはなかった。普通に考えて、僕の受け身が神業的にうまいのではなく、雪がよかったと考えるべきだろう。ただ、弟が新雪の方へ行きたがったのにはまいった。当然のことながら、僕には難しい斜面を滑るだけの技量はない。もう、ターンするたびに新雪に板を取られて転んでしまった。最後になって、ある程度スピードを出さないと雪に板がめり込むと気付いたが、気付いたときには帰る時間だった。ちなみに、このときも行くときは雪道だった。しかし、伯父さんは弟と違い、雪道を簡単に走り抜けていた。滑ってはいたが、まったく問題にしていなかった。さすがに弟とは違う。まあ、弟が乗っていたのは父の1800ccのセダンのLegacy B4で、伯父さんの車は3000ccのバンのLegacy Lancasterだったのだが。どちらもLegacyなのは偶然らしい。ついでに、携帯の機種も伯父さんと父は同じものを使っているが、それも偶然なのだそうだ。それを知ったときは、伯父さんは「失敗した」と思ったらしい。本当にそう思ったかどうかは知らない。
4日目は、昼頃に秋田を出て帰途についた。あれこれ考えていたのだが、4日と言えば大抵の企業では御用始めで、Uターンラッシュも落ち着き、むしろ帰宅ラッシュが問題になる、と父は読んだ。その読み通りだったのかどうかは知らないが、とにかく東北道でも首都高でも目立った渋滞はなかった。事故の渋滞はあったのだが。トラックと乗用車の衝突事故、という、しょっちゅう聞くような事故だ。そのトラックには、実は事故の2時間ほど前に抜かれていた。トラックなのに無茶な運転をする(そのとき僕たちが乗った車は、120キロくらい出ていた)と思ったが、まさか事故を起こすとは思わなかった。むしろ、軽のスポーツカーのくせに混んだ高速道路の車の間を縫うように走っていた方が事故を起こすと思った。そちらの方は、幸か不幸か事故は起こさなかったらしい。なるべく迷惑をかけないように自損事故でも起こして欲しいと思ったものだが。今にして思えば、かつて君津で見たシルビアのように、中央分離帯に60度の角度で突き刺さっていたらおもしろかったのかも知れない。今思い出してみても、あの君津のシルビアは謎だ。なぜ中央分離帯に刺さっていたのだろう。この4日目の帰途では、僕も少し運転をした。しかし、自分で運転するよりかえって疲れたのか、すぐに代われと言い出した。まあ、そうは言っても70キロくらいは走っていたようだが。全行程が650キロ程度だったから、70キロではたいしたことはあるまい。長距離を運転するなら、違反の点数を食らっても困らない僕が運転するのが一番いいと思ったが、まあ、技量が不安なら仕方がない。ちなみに、父の車でなければもう少し思い切って運転できるのだが、さすがにこのときは怖かった。ところで、僕はこのとき、アクセルを慎重に踏んだり離したりしていた。アクセルワークはそうやってゆっくりやるものだと思いこんでいたが、どうもそうでもないらしい。道理で右足の足首がやたらと疲れると思った。僕はアクセルの微調整をするために、ずっと右足の足首を浮かせた状態にしていたのだ。弟が運転したりするとやけにガタガタ揺れるのはそういうわけだったのだ。まあ、適当に走らせればいいということで。友人たちと乗るときは丁寧に運転した方が好評なので、これからもそうすることにしよう。家族と乗るときは、ある程度キビキビしてないと不安がるようだから、ガッと踏んでパッと離すのがいいのかも知れない。やたらと車を揺らして走るのは、あまり好きではないのだが…。
まあ、そんな感じの4日間だった。3日間、PCに触れなかったのは本当に久し振りでいい経験だった。ときどきこういう時間を作らないとダメだと実感した。もっとも、今はそれほど暇ではないので、当然このツケは明日以降に回るわけだが…。やれやれ。明日は徹夜だろうか。