つまらない視線 - 2003年12月29日(月) 久々に二日続けて日記を書いてみる。 今日はバイト先の忘年会があって、京都の歓楽街木屋町へと繰り出した。 総勢30名。 このバイトを始めてもう半年以上が経っていて、仕事もそれなりにこなせるようになってきているんだけれど、なんだか中途半端な人間関係が中途半端なりに完成されてしまって、めんどくさい。 適当に、痛くも痒くもない程度に絡み、絡まれ、あーあいつ一人で煙草吸ってるよーなふにゃふにゃした視線をにやにやしながら消し去ってやる。 春になったら辞めよう。 最近は、何か音楽を作る気力もなく、またMTRにほこりが積もってきている。 大した景色も思いつかず、夢も見ていない。 今一番やりたいことはなんだろう。 何にもないのかな。 らーめんでも食べようか。 - トシノセ - 2003年12月28日(日) 学校も何日か前に終わって、束の間の冬休みに突入。 年が明ければ怒涛の試験週間に突入するから、大した余裕なんて全然ないんだけれど、それでも一日中意味のないことをごしょごしょできる日々ってやっぱり僕は好きだ。 この間買ったアックスの最新号と西岡兄妹のマンガを読んだり、カレーを作ったり、社会言語学とヴィトゲンシュタインの言語ゲームに関する本を読んだり、カレーライスを食べたり、今年買ったCDを全部聴き返したり、カレーうどんを食べたり、ため息をついたり、カレーラーメンを食べたり。 もうカレーにはうんざりだ。 年が明けたら、3日間だけ実家に帰ることが決まっていて、今からお年玉の皮算用をしている。 この歳になってももらえるのかな。 一応学生だけど。 「言語が生まれたとき意識もまた生まれた。――言語は実践的意識そのものだ。言語によって意識は、他の人間にたいして実在し、だからこそわたし自身に対しても実在する現実的な意識となる。そして、言語は意識とおなじく、他の人間と交わろうとするやむにやまれぬ欲求からはじめて発生する。」 (マルクス『ドイツ・イデオロギー』) - 何も変わってはいない - 2003年12月16日(火) kiwirollの新作がとんでもなく素晴らしい。 ロックのダイナミズム、疾走感なんかもさることながら、全身全霊で歌われる、孤独の中にじわぁーと光るポジティブさを感じさせる歌声が、もうガンガン沁み入ってきてほんとに感涙モノ。 間違いなく今年のベスト3に入る作品。 いいから聴け。 - とほほほほほ - 2003年12月10日(水) 先日、パソコンの上に焼酎をこぼし、見事にうちのパソコンは死んだようです。 よって、またしばらく動けなそうです。 いかん。 - 脳がカラカラ - 2003年12月04日(木) 明日提出のレポートを一気に2枚仕上げる。 合計で3000字程。 そういやこの間クリームシチューの素を買ったのだが、 中に入っていたのが固形ルウではなく粒粒のやつで焦った。 こちゃ風邪薬ですか、っと。 - 解放区への出口 - 2003年12月02日(火) 久しぶりに走りたくなった。 何もかもがうまくいっていない。 ブレまくっている。 音楽が全てを解放するとか、そんな奇麗事を言いたくない。 昔、何もする気が起きなくて何となく友だちにメールしたら、 「何もする気がしないなら何もしなければいいんだよ」という至極的を射た答えが返ってきた。 これは今でも僕の頭に強く刻まれ1つの解決法となっている手段。 そう、何もしなけばいい。 でも、生きていくために食事を作り、社会に飛び出て行くために風呂に入ったり、洗濯をしたりしなけばならない。 とにかく何かしなければ、人生的にも社会的にも僕は死ぬ。 死んだらとりあえず2、3日は誰も気付かないだろうから、凄い異臭になっているはず。 生への執着は、一人暮らしを始めたことによって猛烈に強くなった。 “生かされている感”ではなく“生きてる感”。 たしかに、親に学費は負担してもらっているし、時折段ボールに色々詰まって食料が届く。 それに「死にそう」と電話で一言告げれば、1万円ぐらいは郵便貯金が増えているはず。 そう、完全な自立とは程遠い。 でも、自分が人生的にも社会的にもここで生きなければならないという避けがたい局面が、とにかく毎日エブリデーエブリタイム続く。 これが、恐らくこの一人暮らしで一番大きなことだ。 少々大げさに言えば、お腹が空いた時、替えのパンツがなくなった時、僕は常に生死の選択を迫られるのだ。 ・・・と書いてたら何だか元気になってきた。 この間買ったばかりの二階堂がなくなって、2、3日前に1.8ℓのいいちこを買ってしまって、そればっか飲んでいるせいか。 -
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