Tonight 今夜の気分
去るものは追わず、来るものは少し選んで …

2005年05月31日(火) 上手い声の掛け方



「 怒りは敵と思え 」

                                徳川 家康 ( 将軍 )

Consider anger your enemy.

                             IEYASU TOKUGAWA



最近は滅多に腹を立てたり、他人と争うことが少なくなった。

たまに 「 怒っているフリ 」 はするが、本気ではない。


今日は、ちょっとした相手の仕草や言葉遣いが勘に触って、思わずつい 「 キレて 」 しまうという失態をやらかしてしまった。

普段、怒りを露にすることなどないので、周囲は驚くし、相手は青ざめるし、自分自身も 「 さて、どうしたものか 」 と悩んでしまう。

当然、それなりの理由というものがあって、説明すれば大半の理解は得られるだろうが、誰にも話す気になれず、そのまま席を立った。

数人の男女が一緒にいたが、執拗に理由を尋ねる者もいれば、とにかく、ご機嫌を取ろうと右往左往してくれる者もいる。

こんなときは 「 放っておいて欲しい 」 のだから、どちらも面倒に感じる。


一人だけ、気の合う女友達が 「 たまには、いいんじゃない 」 と、何の理由かも尋ねずに言ってくれた。

これは、大雑把で無責任な発言のようだが、自分には嬉しかった。

他の誰もが 「 何故、怒っているのか? 」 を気にしているのに対し、彼女だけは 「 私は、怒っても良いのか、悪いのか? 」 を考えてくれている。

理由はどうあれ、腹が立ったのなら 「 たまには怒ってもいいさ 」 という意見を投げかけてくれたわけである。

不機嫌な中にも、少しは 「 救い 」 を感じる瞬間であった。


ただ何事も、怒りで始まった事柄は上手く行かないもので、人間は怒ると 「 損 」 をすることが多いものだ。

だから、滅多なことでは怒り狂わないほうが得策なのである。

そんなことぐらい、ちゃんと判っているのだが、押し上げる感情を堪えきれずに発散させてしまうことだって、たまにはあるものだ。

そこで 「 たまには、いいんじゃない 」 などと声を掛けてくれる友達は、あるいは異性であっても、「 親友 」 になれる可能性がある。

その後、結局は 「 TAKA らしくない 」 とか、なんだとか言って、理由を問い詰められてしまうのだが、悪い気はしないものだ。






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2005年05月30日(月) 楽観主義者と悲観主義者



「 私は楽観主義者だ。

  それ以外のものであることは、あまり役に立たないようだ 」

                  ウィンストン・チャーチル ( イギリスの首相 )

I am an optimist.
It does not seem too much use being anything else.

                           WINSTON CHURCHILL



楽観主義というと、現実を無視した考え方というイメージが強い。

現実を直視したならば、楽観主義でいられるはずがないというわけだ。


しかし、チャーチルも言っている通り、楽観主義でないことが何の役に立つのかということを考えると、少なくとも 「 悲観主義よりは百倍マシ 」 と思う。

危機感を持つ事も必要だが、何でも悪い風にしか考えられなくて、人を信じたり、愛したり、感謝できない人間が、まともに出来る事は少ない。

常に世の中を斜めからみて、不平不満を並べ立てるばかりの人は、他人に不快感を与える以外に、何の功績を残しているだろうか。

そればかりか、そういう連中が不幸の淵に追い込んでいるのは、他の誰でもない 「 愚痴っている自分自身 」 であることに気付くべきだろう。

怒って泣いて暮らすも、喜んで笑って暮らすも、同じ一生である。


実際、世の中を善くしたり、少しでも他人の役に立っているのは、どちらかというと楽観的な発想を得意とする人物たちであることが多い。

世の中に悲観的な輩が、他人に勇気を与えたり、励ますことなど出来得るはずもなく、もし出来たとすれば、それは偶然か、あるいは 「 嘘 」 である。

そう考えると結局、自分自身の幸福を望み、他人や社会に貢献する生き方を目指すなら、楽観主義であることのほうが現実的だという結論に達する。

悲観主義者の多くは楽観主義者をみて、「 もっと現実を見ろ 」 と鼻で笑うが、いくら世情に長け、知識があっても、役立たずで愚かなのはどちらか。

たとえ手持ちが一万円しかなくても、日々を楽しく暮らせる楽観主義者は、十億円あっても不満でたまらない悲観主義者より、明らかに優れている。


悲観主義に走る原因の一つは、「 自分に自信が無い 」 ということだ。

自信がないから、当座のお金が少ないと不安だし、社内の評価が下がると不安だし、周囲の視線が不安だし、不安なことだらけになる。

プライドが高い割には 「 やってきたことが中途半端 」 で、全体の平均よりは上なんだけど、それなりの人からみれば 「 凡庸 」 だったりする。

だから、たとえばWEB日記で 「 素人相手に 」 知識をひけらかしてストレス解消をはかって、思いがけず 「 玄人から 」 矛盾を指摘されて落ち込む。

そんな人は 「 日記を公開するべきでない 」 のだが、他に手軽なはけ口もなく、専門医以外は話も聴いてくれないので、続けているようだ。


月曜日の朝は、「 自殺ラッシュ 」 である。

欧米でも [ blue monday ] という言葉があり、世界中の気が重い勤め人や、自信のない人間、働きたくない人間が、わんさか死にたがる。

生きている間は、暗い話題、憂鬱な空気ばかりを提供し続けてきた連中が、最後は線路に身を投げて電車を遅れさせたり、飛び降りて道を汚す。

まともな人間、辛いことや苦しいことがあっても、希望を失わずに戦っている人間にとっては、まったく迷惑きわまりない存在である。

さて、貴方は楽観主義者として自分の人生を創作しますか、それとも、悲観主義者として人生を創作しますか、・・・どちらを選ぶのだろうか。






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2005年05月29日(日) 開けてはならない玉手箱



「 私たちは、不必要なものだけが必需品である時代に生きている 」

                            オスカー・ワイルド ( 作家 )

We live in an age when unnecessary things are our only necessities.

                                 OSCAR WILDE



おとぎ話の中には、教訓や、未来への啓示が多く含まれているという。

しかし、ちょっと理解が難しいものや、矛盾を感じる内容のものもある。


ある日、海岸を歩いていた 浦島 太郎 は、子供達にいじめられている亀を助け、後日、その亀に案内されて 竜宮城 へと出かける。

そこでは、鯛や平目の舞い踊りを眺め、美しい乙姫からの接待を受ける。

出発の日、「 けして開けてはなりません 」 という忠告と共に玉手箱を土産に渡され、元の生活に戻るのだが、周囲の風景はすっかり変わっている。

途方に暮れた挙句、何気なく玉手箱を開けると、またたく間に老人と化し、彼は自分が思っていた以上に長く 竜宮城 に居たことを悟る。

おとぎ話の 「 定番 」 ともいえる物語だが、腑に落ちない点も多い。


まず、「 なぜ、水中へ酸素ボンベ無しで潜れたのか 」 とか、「 鯛や平目が何のBGMで踊ったのか 」 といった点には目をつぶろう。

それに、「 乙姫とは何者で、なぜ亀を助けたことで接待されたのか 」 とか、「 なぜ、竜宮城内で浦島は老化しなかったのか 」 も忘れよう。

それよりも、乙姫が 「 開けてはならない玉手箱 」 を恩人への土産物として選んだ 「 贈答のセンス 」 というものが、どうしても理解し難い。

普通なら、「 サラダ油 」 とか 「 そうめん 」 とか 「 ハム 」 などが実用的で、特産物を自慢したいなら 「 シーフード 」 なんかが喜ばれるはずだ。

東南アジアへ旅行に行った友人から、置き場に困る 「 不気味な人形 」 を土産にもらうのと同様に、「 開けてはならない箱 」 なんて有難迷惑である。


識者っぽい意見によると、この 「 開けてはならない玉手箱 」 というのは、知人、友人の死に絶えた絶望から、浦島を救う最終アイテムだという。

それならそれで、「 帰ったら開けなさい 」 だとか、帰ったらどうなっているかという説明をしたうえで、使い方を教えるほうが親切だろう。

美女が意味深に 「 開けちゃダメよ~ん、ウフッ♪ 」 なんて渡し方をするのは、ちょっと卑怯な気がするし、どうみても 「 罠 」 としか思えない。

私は、この物語を 映画 『 猿の惑星 ( 1968 米 ) 』 に似た SF であるという認識を持っているが、乙姫という 「 悪女 」 が出てくるところが凝っている。

いづれにせよ、箱を開けた途端に厳しい現実へ引き戻され、時代の移ろいと虚しさに気付かされるという結末は、なんとも 「 ブラック 」 である。


この週末に、私を一番驚かせたニュースは、フィリピンのミンダナオ島で 「 旧日本兵 」 が発見されたという話題である。

以前、横井さん、小野田さんが発見されたときも驚いたが、あれからさらに30年が経ち、戦後60年の歳月を経て発見されるとは思わなかった。

よくぞご無事で、孤独に耐え、今まで生きてこられたと敬服する。

人間は、電子レンジや、パソコンや、携帯電話や、エアコンや、六法全書や、天使のブラなどなくても、その気になれば生きられるのだ。

昔の彼女が 「 私、エルメス が無ければ死んじゃうの~ 」 と言ってたのは、どうやら事実ではないということに、ようやく気がついた次第である。


私には、彼らが命がけで生涯を賭して 「 守ろうとした未来 」 を、堂々と誇らしく見せる自信がない。

国旗、国歌を否定し、生徒に 「 日本は悪い国です 」 という洗脳を施すことにしか興味のない教師や、私欲のために国を売ろうとする政治家。

ぬるい環境を求め続け、上司が、会社が厳しいから精神を病んじゃいましたと主張する連中の多さや、それを擁護する社会の風潮。

靖国神社に参拝する度、中国、韓国の顔色を伺い、北朝鮮に国民を拉致されようが、文句も言えず、内外の圧力から武力も行使できない現況。

どこに、彼らの思い描いた 「 守るべき日本 」 などあるのだろう。


ご高齢ではあるけれど、特に健康状態に問題がなければ、彼らはいづれ 「 現実の未来 」 を知ることになるはずだ。

それを 「 開けてはならない玉手箱 」 にしたのは、現代を生きる我々全員の責任であり、私自身は 「 恥ずべき結果 」 だと思っている。

それは、彼らの知る 「 軍国主義 」 と、現在の 「 平和ボケ 」 とを比較した評価ということではなく、彼らに対する 「 私個人の気持ち 」 である。

戦争が良いとか悪いという論点とは別の感慨であり、国のために戦い続け、時間を喪失した彼らへの 「 申し訳なさ 」 から派生するものだ。

彼ら自身が、どのような感想を抱くかは不明だが、私には 「 お疲れさま 」 と、「 こんな国にしてゴメンナサイ 」 という言葉しか思い浮かばない。






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2005年05月28日(土) お詫び



体調・・・△

時間・・・多忙

眠気・・・かなり

酒量・・・酩酊

気力・・・60%


ということで、昨夜に引き続き 「 日記の更新はお休み 」 とします。

ご訪問いただいた皆様には申し訳ありません。

明日は3日ぶりに更新させていただく予定です。

勝手ながら、何卒、よろしくお願い申し上げます。






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2005年05月26日(木) 私のファッション史



「 私は洋服をデザインするのではなく、夢をデザインするのです 」

                  ラルフ・ローレン ( ファッション・デザイナー )

I don't design clothes, I design dreams.

                                RALPH LAUREN



昨夜に続き、石津氏を偲んでファッションの話を少々。

今夜は 「 私のファッション史 」 みたいな感じで・・・


たぶん、他の人も似たようなものだろうけれど、最初に自分のお小遣いで、着たいと思う服を購入したのは、中学生のあたりからだと思う。

70年代の前半は、ジーンズが急速に普及し始めた頃だったので、ジーンズやら、デニム地のオーバーオールなんかを買った記憶がある。

もちろん当時は、ジーンズではなく 「 ジーパン 」 と呼んでいた。

それより以前から日本にジーンズは存在したが、私より上の世代の人は 「 ジーパンを穿いている奴は不良だ 」 と批難され、肩身が狭かったのだ。

ヒッピーや、赤軍派や、全学連や、反戦フォークシンガーなど、当時の大人が 「 息子にだけは、なってもらいたくない 」 人種がジーパンを穿いていた。


それらの過激な時代風俗が収束して、世の中が平穏になった頃に、ようやくジーンズに対する偏見も解け、広く浸透して定着していったのだ。

夏はT-シャツにジーンズ、冬はネルシャツやコーデュロイにジーンズ、春と秋にはジージャンにジーンズで、一年中ジーンズを愛用した。

ところが、たった二~三年で、私はジーンズを穿かなくなった。

その原因こそが、私と「 VAN 」 との出会いであり、アイビー、トラッドというファッションの坩堝にハマりこんだ高校生活の始まりである。

世の中の流れ的にみると、ジーンズが脚光を浴び始め、アイビーが廃れていった時代だったのだが、中学生に 「 VAN 」 は早すぎたのである。


詰襟の学生服の下には 「 VAN 」 の白BDシャツ、ベルトはコードバン、靴はローファー、ソックス、ハンカチ、トランクスまですべて 「 VAN 」 である。

私服では、ボトムは綿パン ( コッパン ) かチノパン、布帛のシャツは花柄、チェック、ストライプ、小紋など、かなりの種類を集めていた。

ニット系では、オーソドックスなアイビーセーター、ベストなどに加え、当時、ちょっと流行ったボートネックのセーターなどが懐かしい。

高二の夏頃からはニュートラ ( 最近のニュートラとは別物 ) が大ブームになり、背伸びして大人っぽいモノを ( 似合いもしないのに ) 着ていた。

クリスマスが近づくと 「 KENT 」 のブレザーが欲しくなり、清水の舞台から飛び降りて買ったのだが、さすがに高価で、他には何も買えなかった。


高校を出た翌年に 「 VAN 」 が倒産し、その取り扱い店が次に看板商品としたのが、ブリティッシュ系のトラッドや、メロー系のトラッドだった。

その頃に買った商品でよく覚えているのは、肩にエポーレット ( 肩章 ) の付いた薄手のセーターとか、アースカラーのシャツなどである。

マンシングのゴルフウェアや、ラコステ、ラルフローレンなどのポロシャツが流行りだしたのもその頃で、そんな格好をして大学に通った。

モノは良かったのだが、すぐに飽きてしまうデザインが多く、メンズクラブという雑誌を眺めては、ああでもない、こうでもないと迷い続けた。

悩んで吟味し、大金を投じたわりに 「 思い出深いファッション 」 は少ないのが、当時 ( 80年代初頭 ) の購入商品群である。


社会人になり、会社に入る前に 「 絶対、これを着たい 」 と決めていたのが、ブルックス・ブラザースのスーツだった。

ところが、当時のスリムな私には、かなりサイズ的に無理があって、実際に購入したのは、同じ路線のJ・プレス、ニューヨーカー、エドワーズだった。

だから30歳を過ぎ、ウエストが76cmを超え、なんとかブルックスを着られるようになったときは、ちょっと感動したことを覚えている。

意気揚揚と青山のブルックス・ブラザース ( しかもここは、VAN の本店があった場所である! ) に出かけた日の事は、今でも忘れられない。

店員さんにとっては 「 わかりやすい客 」 だったようで、同じ業界の人間であるにも関わらず、勧められるままに大量に買い込んでしまった。


私は一度社会人になってから留学しているので、アメリカでの学生生活は、比較的に余裕のある暮らしができ、着る物にも困らなかった。

アメリカ人は、鼻ったらしの小僧でも、ちゃんとフォーマルを自前で揃えていて、いつもは小汚い友達が、たまにめかし込んでいるのには驚いた。

最初に現地で新調したディナージャケットは子供用で、華奢な日本人なんて中学生並みの体格しかないことを、改めて思い知らされた。

普段はアイビーリーガーのスタイルで、スウエットが圧倒的に多かった。

日本に帰ってきたら、すぐにスーツで出社して ( 企業派遣なので )、かなり違和感のある状態だったが、有意義な体験だったと思う。


30代は、念願のブルックス・ブラザースを筆頭に、ラルフ・ローレン、ポール・スミスなどの好きなブランドが満喫できた時期だった。

バブル期に、アルマーニなどのデザイン物に宗旨変えした仲間も多かったが、私はトラッド一辺倒にこだわり、特にスーツは姿勢を崩さなかった。

ジーンズを再び穿くようになったのも30代からで、最初はリーバイスしか穿かなかったのだが、ディーゼル、エビスなども穿くようになった。

いまは、過去ほどファッションというものにこだわっていないが、いつまでも 「 自分らしい 」 服装ができればいいなぁと思っている。

ファッションの自分史を振り返ってみると、やはり 石津氏 の影響を少なからず受けているわけで、氏の訃報に際し、改めて感謝を捧げたい。






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2005年05月25日(水) 巨星の落日



「 中年とは、心の広さとウエストの細さが入れ替わること 」

                     ボブ・ホープ ( アメリカのコメディアン )

Middle age is when broadness of the mind and narrowness
of the waist change places.

                                   BOB HOPE



最近、ちょっと嬉しい変化がある。

あまり周囲には気付かれていないが、自分だけは知っている。


それは、「 お腹周りの贅肉がシェイプアップされてきた 」 という身体的変化で、気になっていた 「 中年太り 」 に歯止めがかかった感じである。

中年男性の肥満は、女性と違って、たとえば 「 “ 貫禄が出てきましたね ” と他人に誉められる 」 など、あながち印象を悪くするばかりでもない。

だから余計に、油断していると肥満が進むし、ダイエットに関して無頓着になりやすい傾向があって、気が付くと 「 ありゃりゃ 」 という結果になる。

肥満は、外見的な美醜の問題だけでなく、健康面で影響の大きな問題なので、特に中年以降は気をつけたほうが望ましい。

痩せ過ぎにも問題はあるが、太り過ぎると成人病になる心配が大きい。


最近になって、何か特別な運動でも始めたわけではないが、なるべく間食を摂らず、規則正しい食事の習慣を心がけたことが効を奏したようだ。

やや酒量の多い日もあったりするが、太りやすいビール類などは多く摂らないので、さほど肥満への影響は無かったようである。

外食時には、なるべく魚や野菜を中心としたメニューを選び、調理方法も、揚げ物が多く偏らないように気をつけた。

かなり忙しい日々を送っているが、多少遅くなっても、できるだけ自炊をするようにして、家では粗食を旨としている。

忙しいため、凝った料理をつくれなかったことが、かえって幸いしている。


いくら服装に気をつかっても、体型が崩れてしまうと、「 着こなし 」 が悪くなり、何を着ても格好良くは映らない。

テレビによく出ている男性デザイナーの一人が、たまに素人のファッション・チェックなどをしているが、彼自身の体型が悪いので説得力が薄い。

ファッションと体型には相互関係が深く、特に、若々しい着こなしを望むならば、中高年特有の肥満体型に陥らないよう、気をつける必要がある。

もちろん、服装が体型の弱点を補正することもあるが、本当にオシャレな人というのは、好きな服が着れるように、体型を維持することにも積極的だ。

衣服への興味だけではなく、その人のライフスタイル全般に関する考え方、取り組み方を含めた 「 すべて 」 が、その人のファッションなのである。


男性向けのファッションで一世を風靡した 「 VAN ( ヴァンジャケット ) 」 の創始者である 石津 謙介 氏 が、肺炎のため亡くなった。

昭和30年代から50年代初頭までの間は 「 アイビールック 」 の全盛時で、その火付け役となったのが、この 石津 氏 である。

ちょうど私が高校に通っていた頃 ( 昭和50~53年 ) は、その終焉を迎える直前であり、まさに我々は 「 最後の VAN 世代 」 だった。

青春を振り返るときに、「 VAN の白の BD ( ボタンダウン ) シャツ 」 は、欠くことのできない必須アイテムであり、我らの誇りでもあった。

現在ほど 「 ブランド 」 が豊富に揃っていない時代なので、皆が集中したという背景もあったが、あれほどの巨大ブランドは二度と現れないだろう。


ここで 「 VAN 」 の思い出を語り始めると、日記が何行あっても足りないぐらいで、とにかく当時は 「 男性ファッションといえば VAN 」 であった。

それは、オシャレに興味のある学生にとって 「 制服に準ずるもの 」 という ポジション が成立しており、必需品ともいえるものだった。

衣料品店も、「 VAN を置いているか、否か 」 で存在価値が分かれ、取り扱い店にはたえず、各地の学生がたむろしている風景があった。

我々も、学校帰りに 「 VAN の ショップ 」 へ頻繁に立ち寄り、新作情報や、バーゲンの予定などを店員の兄さんから聞くのが一つの習慣だった。

情報誌の少なかった時代、彼らは 「 神 ( 石津 氏 ) の声を伝える使徒 ( 店員 ) 」 であり、我らにとっては憧れの存在だったのである。


最近の衣料品業界が不振である原因の一つに、「 ストア・ロイヤリティ 」、「 ストア・エクイティ 」 の低下という現象が考えられる。

昔は、商品そのもののブランド力だけではなく、それを扱う店舗の価値というものがあって、店員の商品知識、接客力などが大いに影響した。

いまは、情報誌が溢れ、消費者の知識量が豊富になる一方で、対面販売の形式が減り、知識を求められなくなった店員の技量は格段に低下した。

セルフ販売 ( 気に入った商品を選び、レジに持っていって清算する ) 方式の店舗では、あまりファッションに縁の無い人間でも店員が務まる。

客が 「 玄人化 」 して、店が 「 素人化 」 した結果、店舗自体の存在価値は 「 ただの商品の流通拠点 」 でしか成立しなくなってきたのである。


それを復活させるには、店員のスキルと人間的な魅力を高め、店舗自体の活性化と、位置付けを高める努力をする必要がある。

消費者が、「 あの商品を買った 」 だけでなく、「 あの店で買った 」 と言って自慢するような店づくりを目指すことが、本来は店舗の使命なのだ。

石津 氏 は、休日には料理もして 「 ライフスタイル全般がファッション 」 という名言を遺した粋人だが、経営の手腕については批判も多かった。

販売網の急速な拡大などが災いして破綻も経験されたが、彼の構築した 「 VAN 」 と、その店舗の持っていた魅力は、見直されるべきである。

あんな時代は二度と来ないだろうが、商品力にあぐらをかいて店舗の価値を高めようとしないようでは、繊維不況からの脱却は難しいだろう。






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2005年05月24日(火) 適性検査の重要性



「 私にとって最高の勝利は、ありのままで生きられるようになったこと、

  自分と他人の欠点を受け入れられるようになったことです 」

                        オードリー・ヘップバーン ( 女優 )

The greatest victory has been to be able to live with myself,
to accept my shortcomings and those of others.

                             AUDREY HEPBURN



前回の続きになるが、「 適性の不足している人 」 に多くは望めない。

いくら頑張ったところで、「 駄目なものは駄目 」 なのである。


私自身は、けして 「 頭ごなしに否定する 」 考えを持って他人と接しているわけでもないが、それもまた 「 真実 」 なのである。

希望を抱き、挑む姿勢は評価するが、あえて適性の無い 「 苦手な分野 」 に固執する理由など、ほとんどのケースで見当たらない。

たとえば私にも、得意な事と苦手な事がハッキリしており、避けて通れない欠点は克服しようともするが、避けられるものは極力、避け続けている。

それは 「 ありのままに生きよう 」 とすれば可能な話で、適性の無い事柄に多く出会う御仁は、どこかで 「 別の自分 」 を演じようとしているものだ。

無理せず、自分らしく生きれば、そんな 「 不幸 」 を味わうこともない。


つまり、何かの事柄に対して適性の無い人を 「 駄目な人 」 と見下しているわけではなく、他の 「 適性を活かせる事柄 」 に向かうことを勧めている。

企業や、カウンセラーが 「 適性検査 」 を受けさせたりするのは、まさにそのためであり、概ね、その結果には従ったほうが無難だ。

そうすることが、企業にとっても、個人にとっても 「 幸せな結末 」 が予測されるものであり、それに逆らうメリットは少ないはずである。

もちろん、逆境を跳ね除けて活躍する人もいないわけではないが、それはよほど精神力がタフな人物にのみ限られている。

苦手な仕事を与えられて精神を病みましたとか、ミスを犯して叱られたのでノイローゼになりましたとか言ってるような人は、まったく問題外である。


何かの仕事に適性が無くても、他の業務には適性があったりして、ほとんど大多数の人間には 「 その人の長所 」 というものが存在する。

ところが、他人の忠告を無視したり、自分で違和感を覚える業務に固執することで、本来の魅力や才能を発揮する機会を逸する人も多い。

能力や適性が無いことが 「 駄目人間 」 なのではなく、駄目と知りつつ方向転換を講じないことが 「 駄目人間 」 の証なのである。

挙句の果てには、それを苦にして首を吊ったり、「 会社が悪い 」、「 世の中が悪い 」 と他人のせいにするのが、その最たるものであろう。

特に今は 「 人材が溢れている時代 」 なのだから、適性の無い人物に働いてもらう理由など、ほとんど見当たらず、すべて自分の選択責任である。


仕事柄、他人様に就職のお世話をする機会が多いけれど、その際に私が最も気を付けている点も、そういった 「 職業適性 」 という項目だ。

それは、携わろうとする仕事への 「 定着性 」 と 「 満足度 」 について大いに関係する要素であり、ある意味、待遇や仕事内容よりも重要である。

あるいは、当初には問題が無かったのだけれど、働いているうちに適性の合わないことに気付き、脱落していく人たちもいる。

それでも踏み止まり、歯をくいしばって耐えるのも選択肢の一つだが、そうすることに決めたのなら、一切の泣き言を漏らしてはならない。

もし、そこで誰かに 「 辛い、苦しい 」 と弱音を吐いたのならば、潔く選択の誤りを認め、自分らしさを活かす道を探すのが、賢明な措置といえよう。






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2005年05月23日(月) 適性の無い者の処遇



「 誰のことも誉める人を信用してはならない 」

            ジョン・チャートン・コリンズ ( イギリスの文芸評論家 )

Never trust a man who speaks well of everybody.

                       JOHN CHURTON COLLINS



以前、仕事の出来栄えとは 「 質 × 量 」 だと書いた。

実は、他にもう一つ 「 重要な要素 」 がある。


あえて書かなかったのは、それが 「 天賦の才 」 に属するもので、他の二つ ( 質 と 量 ) とは違い、努力して得られるものではないからだ。

勘の良い方はお気づきだと思うが、残りの一つとは 「 適性 」 である。

別の呼び方で 「 仕事のセンス 」 と言ってもいいだろう。

もちろんこれも、ある程度までは経験や学習によって身に付くが、同じように時間を掛ければ、誰もが同じ成長を遂げるとはかぎらない。

この面に関しては、「 教えなくても、最初から備わっている人 」 もいれば、「 いくら教えても、理解できない、成果が挙がらない人 」 もいる。


脱線事故を起こした JR の運転士は、13日間で19回も反省文を書かされていたらしく、その プレッシャー が事故に繋がったと解説する人がいる。

事故後も JR は、能力の劣る運転士に対して、同じように反省文を書かせたり、知識、能力の向上をはかるために再教育を施しているという。

当然、「 乗客の命に関わる問題 」 なのだから、技量が劣るとわかっていながら放置することはできないが、指導方法がお粗末なようである。

それは 「 教育 」 というよりは 「 罰則 」 のような色彩が強く、多少は効果もあるのだろうが、あまり適切とはいえないようだ。

一貫した指導要綱もなく、当日の指導教官の気分によるような主観的判断に基づく再教育というのでは、批判を浴びても仕方が無い。


電車を運転したことはないが、車やバイクや自転車でも、最初から上手に乗れる人もいれば、長く乗っていても要領の悪い人がいる。

運転には 「 適性 」 というものがあるはずで、電車も例外ではない。

適性の無い人を何度も繰り返して教育したところで、おそらくは上達が遅いだろうし、人によっては、ほとんど成長しないことだってあるだろう。

適性の無いと思われる運転士は、「 教育 」 ではなく、「 離脱 」 させることが望ましく、そうしなかった JR にこそ問題がある。

事故の原因が 「 運転士のミス 」 だと決まったわけではないが、13日間で19回も始末書を書かされた運転士に、運転をさせた事実は揺らがない。


JR の再教育 ( 日勤教育と呼んでいるらしい ) を不服として、組合は裁判を起こしたり、しきりに抗議を繰り返しているという。

しかしながら、適性の無い運転士を離脱させることをかばい、運転を続けさせるのも組合の所為であり、他人からみれば 「 目くそ鼻くそ 」 である。

運転士の生活を守ろうとする気持ちはわかるが、それが多くの生命に関わる重大事だけに、適性の無い運転士を放置することなど認められない。

運転士だから運転ができるのではなく、技量と熱意と適性が備わってこそ、運転に携わる資格があるはずだ。

組合側は、その点を十分に反省し、「 すべての職員を一様に擁護する 」 という認識を改めるべきで、そうしなければまた惨事を招く危険がある。






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2005年05月22日(日) 新しい友人



「 男女の間では友情は不可能だ。

  情熱と敵意と崇拝と愛はあるが、友情はない 」

                      オスカー・ワイルド ( イギリスの作家 )

Between men and women there is no friendship possible.
There is passion, enmity, worship, love, but no friendship.

                                 OSCAR WILDE


よく、「 男女間の友情は可能か? 」 について、議論が交わされる。

冒頭の言葉をはじめ、賢人はおおむね 「 不可能 」 という答を出している。


相手が 「 友達以上の気持ち 」 を抱いていると知る異性が、お互いの距離を発展させることもなく、それでも 「 仲の良い友達 」 として会う。

悩み事を相談したり、他愛の無い世間話に興じ、手も握らずに別れる。

それを 「 友情 」 という言葉で示すというのは、たしかに、他人から指摘されるまでもなく、自分でも不自然さや、多少の違和感を感じている。

また、どちらかに野心があったり、あるいはどちらかが 「 若い 」 というだけで、そんな些細な理由で、違う結果に繋がったかもしれない。

そんなものは 「 友情 」 ではないと否定される方に反論はしないが、いづれにせよ彼女に対し、「 友達以上の気持ち 」 を再び抱きはしないだろう。


あの日、彼女の肩を掴んで、私の胸から引き離しながら、顔を覗き込んで目が合ったとき、瞬間的に私は 「 年をとった 」 ことを自覚した。

それは、「 好きな女性と初めてのキスを交わす 」 のには最高の場面であり、千載一遇の好機といえるものだったはずである。

それでどうなるとか、後先のことを考えるのは 「 年寄りの証拠 」 で、けして良心とか、真面目さといった問題ではないように思う。

年をとることを 「 分別 」 という言葉で形容するのは容易いし、たしかに賢者の中には、そのような成長を遂げる人もいるのだろう。

しかし、自分をそのような人間と同列に置いて美化したところで、他ならぬ自分自身を納得させることができず、腑に落ちない点が多すぎる。


それでもやはり、自分は 「 年をとった 」 と感じた。

ただし、「 分別 」 ではなく、「 年をとって臆病になった 」 というのが真相で、前に進む馬力や勢いを、どこかで失ってしまったのだろう。

その後の葛藤を経て、あるいは彼女の落ち着きを待ってから、自分の中で彼女を 「 友達 」 として存続させることが可能になった。

異論のある方もいらっしゃるだろうが、お互いに結ばれることなどなくても、たしかに我々は 「 お互いのために、この世界に存在した 」 のである。

それを 「 友達 」 と呼び、お互いを思いやる気持ちを 「 友情 」 と名付けても、あながち間違ってはいない気がしている。


そんなことを考えている私を、いつもの私らしくないと心配してくださる方もいるが、それほど落ち込んでいるわけでもない。

少々、年をとったのも事実だが、これから先、残された時間もたっぷりあるわけだし、こんなところで立ち止まっているわけにはいかない。

これから先もまた、私を 「 男性として 」 必要としてくれる魅力的な女性に、再び巡り会う機会が、きっと少なからず訪れるものと信じている。

もちろん、同じような障壁などなくても、同じ結果に終わる可能性もあるが、それは、体験してみないとわからない。

いつか、この 「 新しい友人 」 に、新しい恋の報告ができるように、再びまた頑張ってみたいと思っている。






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2005年05月20日(金) 再会



「 優しい人を探しなさい。 金持ちは除外することです 」

                     エスティ・ローダー ( 化粧品会社役員 )

Look for a sweet person. Forget rich.

                                ESTEE LAUDER



誰かへの、「 配偶者の選び方についての アドバイス 」 だそうである。

お金で得ることのできる幸せは、長続きしないという意味か。


会いたいと言われたら、当然、会わないわけにはいかない。

時間を調整して、指定の待ち合わせ場所へと向かった。

気のせいか、少し元気を取り戻したようにも見える彼女は、春物のシックなベージュのスーツに身を包み、先に到着して待っていてくれた。

パスタとワインで軽めの夕食をとり、喫茶店では話をするのに騒々しすぎるので、静かなホテルの BAR へ案内することにした。

込み入った話になりそうなので、隅のテーブルを頼み、席についた。


話というのは、「 固定資産税と、相続税の話 」 である。

彼女のご主人はお金持ちの家系で、いろいろと不動産やら資産を擁しているのだが、そろそろ高齢になる親の心配を始めているらしい。

こちらは大した財産も無いが、数年前に父が死んだときに 「 その方面 」 では苦労したので、そのときの経験談などを話したりした。

ある程度、電話では聴いていたのだが、「 色気 」 など微塵もない話だ。

勘違いして 「 新品のトランクス 」 など買って行かなくて、大正解である。


一部の読者の方には、「 不倫 」 だとか、「 TAKA さま ご乱心! 」 などとも賑わっていただいたようだが、そんな話には発展していない。

もちろん、「 好意を抱くこと自体が汚らわしい 」 と言われれば反論の余地も無いが、それ以上でも、以下でもないことをご承知いただきたい。

男女でも 「 友情は成立する 」 のであり、年をとればなおさら、そこに恋心が潜んでいたとしても、お互いに抑えることができるものだ。

我々に歯止めをかけるものは、倫理観というよりも 「 互いへの敬意 」 だとご理解いただいたほうが、より真実に近いだろう。

以前のような 「 切なさ 」 は無いが、お金持ちも苦労が多いという話には、少々の 「 敵意 」 も感じる次第である。






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2005年05月19日(木) 迷いのとき



「 川を見ると落ち着く。

  それは川に迷いがないからだ。

  川の行き先は決まっていて、ほかへ外れることはない 」

                        ハル・ボイル ( アメリカの特派員 )

What makes a river so restful to people is that it dosen't have any doubt - it is sure to get where it is going, and it dosen't want to go anywhere else.

                                   HAL BOYLE



人の人生が川だとしたら、たしかにそうなのかもしれない。

しかしながら、荒天で川岸が決壊したり、枯れて干上がることもあろう。


まったく 「 迷い 」 の無い人がいるなら、その人こそ賢者だと思う。

自分に自信があることと、「 迷い 」 が無いこととは違う。

大半の人間は常に 「 迷い 」 と葛藤しており、その場面においての決断による結果が大きかったものを、後から 「 人生の分岐点 」 と呼んだりする。

自分の生きる姿勢や、身の処し方を心得ているつもりでも、常に 「 迷い 」 はつきまとうもので、そこから逃れることが難しい。

年をとれば 「 迷い 」 から解放されるものと思うのは、どうやら間違いのようで、普段はその存在に気がつかないけれど、いつもすぐ近くにいる。






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2005年05月18日(水) 人に好かれる秘訣



「 人に好かれるのは、人を好きになることの裏返しにすぎない 」

                       ホセ・オルテガ・Y・ガセ ( 聖職者 )

Getting people to like you is merely the other side of liking them.

                       JOSE.ORTEGA.Y.GASSET



彼氏、彼女を 「 ゲットする 」 という表現は、上文からみても正しい。

人に好かれるのは、[ people to like you ] を [ getting ] することである。



万人から好感を持たれることは難しいが、比較的に 「 人に好かれやすい 」 タイプの人と、「 人から嫌われやすい 」 タイプの人がいる。

ビジネスマンの場合は、まず 「 仕事が人並みに出来る 」 ことが大前提で、それが無ければ 「 ビジネスマンとして好かれる 」 ことはない。

もちろん、「 仕事は人並みに出来るが、嫌われやすい 」 という人もいるし、仕事上は少し問題があるけれど 「 人間性が好かれる 」 という人もいる。

人格的な面で人の好感を得る方法は意外と簡単で、ノウハウ本も各社から数多く出版されているので、興味のある人は買ってみるとよい。

それらに書かれてある通りに実行して、好かれないことは考え難い。


問題は、そういった動作を 「 意識的に行う 」 のか、「 無意識に行う 」 かの違いで、意識しないと出来ない人の場合は、相当な疲労を伴う。

実際、人に嫌われたくないという願望が強すぎて、無理をした挙句に精神のバランスを崩したという人もおり、それはそれで不幸な話かもしれない。

逆に、そういった本に書かれてある 「 セオリー 」 にすべて逆らっていても、不思議と人に好かれる資質を持っている人もいる。

そんな人物には、何かしら 「 天性の魅力 」 が備わっていたり、表情が豊かだったり、性格が明るかったり、特別な 「 オーラ 」 のようなものがある。

あるいは、無意識のうちに 「 人の好感を得るセンス 」 を発揮している人もいて、優秀な営業マンの多くは、そのタイプに属している。


また、人に好かれる術を 「 テクニック 」 に頼っても、そこには限界がある。

他人の存在を認めて、好きになることがなければ、自分に対する好感度を高めたり、他人との絆を深めるということは難しい。

そのためには、まず 「 他人の話をよく聴く 」 ことが大事だ。

会話の最中で、すぐに 「 私もね ~ 」 とか、「 俺の場合はね ~ 」 などと、すぐに口をはさんで割り込む 「 俺が、俺が 」 というタイプの人がいる。

こういう人たちは、「 自分をアピールして好かれよう 」 とする癖が強いのだが、他人の話を興味深く聴かないことが災いし、逆に嫌われることが多い。


人は本来、「 自分の話を聴いてもらいたい生き物 」 だと思う。

だからこそ、数多くの人が本を書いたり、WEB日記を公開したり、占いが繁盛したり、カウンセラーという商売が成立したりもしている。

カウンセラーに求められる 「 きく 」 は 「 聴く 」 であり、「 聞く 」 や 「 訊く 」 ではない。

英語の感覚でいうなら 「 聴く ( 耳を傾け、注意を払って聴く ) [ listen ] 」、「 聞く ( 音を聞く ) [ hear ] 」、「 訊く ( 問う、尋ねる ) [ ask ] 」 の違いか。

一般の人でも、他人を認め、好きになり、他人の話を 「 聴く 」 ことのできる習慣が身につけば、それだけでも好感度を上げる秘訣となり得るだろう。






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2005年05月17日(火) 「 甘さ 」 という企業悪



「 失敗は罪ではない。 罪とは低い目標を持つことだ 」

 ジェームズ・ラッセル・ローウェル ( アメリカの詩人、外交官、大学教授 )

Not failure but low aim is a crime.

                       JAMES RUSSELL LOWELL



詩人で、外交官で、ハーバード大学の教授とは、実に多才な人物だ。

駐スペイン公使、駐イギリス大使の他、雑誌の編集者も務めている。


ちなみに、今は亡き私の母親は、私を 「 外交官 」 にしたかったそうだ。

母親を早く亡くしたことは残念だが、そんな 「 退屈そうな仕事 」 に就かなくて済んだのは、不幸中の幸いといえるかもしれない。

ただし、外交官にもいろいろなタイプがいて、この人のように詩を書いたり、大学で近代語文学を教えたり、ただの 「 堅物 」 ではなさそうな人もいる。

そういう人だからこそ、冒頭のような 「 気の利いた名言 」 を遺した。

今夜は、この名言を 「 お題 」 として話を進める。


JR 西日本の 「 ヒット商品 」 の一つに、「 新快速 」 という電車があり、その名の通り、スピードが速いことを売り物にしてきた。

京阪神にお住まいの方なら、大阪駅から京都駅までの間を、僅か29分で結ぶこの電車を過去に利用された方も多いのではないだろうか。

少し発着地点は違うが、競合する阪急、京阪などの特急電車で同じ区間を利用する場合、1.5倍前後の時間が掛かる。

たとえば、阪急の特急で梅田から河原町まで行く場合、42分掛かる。

片道料金は、阪急の390円に対し、JR は540円と高いのだが、時間的に余裕のないビジネスマンなどに人気が高く、私もよく利用している。


この 「 新快速 」 の走行速度や、発着本数を見直す動きがあるらしい。

理由はもちろん、先般の脱線事故による 「 安全性の見直し 」 であり、利用客にとっては残念な気もするが、いたしかたない事情も理解できる。

ただ問題は、「 運賃は下げない 」 というところにある。

普通、商品を販売する場合に、理由はともあれ、提供者側の事情で商品の 「 品質を下げる 」 ということになれば、値下げは当然のことであろう。

電車の場合、その速度は 「 品質の一部 」 とみるのが妥当で、安全走行も品質の一部だが、それは 「 以前から保証されていた 」 はずである。


けして 「 ケチくさいことを言う 」 わけではなく、品質を維持したまま安全性を強化しない姿勢、品質を落として利益を維持する姿勢を疑問に思う。

あれだけ多数の死者を出しておきながら、まだ事故原因が明確になっていない以上、「 JR の体質が悪いとも言い切れない 」 という意見がある。

たしかに、車体自体に欠陥があったり、JR の主張した 「 置石 」 といった可能性が、まったく無いとは断言できないだろう。

しかしながら、前述の 「 新快速 」 の問題や、事故後も各地で運転士のミスによる オーバーラン が相次いで起きていることも、また事実である。

利用者を無視した政策変更、運転士の技量、集中力の欠如といった点からみても、「 JR 西日本は問題の多い企業 」 と判断して間違いない。


基本的に、「 人が操作する以上は、失敗も起こる 」 のであって、すべての運行を自動制御できる仕組みにするのが理想的だ。

一昔前に、「 日本航空羽田沖墜落事故 」 というものがあって、精神疾患を患った機長が飛行中に 「 逆噴射 」 をし、大惨事を招いたこともあった。

現代は 「 人格障害者の時代 」 であり、精神科に通院までしていなくとも、心の病に冒されている者はそこかしこにいて、まるで珍しくもない。

数百名、数千名を超える運転士の中に、「 精神疾患のある者は一人もいない 」 ほうが奇跡に近く、統計的には、ほとんど期待できない数字である。

もし、精神に異常をきたし、「 乗客を道連れに死ぬ 」 という運転士が暴走した場合でも、機械的に制御できる仕組みを持つことが望ましいだろう。


それが費用の面で無理だというなら、せめて航空機並に 「 適性検査 」 を充実させ、少しでも不安な乗務員には運転させないようにすべきだ。

今回の事件では、ミスをした運転士に JR が叱責し、心理的な圧迫をかけたことが悪いかのような報道もあったが、その論理はおかしいだろう。

乗客の生命を運んでいる以上、技能の未熟な者、適性の無い者には運転をさせないのは当然の措置であり、むしろ 「 甘かった 」 ぐらいだ。

航空機のパイロットは、技能、身体能力から精神面に至るまで、その何倍もの審査をクリアーし続けないと、操縦に関与できない規定になっている。

前述の 「 羽田沖墜落事故 」 以後は、特に厳しくなった模様である。


自動制御は経費が掛かるし、運転士の質を向上させるのも面倒だし、しかしながら、世間の目もあるから安全対策を講じなければならない。

失敗から学び、反省し、改善しようと試みるのは立派だが、単純に速度だけ落としたり、ダイヤを減らすだけでは 「 目標が低すぎる 」 気がする。

この 「 甘さ 」 は企業悪であり、利用者、マスコミは追及すべきだ。

いくら速度を落としても、ダイヤを減らしても、この 「 甘さ 」 があるかぎり、再び惨事は繰り返されるのではないだろうか。

やはり、この企業は 「 体質そのものに問題がある 」 ようである。






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2005年05月16日(月) 他人の望む 「 自分 」 を演じる人



「 この世で一番容易なのは、自分でいること。

  一番難しいのは、他の人たちが “ そうであって欲しい ” と考えるものに
  
  なることだ。

  そんな立場には、追い込まれないようにすべきである 」

               レオ・バスカーリア ( アメリカの作家、大学教授 )

The easiest thing to be in the world is you.
The most difficult thing is to be what other people want you to be.
Don't let them put you in that position.

                               LEO BUSCAGLIA



この人は、童話 『 葉っぱのフレディ 』 を書いたことで知られている。

南カリフォルニア大学の教授で、「 Dr.Hug 」 というニックネームを持つ。


子供に 「 死 」 という言葉の意味を伝えることは、とても難しい。

童話 『 葉っぱのフレディ 』 の物語は、不治の大病に冒されたフレディという少年が、病室の窓から見える葉っぱに同じ名前を付けるところから始まる。

季節ごとに色を変え、やがては散っていく葉っぱに命をなぞらえ、「 死 」 という出来事を一つの変化として捉えているところが特徴的だ。

子供に、「 死 」 を教えるには、この本を読ませるとよいだろう。

それ以外にも10数冊の本を書き、20言語で1,100万部以上が売れており、「 現代のアメリカを代表する作家 」 と呼んでも過言ではない。


冒頭の格言にある通り、人間は 「 自分らしく生きる 」 ことができれば楽で、逆に 「 自分がなれないもの 」 を目指すと苦労する。

それは、「 不幸の大きな原因 」 にもなるだろう。

カウンセラーの仕事では 「 対象者の自己認知を促す 」 といった作業を伴う場面も多く、自分を見つめ、気付かせ、受け入れさせる技術が必要だ。

大抵の場合、「 自分らしく振舞っていない 」 という人は、特別なテストをしなくても、初対面の第一印象でわかることが多い。

それで 「 自己認知テスト 」 を行うと、やはり予想通りの結果が出る。


心の悩みを持った人が、「 カウンセラーと話すと楽になる 」 のは、我々が彼らに何も求めず、必要以上の期待もせず、相手を知ろうとするからだ。

本当の自分を知ってくれている人間の前では、見栄を張ったり、虚勢を示す必要がなく、格好をつけないで済むから楽なのである。

中には、カウンセラーでなくとも 「 様子が変 」 だと見透かされる人もいて、そういう人は 「 かなり無理をして、別人を演じている 」 ことが多い。

この 「 別人を演じる 」 という行為が エスカレート すると、場合によっては人格障害などの症例に発展することもある。

本当の自分でいられることが、一番楽で、一番ストレスも少ない。


周囲の期待に応えるには、どうしても 「 他人を演じる 」 必要に迫られる。

他人は、「 そうであって欲しい人物像 」 を求めるものであり、少しでも期待に背くと失望するので、気の弱い人は 「 本来の自分 」 を出せなくなる。

失望されても、「 これが自分なんだから仕方がないでしょ 」 と言えればいいのだが、そう言えない人が悩みを抱え込み、メンタル健康度を下げる。

役者と同じで、症状の軽い人は 「 演じるのが下手 」 で、たとえばエンピツの日記などをみても、日替わりで正反対の意見を述べていたりする。

本当の自分を曝け出してみたり、優等生を気取ってみたり、右往左往して日替わりで他人のご機嫌を伺う 「 軽症の 」 人が、WEBには多いようだ。


他人の意見に耳を傾ける姿勢や、自己の成長をはかる努力は大事だが、それに不満があったり、苦痛や圧迫を受けてまで、従う必要などない。

一時的に 「 他人の望む自分 」 を演じてもよいが、それで 「 本来の自分 」 を忘れたり、見失ってしまうのは愚の骨頂だ。

劣等感や恐れから、別の自分を演じても、それがその人の 「 ありのままの自分 」 よりも魅力的なことなど、ほとんど皆無に近いのである。

たとえ 「 ありのままの自分 」 が嫌いでも、それを認め、許し、偽らずに付き合っていくことが望ましく、楽なうえに他人からも好かれる。

それがわからずに 「 別の自分を創り出そう 」 としている人は、その行為が自分を苦しめることになるので、やめたほうが身のためである。






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2005年05月15日(日) 悪貨を駆逐できない企業



「 悪貨は良貨を駆逐する ( あっかはりょうかをくちくする ) 」

          サー・トーマス・グレシャム ( イギリスの貿易商、財政家 )

Bad money drives out good.

                         SIR THOMAS GRESHAM



この格言は、「 Gresham's Law ( グレシャムの法則 ) 」 として有名だ。

エリザベス一世の財政顧問官で、ロンドン王立取引所の設立者でもある。


そもそもこの格言は、1558年に彼が女王に 「 財政上の忠告をした手紙 」 の冒頭に書かれた文章だと伝えられている。

中世から18世紀頃までは、ヨーロッパには紙幣がなく、貨幣はすべて銀貨か銅貨に限られていた。

ところが王は、財政の窮乏を救うため、しばしば勝手に銀の含有量などを減らすなどして、貨幣の質を落としたりしていた。

そのため人々は、良質のものを貯え、悪質のものだけを支払いに使ったので、いくら良貨を発行しても流通しなくなってしまったのだ。

それを指摘した冒頭の言葉は、年月を経て 「 悪い人間がいると、良い人間まで悪くなる 」 という意味に発展し、世界中で広く使われるようになった。


いまから5年前、「 雪印乳業集団食中毒事件 」 が発生した。

認定者数は13,420名に上り、過去最大の食中毒事件と騒がれた。

直接的な原因は、北海道の工場で停電が起きた際に、黄色ブドウ球菌が増殖して毒素が発生したためと推定されたが、別の問題も浮上した。

大阪工場での原材料再利用に際する不衛生な取り扱いだとか、返品後の再出荷であるとか、あれやこれやと 「 叩けばホコリが出る 」 始末である。

それから2年後に、今度は傘下の 「 雪印食品 」 で、BSE 問題に関連する補助金を詐取した 「 牛肉偽装事件 」 が発覚した。


相次ぐ不祥事により、消費者、流通業者の信用を失墜させた巨大ブランド 「 雪印 」 は、その後、解体、解散する憂き目に陥ったのである。

この会社の従業員が、一人残らず、すべて 「 悪い人間 」 だったかというと、けしてそんなことはなかっただろう。

しかしながら、企業体質に問題があったことも事実で、「 悪事を見過ごした人間 」 もいれば、それを変えれる立場にいた者も少なくないはずである。

マスコミは、徹底して糾弾し、消費者もそれを支持した。

その結果、この企業は解体し、良い人間、悪い人間を問わずに、数多くの従業員は職を失い、路頭に迷った挙句に首を吊った人も出たようである。


最近、脱線事故を起こした 「 JR 西日本 」 に対するマスコミの報道姿勢について、いろいろと問題視されている。

たしかに、あまり本件と関係のない事柄まで干渉し過ぎている点や、感情的に暴言を吐いた記者がいたことには、マスコミの倫理姿勢を疑う。

しかしながら、事件以後も 「 オーバーラン 」 が多発している事実や、事件の反省、改善がみられない点については、追求してよいはずである。

人によっては、「 マスコミのせいで、運転士への嫌がらせが増えているじゃないか 」 とか、「 利用者が我慢すればいい 」 などと言う人も出てきた。

悪いのは、事件を追及したマスコミや、利便を求めた利用者なのだろうか。


あれだけの死者を出す大惨事を起こし、JR 西日本がマスコミの追求を受けるのは当然のことで、それが 「 一般市民の嫌悪感 」 を招くのも必定だ。

もちろん、それに感化されて運転士に暴力を奮う輩は法の裁きを受けることになるし、被害者の遺族でもなければ 「 情状酌量の余地 」 はない。

ただ、企業イメージが落ちたり、運転士の技量に対する 「 不信感 」 などが高まったのは、マスコミの責任ではなく 「 企業の責任 」 である。

雪印の事件があった後で、いくら 「 この牛乳は安全です 」 と連呼して誠実な雪印の社員が販売に回っても、それを取り扱う業者はなかった。

事件に全く関わらなかった 「 無実の社員 」 を悪者に仕立て上げたのは、マスコミではなく、雪印という企業であると誰もが思ったはずである。


心無い者から空き缶をぶつけられ、意地悪な張り紙をされている運転士の方々を気の毒にも思うが、「 雪印の社員 」 よりもマシな面もある。

牛乳や食肉を選ぶ消費者は、他ブランドという選択肢が豊富にあるので、雪印を買いたくなければ、他社の牛乳や食肉を買えば済む。

その点、交通機関の場合は、引越しでもしなければ 「 嫌でも、その電車に乗らなければ移動できない 」 事情があって、不買に参加できない。

逆に言うと、だからこそ 「 不満がある利用者からの不審や、憤り 」 の目に晒される機会も多いわけで、会社が潰れない代償の犠牲も大きいのだ。

運転士や職員は、「 雪印の社員 」 のように、利用者から見放されて職を失う心配がないことも、わが身の境遇として理解する必要がある。


このところ、「 オーバーラン 」 の報道が多いけれど、事件で話題になる前から、これは頻繁に起こっていた現象である。

今までは、誰も興味がなかったから報じなかっただけで、技量に問題のある運転士や、安全走行に無頓着な職員は、潜在的に多かったはずだ。

運転士らに対する暴行が多いからといって、これらの問題に関する指摘を緩めるようでは、本来、マスコミの持つ 「 浄化能力 」 が揺らいでしまう。

もちろんマスコミは、権限を乱用せず、責任ある報道倫理を貫き、扇情的に偏見を促してもいけないが、断固として 「 企業悪 」 は追及すべきだ。

内部的に 「 悪貨を駆逐できない企業 」 の場合は、特にそうなのである。






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2005年05月14日(土) 大人から子供へ行って、また未来に



「 未来というものが一番ありがたいのは、

  それは一度に一日しか来ないことだ 」

               ディーン・アチソン ( アメリカの政治家、弁護士 )

The best thing about the future is that it only comes one day at a time.

                               DEAN ACHESON



さて、何をしようか、どうしようか。

胸のつかえが下りた今日、この名言に辿り着いた。


自分の未来は自分で切り拓かねばならないとか、新鮮な気分で何かを始めたいと意気込んでも、なかなか 「 はじめの一歩 」 が踏み出し難い。

理想の未来に向けて、自分がいまやっていることが正しい方角を指しているのか、そのためのステップとして適切なのか、自問自答することも多い。

しかし、実際にはそう焦る必要もないはずだ。

焦ってみても、未来は一日づつしか来ないわけで、明後日のことは明日になってから考えても、間に合う可能性はある。

もしも間に合わないならば、その次に 「 ツケ 」 を回せば済む話で、それも時間切れだというのなら、また 「 別の未来 」 を考えてもいい。


年をとった男は、「 子供 」 に還ると言う人がいる。

きっと、わがままになったり、駄々をこねたり、思慮の浅い行動に走ったり、子供じみた言動が目立つことを指した言葉なのだろう。

病気の女性に、若くして癌で亡くなった母親の面影を重ねたり、同じような青春時代を過ごした同世代だからといって、楽しかった日々を懐かしんだ。

手に入らないものを欲しがったり、挙句の果てには 「 夜泣き 」 までする。

まさしく、( 可愛げのない ) 子供そのものである。


もちろん、実際の子供ほど純粋ではない。

純潔を守って別れたことを 「 潔い 」 だとか、「 爽やか 」 だとか、あるいは 「 良識がある 」 と称えてくださる方もいる。

もちろん、私は 「 良識のある人間 」 である。

裸の中身が 「 おそらく他の女性と大して代わり映えしない 」 ことを承知で、そのために多くのものを犠牲にする気がしないことが 「 私の良識 」 だ。

そんな自分に自己嫌悪を感じながらも、とりあえず 「 思春期 」 は終わったので、今日から 「 大人の仲間入り 」 をさせてもらいたいと思う。






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2005年05月13日(金) 晴ればれとした一日



「 だれでもある時期、情熱的になることはある。

  ある人は30分間熱中できるし、ある人は30日間続く。

  しかし人生の成功者は、30年間情熱が続く人である 」

             エドワード・B・バトラー ( アメリカのコピーライター )

Every man is enthusiastic at times.
One man has enthusiasm for thirty minutes, another man has it for thirty days.
But it is the man who has it for thirty years who makes a success in life.

                            EDWARD.B.BUTLER



仕事の結果を求める計算式は、「 能力 × 情熱 = 成果 」 だと思う。

もっと簡単に、「 質 × 量 = 結果 」 と言い換えてもよい。


やる気に溢れた新入社員は、その仕事に必要な知識、ノウハウ、技術などが未完成なため、情熱だけが空回りしてしまいがちだ。

ベテランになっていくうちに、おのずと能力は備わっていくものだが、今度は情熱が薄れてしまったり、なんとなく限界を感じてしまったりもする。

一般的なビジネスマンの 「 能力 」 と 「 情熱 」 をグラフの図表にした場合、それぞれの成長曲線がお互いに反比例していることも多い。

本当は、ベテランになっても情熱を失わず、能力と情熱の両面がそれぞれ優れている状態こそ理想的で、その状態を長く維持できる人が成功する。

二つを掛け合わせた合計の高い時期が、各人の 「 仕事人生のピーク 」 であって、早熟型とか、大器晩成型とかの違いも、それによるものだと思う。


だから人によっては、20代後半に頂点を迎え、その後は降下してしまう人もいるし、最初は低迷しているのだけれど、定年間近に伸びる人もいる。

相対的な平均値をみると、30代~40代にピークを迎える人が多いようで、その年代を 「 働き盛り 」 だとか、「 脂が乗った世代 」 などと形容される。

もちろん、仕事というのは人生にとって重要ではあるが、手段であって目的ではないから、それが 「 その人のすべて 」 でもない。

それぞれの人生で、「 あの頃が一番良かったなぁ 」 と感じる時期というものは、必ずしも各人の仕事におけるピークを指すとはかぎらない。

仕事以外にも、健康とか、恋愛とか、家庭とか、生活の様々な要素が絡み合う中で、自分が特に高い価値観を置く要素のピークを挙げる人も多い。


何事においても情熱を持つのは良いことだが、問題はその 「 方向性 」 にあり、方向性を誤るとおかしなことに結びついてしまう。

たとえば、その方向性が法的、倫理的に間違ったもので、「 18歳の少女を監禁して、ハーレムをつくりたい 」 などという情熱では、困ったものである。

そこまでいかなくとも、他人からみると 「 そんなことに情熱を注ぐなんて 」 などと思うものや、あまり感心しない情熱というものもある。

あるいは、自分でも 「 失ってしまいたい情熱 」 というものだってある。

忘れなきゃいけない相手への恋心なども、その一例といえるだろう。


少し前に日記で書いた 「 不倫疑惑事件 」 の後日談を書くことにする。

あのとき、「 もうこの件を日記には書かない 」 と宣言したのだが、気にして下さっている方も多いようなので、詳細を伝えたいと思う。

書く気になったのは、自分の 「 情熱 」 に決着がついたからだ。

今でも彼女のことを好きなことに変わりはないし、好きになり過ぎてもいけない事実に変わりはないのだが、少し状況は変わった。

少なくとも、もう 「 切ない想い 」 をすることはないだろう。


重い話になるので書かなかったが、家庭の問題や、仕事の問題とは別に、彼女にとって大きな悩みとなっていたのは、「 命 」 の問題である。

ようやく昨日になって、精密検査の結果、どうやら問題はなさそうだと安心できたのだが、生命の危険を脅かすほどの因子が、考えられたのである。

自分が死ぬかもしれないという時期に直面して、それまで抑えていた感情や、周囲に対して我慢し続けていた不満が、一機に爆発したらしい。

私のように 「 なんでも開けっぴろげ 」 な人間はストレスが溜まりにくいけれど、我慢したり、普段は不満を言わない人の場合はストレスが溜まる。

どんなに不満や、辛い出来事があっても、常に温厚で親切、素直で明るく、「 良識ある奥様 」 を演じてきた人のストレスは、かなり強かっただろう。


そんな折、「 自分は近い将来、死ぬかもしれない 」 という現実に晒されて、精神的なバランスを崩してしまわれたようである。

周囲のために様々な犠牲を払い、いつも我慢を続けてきただけに、一体 「 自分の人生は何だったのか 」 という憤りも大きかったのだろう。

かといって、不満のぶつけ方や、ストレスの吐き出し方もわからない。

どうしてよいかわからず、様子がおかしくなって彷徨っているとき、たまたまカウンセラーをしていた知人の私が、そんな彼女に気がついた。

もしも、彼女が私の 「 患者 」 とか 「 生徒 」 とか 「 お客さん 」 という立場であったなら、何の特別な感情も持たなかったはずだが、状況は少し違う。


彼女は私と同世代で、育った環境は違うけれど、同じ時期に同じような遊びをして、お互いの昔を知らないのに 「 懐かしさ 」 を感じる間柄だ。

思えばその頃、彼女と似たタイプの女性と交際した記憶もある。

私が彼女に抱いていた感情は、「 同情 」 とも、「 恋愛感情 」 とも決め付け難く、今までにない不思議な感情だった。

昨日までは、それを 「 とにかく切ない 」 という感覚でしか表せなかったが、彼女と話をしているうちに、なんとなく実態が掴めてきた。

たぶん私は、崩れていく彼女を眺めることが、「 自分の一番楽しかった時期が壊れていく 」 ような気持ちで、見るに忍びなかったのだろう。


昔、交際していた 「 元彼女 」 が結婚して、不幸な生活を送っているという噂を聴いた男の気分というのは、こんな感覚じゃないかなとも思う。

少しためらったが、昨日お会いしたときには、私は自分が彼女に抱いているそんな感情を、すべて正直に話した。

冷静に考えると、人妻に堂々と 「 愛の告白 」 なんてするのは倫理に悖る話かもしれないが、私は彼女と違って 「 溜めない男 」 である。

もちろん、彼女が立ち直り、そんなことでは動揺せず、彼女の生活も、我々の友情も、以前の状態を取り戻せると確信したうえでのことだ。

彼女は、また涙を流したが、それは前回とは違った 「 明るい涙 」 で、泣き崩れてハグを求める代わりに、笑顔で 「 ありがとう 」 と言ってくれた。






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2005年05月12日(木) 孤独 (? ) に悩む管理職の方々



「 世の中で最も強い人間は、ほとんどいつも孤独でいられる人である 」

                  ヘンリク・イプセン ( ノルウェーの劇作家 )

The strongest man on the earth is the one who stands most alone.

                                HENRIK IBSEN



この名言には、少し 「 異論 」 を唱えたい。

孤独に耐えれる人間など、さほど珍しいことではない。


一部の小心者を除いて、「 孤独 」 に耐えることは難しいことでもない。

現実に、昨今の若者の多くは部屋で 「 引きこもり 」 を続けているが、彼らにとっては、それが楽だから、そうしているのである。

実は、大抵の人間にとって辛く感じるのは、独りぼっちで過ごす 「 孤独 」 ではなく、群集の中における 「 孤立 」 のほうである。

自分が劣っているとか、不幸だとか、他人から嫌われているだとか、敗北感、焦燥感を感じたりするのは、比較する 「 他人 」 の存在があるからだ。

本当は 「 引きこもり 」 などせずに、外へ出て様々な人と接触し、客観的に自分を眺めたほうがよいのだが、それを避ける人も多いのである。


うつ病患者、自律神経失調症患者の大半も、「 孤独 」 には耐えられる性質を持っているのだが、「 孤立 」 には弱い兆候がある。

だから、彼らを元気づけようと思って、お祭りやイベントなど、人込みに連れ出したりするのは逆効果であり、避けたほうが望ましい。

たまに、「 中間管理職は “ 孤独 ” なものである 」 などと嘆いておられる方もいるが、その表現は間違っている。

孤独が悩みだというのは、たとえば、「 終戦を知らずにジャングルで立てこもっていた横井さん、小野田さん 」 みたいな人たちのことを指すのである。

上司から報告を求められ、部下からやいのやいの言われる 「 にぎやか 」 な立場にいる中間管理職が、孤独であるはずがない。


孤独がつらいと嘆く中間管理職の悩みは、実際には 「 孤立 」 である。

上からも下からも疎んじられ、嫌われているから人望がないのだ。

それでも、せめて仕事さえ人並みに出来たなら、立場も維持できるのだが、ミスが多かったり、業績が伸びなかったりする場合は、そうもいかない。

そういう御仁が、私のところへよく相談に来る。

私から 「 “ 孤独 ” と “ 孤立 ” の違い 」 を説明すると、一応は理解をするのだが、「 では、人に嫌われない方法を教えて下さい 」 と彼らは言う。


その場面で、「 では、仕事の業績を挙げる方法を教えてください 」 と言われるほうが、その人には 「 見所 」 がある。

実際には、そんな人は殆どいない。

周りから浮いてしまっているので 「 嫌われない方法を教えて 」 なんて事を言っている時点で、「 あぁ、この人は嫌われるだろうなぁ 」 と想像がつく。

その問題を解決するためには、「 人並みに仕事ができるようになる 」 ことが不可欠であり、そこを避けて通るわけにはいかない。

仕事ができなくても 「 いい人なんだけどね 」 と慕われている人は、たしかに 「 嫌われ 」 てはいないが、仕事面で 「 馬鹿にされ 」 ているのである。


だから、孤立した管理職は、① 仕事が出来るようになる ② 馬鹿にされてもいいから嫌われないようにする ③ 辞める ④ 耐える という選択肢がある。

私は ① ないしは ③ の選択肢が正しいと思うし、相談者のスキルや、性格などのプロフィール、労働環境、経済性などを鑑みて、どちらかを勧める。

誰にも相談せず、② や ④ の道を選んだ人、あるいは 「 ① を目指したつもりだが、実際には出来なかった人 」 の多くが、さらに孤立感を深める。

周囲から馬鹿にされるのは 「 耐えられない性格 」 なのに ② や ④ を選んだ人の場合は特に不幸で、心の病に陥ることが多い。

厳しいと思われるかもしれないが、「 仕事も出来ないのに、自分のプライドを満足させつつ、地位に居座りたい 」 と望むのは、まぁ無理な話である。






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2005年05月11日(水) 忙しい人間は不幸でいる暇がない



「 何かに忙しくしていることだ。

  忙しい人間には不幸でいる暇などまったくない 」

           ロバート・ルイス・スティーブンソン ( イギリスの作家 )

Keep busy at something.
A busy person never has time to be unhappy.

                    ROBERT LOUIS STEVENSON



今夜の気分に ピッタリ の名言を、『 宝島 』 の作者から頂戴した。

まったくもって、その通りだと思う。


仕事で、個人や企業の悩みを聴きながら、ふと、自分自身と比較してみた。

彼らにすれば、カウンセラーという人種は 「 他人の悩みを聴く余裕がある 」 立場だと思って、私的な悩みなど一切無いように考えているようだ。

もちろん、こちらが悩んでいたり、迷っていたりする素振りをみせることは、お互いの信頼関係を崩す危険もあるので避けたほうがいい。

だから、穏やかな笑顔を絶やさぬようにして、彼らを元気付けている。

深夜に苦い酒を飲んでため息をついている姿など、誰も想像していない。


軽率に口にすることはできないけれど、他人から打ち明けられる悩み事の大半は、「 そんな小さなことでクヨクヨすんなよ 」 という類のものである。

カウンセラーといえども、聖人君子ではなく、ただ 「 それなりの人生経験があり、専門的な教育を受けた 」 というだけの 「 普通の人間 」 だ。

彼らと自分を比較して、「 そんな小っちゃい悩みぐらい自分で解決ができるだろう 」 とか、「 俺の方が大変なんだぞ 」 という気持ちにもなる。

常に 「 前向き 」 を啓蒙する私の日記を読んで、なかには 「 暗闇を知らずに日なたばかりを歩いてきた人間の日記 」 だと解釈する人もいるだろう。

過去の人生を振り返って、ずっと日なたを歩いてきたのか、心に闇があるのかは、自分自身でもよくわからないが、そんなに悠長な話とは思えない。


しかしながら現実には、彼らは 「 ( 私からみて ) 小さな悩み事 」 のために眠れない夜を重ね、心を病んだり、身体にも変調をきたす。

私のほうは、「 ( 私が思うに ) もっと悲しく切ない想い 」 を負っていながら、生活のリズムは崩れず、計画通りに仕事を進められる。

その違いは、どこにあるのか。

一つには、「 ストレス耐性 」 の違いというものが挙げられる。

精神も肉体と同じように鍛えることができ、過去の学業や、スポーツやら、仕事の場面で、過酷な鍛錬を果たした人間のストレス耐性は強い。


では、「 軟弱で生半可な人間 」 だから不幸を敏感に捉え、「 強靭な人間 」 だから不幸など気にしないのであろうか。

それも否定はしないが、そんな論理だけではないようにも思う。

むしろ、「 忙ししいかどうか 」 という違いのほうが、大きな差となって現れるのではないだろうか。

もし私が、もっと 「 暇 」 な人間だったら、きっと悲しみや切なさなどの心の闇を感じる時間が長く、それに押し潰されていたかもしれない。

あるいは、酒に溺れたり、何かに依存していたかもしれないだろう。


尋常でない忙しさに追われている人間は、たしかに 「 自殺 」 などしないし、心身の健康を ( 少なくとも忙しい間は ) 壊さないものである。

なかには 「 いや、私は忙しいけど不幸だ 」 とか、忙しく働いていたけれど精神を病んでしまったという人もいるだろう。

それに、オーバーワークが 「 過労死 」 を招くことだってある。

だが、実際には 「 忙しい時期から一息ついたところ 」 や、気を抜いた瞬間に心身を壊したという症例が大半で、多忙のピークに崩壊する例は稀だ。

また、「 その人にとっては、忙しかった 」 というだけで、もっと質的、量的に作業をこなしている人間からみれば 「 暇なほうだ 」 という場合もある。


ずっと先までの予定が詰まっていて、もちろんそれを変更することも可能だが、自分に期待し、待っていてくれる人が何人もいる。

いくら悲しくても、切なくても、それを思うと 「 他人からみれば些細 」 な一つの悩みに固執して、自分のリズムを崩すことはできない。

そんな 「 人並みに悩み続けたり、心行くまで落ち込んでいられない 」 自分というものが、ある意味では 「 不幸 」 なようにも思う。

つらいから、悲しいから 「 死んじゃおう 」 なんて言っていられる暇な人々が、逆に羨ましく思える部分だってあるのだ。

忙しい人間は、「 自分が幸せか、不幸なのか 」 などと哲学的に考えている暇がないので、たとえ不幸でも 「 感じない 」 のである。






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2005年05月10日(火) 切ない胸にサザンが染みる理由



「 道徳的なことは行った後で気持ちがよいことであり、

  不道徳なことは後味の悪いことである 」

               アーネスト・ヘミングウェィ ( アメリカの小説家 )

What is moral is what you feel good after and
what is immoral is what you feel bad after.

                           ERNEST HEMINGWAY



またまた、ヘミングウェィの名言が 「 今夜の気分 」 に合致した。

やはり、つくづく私は、この作家が好きなのだろう。


ここ数年、いや数十年か、涙を流した記憶が、ほとんどない。

目頭が熱くなったり、一滴ぐらいは流れたような気もしないではないけれど、心の中にある嫌な物質を、洗い流すほどの涙を流した覚えがない。

阪神大震災のときや、親が死んだ少し後ぐらいに、ほんの少し泣いたような気もするのだが、はっきりとは思い出せないようだ。

男というのは、それが普通なのだろうか。

あるいは、自分が少し薄情な人間なのだろうか。


「 あのね、部屋に入ったらテレビが点いていて、画面には “ 桜田 淳子 ” が出ていて、TAKA は私に気付かず、一生懸命に観ていたの 」

「 ほお 」

「 でね、私が話し掛けても無視するので、私と “ 桜田 淳子 ” のどっちが好き? って聞いたら、TAKA が “ 淳子 ” って答えたの 」

「 ほお、ほお 」

「 それで、私がテレビを消したら、TAKA が立ち上がって部屋を出て行こうとしたので、“ 怒った? ” って聞いたら、“ 怒った ” って答えたの 」


それが悲しくて、悲しくて、涙が止まらなくなって、「 夢 」 から醒めたら本当に枕が濡れてて、それで 「 目バチコ ( ものもらい ) 」 が出来ていた。

・・・という話を初恋の彼女から聞いたのが、30年近い昔の話である。

私が 「 涙 」 という単語を思い浮かべ、いつも一番に思い出すのがこの話で、切ない乙女心というか、可愛い少女の気持ちが忍ばれる逸話である。

いま振り返ると、何が悲しいかといえば、今ではすっかりオバサンになって、妙な新興宗教にハマった元アイドルを好きだった自分自身が悲しい。

別の問題で初恋の彼女とは悲しい別れをしたけれど、「 夢で泣かせた 」 というのは、私が悪いわけでもないのだが。


死にそうな身内は既に死に絶え、ほぼ仕事は順調で、お金にも困らずに、いたって健康で、そこそこ女性にも縁があり、遊び友達と楽しんでいる。

こんな毎日で、自分のことで 「 泣く 」 理由自体が見当たらない。

もちろん、苦労したり、ちょっと失望したり、クローゼットの角で足の小指を強打したり、何年かに一度は 「 死にたいほど悪酔いしたり 」 もする。

でも、実際に涙を流して泣くようなことにはならない。

それを 「 幸せ 」 と思うか、「 単調 」 と評価するかはともかく、涙とは無縁の生活を送ることに慣れてしまっているのだ。


話は変わるが、私は、あまり 「 サザンオールスターズ 」 が好きではない。

例の 「 けったいな歌い方 」 と、盗作とは言わないが、どこかで聞いたことのある 「 デジャブのような旋律 」 に、どことなく抵抗があるためだろう。

http://www.shonanportsite.com/

↑ HPの掲示板で 「 とんちゃん 」 という方が、このようなサイトを教えてくださり、何の気はなしに覗いてみた。

江ノ島展望灯台に設置された定点カメラからのライブ映像が観られ、BGM にサザンの歌が流れる仕組みになっている。

不覚にも、「 涙 」 が流れてしまった。


たぶん、「 深夜 」 という時間帯と、「 一人の部屋でグラスを傾けている 」 ということ、そしてなにより 「 現在の心境 」 が重なったためだろう。

不道徳なことの 「 後味の悪さ 」 なんて、誰かに教えてもらわなくとも十分に承知しているし、そこに足を踏み入れる可能性など皆無に近い。

それでも、面白おかしく誤魔化しても、切ないものは切ない。

懸命な読者の方々は、「 だいたいのところ 」 をお察しのようだし、その件に付随する物語をご想像なさることもあるだろう。

そのすべてを否定できないが、今回、私がここまで切ない想いをするのには、どなたも知らない別の 「 理由 」 があることも、また事実なのである。






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2005年05月09日(月) マスコミの問題点と、ネットの問題点



「 テレビのおかげで独裁は不可能になったが、民主主義も

  耐えがたいものになった 」

               シモン・ペレス ( イスラエルの政治家、元首相 )

Television has made dictatorship impossible, but democracy unbearable.

                               SHIMON PERES



世の中には様々な情報が溢れ、いろんな考え方をする人がいる。

中には、「 明らかにおかしい 」 考え方をする人物だっている。


冒頭の文では 「 テレビ 」 としているが、現代ではインターネットをはじめとする別のコミュニケーション手段や、さまざまな情報通信がある。

マスコミの問題点は、彼らが 「 何か強大な権力 」 に屈した場合や、悪意をもって自らの 「 権力 」 を行使した場合に、民意を支配してしまうところだ。

たとえば、今回の 「 JR 福知山線の脱線事故 」 に関していうと、加熱したバッシングに感化された一部の心無い人間が、JR 職員に暴行を加えた。

もちろん、大部分の良識ある人間は、そんなことをしないのだが、もう少し冷静な報道姿勢を貫いていれば、このような愚行が防げたかもしれない。

ただ、このケースでも 「 マスコミが悪い 」 のではなく、そんな風潮に感化されて犯罪を行った馬鹿のほうに、責任があることを忘れてはならない。


以前にも述べたが、今回の事件に関するマスコミの報道は 「 ピントがずれている 」 気がしてならず、真の問題解決には逆効果をもたらしている。

危惧した通り、JRやら、JR西日本の社長を 「 可哀相 」 だとみる人間や、彼らが自殺でもしないかと心配する人が現れ始めている。

まぁ、あれだけ叩かれれば、自殺する職員が現れても不思議ではない。

しかしながら、マスコミ側が彼らに 「 死ね 」 と求めたわけでもないし、責任もとらずに 「 死んで楽になろう 」 とする愚か者に、同情の余地などない。

何があろうと、自殺する人間は 「 所詮、その程度の人間 」 なのである。


ただ、前回の日記に書いたような 「 日本という消極的文化の社会 」 においては、たしかに自殺者を多く生み出す土壌があることも否定できない。

何の責任もとらず、善後策を講じなくとも、自殺した瞬間にすべての贖罪が認められ、「 死者にムチ打つのもねェ 」 といった空気が流れてしまう。

それで、「 シャンシャン 」 と手を打って、お終いである。

自殺について、「 人間として最も卑劣で恥ずべき行為 」 という認識が薄く、むしろ 「 美化 」 して捉える馬鹿が多いのも、困った風潮として存在する。

文化的にみて、ここまで条件が揃っていれば、「 どうすればいいか判らない人は、どうぞ死んでください 」 と言っているのと、同じようなものである。


その言葉の通り、自殺する人間というのは 「 どうすればいいか判らない 」 から自殺するのである。

一連の報道でJRの職員が自殺しても、それを 「 マスコミのせい 」 だとは思わないが、マスコミがそれを求めていないのなら、別の報道姿勢がある。

それは、「 あれが悪い、これが悪い 」 ばかりを責めるのではなく、もっと 「 ああしろ、こうしろ 」 という要求を突きつければよいのだ。

マスコミの指摘する通り、JRの社長が、人命の尊さなんて 「 これっぽっち 」 も考えていなかったのなら、自分の命だって大事にしないだろう。

そんな相手に倫理を説いたところで埒はあかず、それよりも、「 どうすればいいのか判らないのなら、教えてやるから従え 」 と言ったほうが早い。


私自身としては、もちろん、JRの職員が自殺することを好まない。

ますます 「 死ねば済む 」 と考える人間が増えてしまう結果になる。

仕事柄、ストレス障害を持つ人々と多く接してきたが、彼らは 「 みせかけの平和博愛主義者 」 に囲まれ、中途半端に 「 ぬるい 」 世間に疲れている。

誰かが自殺すれば、後を追って 「 楽になろう 」 と勘違いする人間が続くことは間違いなく、そんな風潮を広げてはいけないのである。

自分も、世の中も、誰かが死んで 「 良くなる 」 ことなどあり得ない。


マスコミの欠点を書いたが、インターネットにも問題点はある。

たとえば、今まで 「 ごく一握り 」 とされ、見過ごされてきた特殊な思考が、どこからともなく発信され、蔓延してしまう現象がある。

ネットが無い時代には、「 自殺したい 」 なんて馬鹿げた考えを持っているのは自分だけだと思っていた連中が、群れたり、共鳴したりし始める。

JRの問題点を棚上げして、マスコミの横暴ばかりを論点にしたり、世の中を良くしたいということより、自分の攻撃対象を求めることに興味を持つ。

とかく、困ったものである。






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2005年05月08日(日) 日本人特有の消極性



「 何もしないことは、悪をなしていること 」

                                    英語の格言

Doing nothing is doing ill.

                                English proverb



世界中、どこへ行っても 「 ことわざ 」 や 「 格言 」 がある。

似たようなものもあれば、まるで違う文化を表す格言もある。


冒頭の格言に近い日本の格言に、「 小人閑居して不善をなす 」 がある。

正確に言うと 「 日本の格言 」 ではなくて、中国から入ってきた言葉なのだが、「 小人物は暇でいると、とかく良くないことをしでかす 」 という意味だ。

冒頭のは、「 何もしないでブラブラしているのは、もうそれだけで悪をなしている 」 という意味なので、少しニュアンスは異なる。

実は、この違いこそが、日本と欧米文化の違いに通ずるところだ。

今夜はその点について、少し考えてみたいと思う。


欧米人には、「 人間はこの世に生を与えられた以上、世のため人のために積極的に善をなす義務が ( 神に対して ) ある 」 という考え方が主流だ。

日本人の考え方は、より消極的なもので、「 人間は、ただ悪いことをしなければよい 」 というものが主流になっているようだ。

だから、「 他人に迷惑を掛けない 」 という言葉を啓蒙し、積極的に良いことをする必要はなく、ただ無難に人生を送ればよいと思っている人が多い。

大半の会社員は、自分の仕事を大過なく果たすことが最重要とされており、「 勤続○十年 」 とか、「 ○十年無事故運転 」 なんてことで表彰される。

古来より、日本人は 「 人から後ろ指をさされない 」 ことが重要だった。


日本の学校では、教室で先生の言うことを 「 ただ、おとなしく聞いている 」 のが、「 良い学生 」 ということになっている。

アメリカでは、積極的に先生に質問し、意見を言わないかぎり 「 良い学生 」 とは認められず、好ましい評価をされることはない。

質問もしないで、ただじっと聞いている ( doing nothing ) のは、悪い学生 ( doing ill ) なのである。

だから、アメリカ人の教師が日本の学校で講義をすると、学生が何の質問もしないのに驚き、自分の講義に学生が関心を持ってくれないと失望する。

また逆に、日本の教師がアメリカの学校で講義をすると、質問攻めに遭って驚かされ、思ったように講義が進まないことに苛立ちをおぼえる。


JRの脱線事故から二週間が経ち、事故直後に職員がボウリングをしていたとか、ゴルフや旅行に興じていたという報道が、盛んに行われている。

遺族の方々の心情を逆撫でするような話で、まことに遺憾ではあるけれど、重要なことは 「 何かをしていた 」 という問題ではない。

むしろ、「 しなかった 」 ことの責任こそが問われるべきであろう。

ボウリングをしていたり、ゴルフをしていたことが 「 悪 」 だと言うのならば、死者に黙祷を捧げ、涙を流し、ただ謹慎していれば 「 善 」 なのだろうか。

それが現実的に、「 世のため、人のため 」 に何の役に立つと言うのか。


他の電車の運行に必要な最低限の人員を残して、できる限り多くの人員を現場に向かわせ、救出作業を手伝うという 「 選択肢 」 もあったはずだ。

非番の者が声を掛け合い、現場に駆けつけるということもできただろう。

人が多過ぎても邪魔になるだけだという考えもあるが、そうは思えない。

事実、近隣の住民が怪我人の応急処置を施したり、救急車が足りなくて、民間人が乗用車で搬送したりしていたはずだ。

それ以外にも、マスコミへの対処、交通整理や現場での誘導、救助隊員への湯茶サービスなど、間接的にでも役立つ作業はいくらでもあった。


このところ、マスコミのJRに対する 「 批判 」 が問題視されている。

一方的に叩き過ぎだとか、言動が乱暴だとか、たしかにJR側の対応には問題があるけれど、やたらめったら攻撃的になり過ぎているようにも思う。

JRの 「 罪 」 は問われて然りなのだが、報道姿勢を誤ったり、行き過ぎると 「 JRが可哀相 」 などと、頓珍漢な方向に一部の世論が向く恐れもある。

私はむしろ、その点が気がかりで、今の報道に対して懸念している。

どうもマスコミ各社は、少し 「 ピントがずれている 」 ような気がする。


マスコミは、JRの職員に対して、彼らの 「 やらなかったこと 」 を責めるべきで、不謹慎な行為をほじくり出して 「 やったこと 」 を批難すべきでない。

日本のマスコミは、やはり日本人特有の 「 消極的な美徳 」 を重視している風潮があり、「 積極的な正義 」 を重んじない傾向にあるようだ。

イラク戦争にしても、何にしても、「 やった責任 」 を追求するのは得意で、「 やらなかった罪 」 については、ほとんど何も言及しない。

実際には、「 やったこと 」 も、「 やらなかったこと 」 も、「 起きてしまったこと 」 も、「 失われたもの 」 も、元へ戻すことはできない。

だったら、「 いまからでも出来ること 」 を焦点として、JRを叩くなり、国民に呼び掛けるなり、マスコミ本来の役割を果たしてもらいたいと思う。






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2005年05月07日(土) 夢見ないお馬鹿と、夢見るお馬鹿



「 私は大いに運を信じている。

  そして懸命に働けば働くほど、運が増すことを知っている 」

          トーマス・ジェファーソン ( アメリカ合衆国第3代大統領 )

I'm a great believer in luck,
and I find the harder I work the more I have of it.

                           THOMAS JEFFERSON



幸運を信じないで悲観的に働く人は、幸せになれないものである。

また、幸運が天から降ってくるのを待つだけで、働かない人も不幸である。


前者の場合は、「 働いてもどうせ幸福にはなれない 」 と思っているわけで、そんな考えでいたなら、仮に幸福が訪れたとしても、それに気付けない。

後者の場合も、仮に 「 宝くじに当たる 」 とか、「 思いがけない遺産を手にする 」 などの幸運に恵まれたとしても、それには何の達成感もない。

幸せというのは、手にした幸運の大きさだけではなく、たしかな手応えや、達成感というものが伴ってこそ、真価を味わうことができるものだ。

努力しないで結果だけを手に入れても、その喜びは、正しいプロセスを経て手に入れた人の 「 何分の一 」 にしか満たない。

また、結果を夢みないで働き続ける人の場合は、その労働自体に喜びを見出せないのだから、まったく不幸な話である。


あまり良い結果が出せなかったり、良い結果が長続きしなかった人のほうが、「 プロセスより結果が大事 」 などとよく言う。

私は外資系企業に長く勤めていたので、「 外資では努力より結果が評価されるのでしょう 」 と、よく尋ねられる。

たしかに、「 努力よりも結果を評価する 」 というのは事実であり、「 結果につながらない努力など無意味 」 というのも事実である。

しかしそれは、「 努力しないでよい 」 ということと同じではない。

また、「 正しいプロセスは不要 」 という意味でもない。


継続的に、常によい結果を求めるならば、当然、「 正しいプロセスを踏む 」 ことと、「 努力し続けること 」 が要求される。

それを評価の対象とせず、結果だけを評価するのは、「 間違ったやり方 」 や、「 努力を怠り、手抜きをする 」 人間は、結果に現れるからだ。

数学の問題と同じで、「 計算式が間違ってても、偶然に正解が出る 」 ことなぞ、何度も続かないのが世の常である。

正しいプロセスというのは、数学の 「 計算式 」 と同じで、それを間違って覚えている人は、稀の偶然に恵まれないと正解を出せない。

常によい結果を出し続けている人々は、正しい 「 計算式 」 を認識しているわけで、結果に期待するのは当然だし、式の重要性をわきまえている。


私が営業をしていた頃には、上司から 「 営業にホームランはない 」 という言葉をよく言われた。

地道に、確実に、一歩づつ前進する姿勢こそが重要で、大きな取引を成功させるためには、日常業務を正確に、迅速に処理するように指示された。

今年のプロ野球に目をやると、巨人軍が最下位に低迷している。

ホームランの数は両リーグ合わせてナンバーワンなのに、打率、防御率はともにリーグ最下位で、その結果が順位にも現れている。

一発逆転を夢見る不毛さが、ここに象徴されているような気もする。


プロセスより結果が大事なのではなく、常によい結果を求めるのであれば、正しいプロセスを踏むのは 「 当たり前 」 なのである。

正しいプロセスを踏んでいるにもかかわらず、よい結果が出ないなんてことはあり得ないわけで、もしそうだと言う人がいれば、どこかが間違っている。

あるいは、「 量的に努力が足りない 」 のである。

そんなビジネスマンや、あるいは企業が、世間にはものすごく多い。

だからこそ、我々のような 「 コンサルタント業 」 という事業が成り立つのも事実なのだが、もうちょっと 「 お利巧さん 」 になってもらいたいと思う。






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2005年05月06日(金) 子供の日の 「 今夜の気分 」



「 子供は大人の父なり 」

                 ウイリアム・ワーズワース ( イギリスの詩人 )

The child is father of the man.

                         WILLIAM WORDSWORTH



子供が大人の父であるというのは、なんとも逆説めいた表現である。

イギリスではよく知られた言葉で、ことわざのように浸透している。


これは、「 子供の性格をみれば、成人してどんな人物になるかわかる 」 という意味で、ワーズワースの短詩から引用されたものだ。

日本でも、「 三つ子の魂百まで 」 ということわざがあり、「 幼いときの性質は、年を取っても変わらない 」 という意味を表している。

日本の諺は、スマップのメンバーが料理をつくる番組で、誰とは言わないが 「 ものすごく食べ方が下品 」 な人がいるけれど、そういう時に使われる。

つまり、この諺は 「 幼児のときの悪い習慣が一生直らない 」 といった悪い意味で使われることが大半で、冒頭の言葉とは少しニュアンスが違う。

ワーズワースがこの言葉に込めた真意を伝えるためにも、この言葉を引用した短詩 “ My Heart Leaps Up ( わが心は躍る ) ” の全文を紹介する。


My heart leaps up when I behold A rainbow in the sky ;
空の虹を見るとき、わが心は躍る 
So was it when my life began ;
幼いときもそうであった
So is it now I am a man ;
大人になった今もそうである
So be it when I shall grow old, Or let me die!
老いてからもそうありたい さもなくば死んでしまいたい!
The child is father of the Man;
子供は大人の父
And I could wish my days to be
願わくば私の日々が
Bound each to each by natural piety.
自然に対する敬虔の念によって結ばれんことを!


とまぁ、こんな感じである。

ワーズワースの根本思想には、自然こそが神であり、人間はこの世に生を受けた幼児の頃が、もっとも自然に、すなわち神に近いという考えがある。

ところが成長するにつれて、世の荒波にもまれ、自然から離れていく。

彼は、幼児こそ人間の本源の姿であると語っており、この詩の中にも彼流の幼児崇拝的な思想が込められている。

そこまでは思わないが、たしかにこの詩を読むと、子供の頃の純粋な心を、大人になってからも持ち続けたいと願う気持ちには共感できる。


実際は、子供は親や周囲の大人を理解できず、「 こんな大人になるまい 」 と思いながらも、時間が経てばその “ 仲間入り ” をしてしまいがちだ。

自分が、親の有難みが身にしみるぐらいの年齢になる頃に、自分に 「 親を有難いと思わない子供 」 がいたりして、世の中は皮肉なものである。

アメリカにも、次のようなジョークがある。

By the time a man realizes that maybe his father was right,
be usually has a son who thinks he's wrong.

「 父親が正しかったかもしれないなと男が悟る頃になると、
  父親は間違っていると考える息子がいるのが常である 」

大人と子供、父親と息子、それらは 「 決着のつかない鬼ごっこ 」 みたいなもので、永遠に追いつくことも、とどまることもできないものかもしれない。






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2005年05月05日(木) 子供の日に書いておきたいこと



「 どんどん推し進めること。 この世に不屈の精神に代わるものはない。

  天分があってもダメだ。 天分があっても成功しない人はざらにいる。

  天才でもダメだ。 報われない天才という言葉があるぐらいだ。

  教育もダメだ。 世の中は教育のある落伍者でいっぱいだ。

  不屈の精神と決断力がすべてである 」

            カルビン・クーリッジ ( アメリカ合衆国第30代大統領 )

Press on. Nothing in the world can take the place of persistence.
Talent will not; nothing in the world is more common than unsuccessful men with talent.
Genius will not; unrewarded genius is a proverb.
Education will not; the world is full of educated derelicts.
Persistence and determination alone are omnipotent.

                             CALVIN COOLIDGE



最近は、私的で 「 不謹慎な内容 」 の日記が続いてしまった。

そのほうが 「 評判がよい 」 というのにも、困ったものだが。


以前はよく、「 子供と一緒に読んでます 」 といった、親子で安心して見られる日記だという評価を、メールでいただく機会があった。

英語の勉強になるという感想を、くださる学生の方もいらした。

自ら墓穴を掘って 「 教育上、よろしくない 」 内容を書いているものだから、そういう方々の足が遠のいたのも無理はないが、いささか残念でもある。

実際には、私自身が 「 聖職者 」 のような純粋な人間ではなく、自由奔放に生きる 「 遊び人 」 なのだから、子供に読ませる代物など書く柄でもない。

それでもせめて 『 子供の日 』 ぐらいは、「 害よりも益のある 」 内容を書いてみたくて、今夜は 「 酒抜き 」 で日記を書いてみようと思う。


冒頭の名言は少し長いが、未来ある若者に贈りたい言葉の一つである。

要約すると、天分に恵まれていようが、どんな教育を過去に受けていようが、それだけでは何の役にも立たないということだ。

それよりも大事なことは、「 いざという肝心なときに、自分の信念を貫いて、的確に行動することができるか 」 という点に絞られる。

特に、文中の 「 世の中は教育のある落伍者でいっぱいだ 」 という言葉には、誰しも思い当たる人物が何人かいるはずである。

偉そうに講釈を垂れていても、肝心な場面で、信念をもって、適切な行動が取れないような人は、結局は 「 落伍者 」 なのである。


JR西日本の運転士二名が、先般の脱線車両に乗り合わせていながらも、乗客の救出活動に参加せず、急いで出社したことが問題になっている。

大抵の人は、この報道を 「 けしからん 」 と思ったはずである。

ところが、一部の人は日記で 「 自分が運転士の立場になってみろ。 救出などせずに出社したはずだ 」 などと、異論を展開しているらしい。

自分がそう思うのは勝手だが、すべての人間をそのような 「 姑息 」 な人間だと決め付けるのは、ずいぶん乱暴な話のように思う。

少なくとも私や、私の友人たちなら、遅刻扱いにされようが、欠勤にされようが、会社から解雇されようが、救出活動に参加したはずである。


仮に運転士や鉄道関係者でなくとも、偶然その場に居合わせたなら、他にどんな予定が入っていようが、大事な会議に遅れようが、同じことをする。

実際に、現場では搬送用の救急車が足りないと知るや、近所の住民たちが自家用車を怪我人の搬送に使ったり、応急処置を施したりしている。

前述の日記書きの人のように、「 自分に対する評価が何よりも大切 」 だという人間ばかりではなく、他人を気遣う人間も世の中には居るのである。

この人を責めるわけではないが、そうやって周囲の評価ばかりを気にしているから、ちょっとしたことで心を病んだり、落ち込んだりするのだ。

自分が幸せになりたければ、自分の保身だけを考えていてはダメだ。


会社からの評価というけれども、自分が世のため人のために正しい行動をとっているのに、それを悪く捉える会社など、はたして存在するだろうか。

現実には、自分がそう思っているだけで、世間はそれほど腐っていない。

もし、仮にそういう会社があったとしても、そんな会社ならば居続ける理由がないし、まるで働き甲斐など無いのではないか。

お金のためだから仕方がないと言うかもしれないが、それならば 「 そんな会社でも辞められない 」 という、自分の無力さに罪があるはずだ。

逆に、「 その場に居合わせたくせに、何で救助に参加しないんだ 」 と怒るぐらいの経営者が普通で、私もその一人である。


自分の意志を持たず、信念を他人に預けるような生き方をするな。

子供の日に、私が未来ある若者に伝えたい 「 メッセージ 」 である。

そういう人間は、いくら教育を受けていようが、表面上は立派に取り繕っていようが、有り余る収入を得ようが、人生が破綻し不幸になる。

自分の人生なのに、「 他人に合わせよう 」 として生きるのだから、必ずどこかに無理が起こり、それはいつか爆発する。

他人に被害をもたらすか、自分の内面を破壊するか、どちらかしかない。


勇気をもって、不屈の精神を貫き、自分の信念に沿う生き方をする。

もちろん、人間だから失敗をしたり、過ちを犯すこともあるだろうが、不屈の精神と信念があるかぎり、決断すべき場面で大きな失敗はしない。

他の何を犠牲にしてもよいが、自分が 「 正しい 」 と思った行動に対して、他人の視線を気にするような愚かさだけは、持たないことだ。

力量の無い大人は、仕事や家族の問題で人並みの重責を負わされると、不屈の精神やら、信念やらに対して、否定的な発言ばかりをする。

そんな人には、「 だからあなたは不幸なんだよ 」 と教えてやればよい。






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2005年05月04日(水) 紳士の条件



「 勇気とは、窮しても品位を失わないことだ 」

               アーネスト・へミングウェイ ( アメリカの小説家 )

Courage is grace under pressure.

                           ERNEST HEMINGWAY



私好みの作家は、やはり 「 私好みの名言 」 を遺している。

どうせ一度の人生なら、“ こうありたい ” ものだと思う。


冒頭の文の 「 勇気 」 を、「 紳士 」 に変えても教訓は成立するだろう。

私のことを 「 紳士 」 という愛称で呼んでくださる方もいるようだが、実際は窮地に立って右往左往しているので、ちっとも紳士などではない。

もちろん 「 勇者 」 でもなく、ごく普通の中年男である。

ただ、そのように生きたいものだとは思うし、右往左往する自分を抑えようと努力はしているつもりである。

いつかは “ その領域 ” に達したいと思うし、そこまでは達していない自分を情けなく思うより、“ まだ成長する余地がある ” と思うようにしている。 


欧米のアクション映画などを観ていると、絶体絶命のピンチに陥った主人公が、落ち着き払って、軽妙なジョークを呟く場面などをよく目にする。

たとえば、『 007/ゴールドフィンガー ( 1964英 ) 』 の冒頭で、主人公のジェームズ・ボンドが、ねんごろの女性にキスをしようとする場面。

実は、この女性は敵の一味で、ボンドの気をそらしておいて、背後から悪党が斧でボンドに襲いかかろうとしている。

間一髪のところで、キスをしようとした女性の瞳に敵の姿が映り、敵の存在に気付いたボンドは、とっさに反応して返り討ちにする。

敵を仕留めたボンドは一言、「 女性の目は恐ろしいね 」 と呟く。


実に紳士的で、勇気と、ユーモアの才覚がある。

もし私がボンドならば、「 こらお前! もうちょっとで死ぬとこやったやんけ! どアホ! われ、グルか?! しばくぞ! 」 と、ぜいぜい言いながらわめく。

まったく紳士的ではなく、臆病丸出しで、何の洒落っ気もない。

もちろん、英国情報部はそんな人間を雇わないだろうから、そうなったときの心配などする必要もないのだが、同じ男としてなんとも情けない。

私なんぞが馴染みの BAR で、品よく女性を口説けるのは、自分の背後に “ 斧を持った敵 ” がいないとわかっているからで、ボンドとはまるで違う。


そこまで極端でなくとも、平時には出来ている事柄が、緊急時には冷静さを失い、ときに 「 品格 」 まで貶めてしまう事例がある。

なるべく、そんな 「 みっともない 」 姿は晒したくないので、気をつけてはいるつもりだが、これがなかなか難しいものだ。

仮に表面上は上手く取り繕えたとしても、激しく感情が乱されたり、平常心でいられないことが、実際には多いような気がする。

まったく喜怒哀楽が無くて無表情なのもどうかと思うが、ちょっとしたことで慌てたり、一喜一憂してうろたえているようでは、立派な大人といえない。

紳士への道程は遠く、まだまだ修行が足りないようである。






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2005年05月02日(月) 評決のとき



裁判長 「 ただいまより、被告人 Oldsoldier TAKA の “ 不倫疑惑事件 ” の審理を開廷いたします 」

   ( 中略 )



検事 「 ・・・とまぁ、こういうわけで、被告人は紛れも無く有罪であります 」

   ( 中略 )


弁護人 「 しかしながら裁判長、被告人は自らの意思を持って “ ハグ ” したのではなく、やむを得ぬ事情により “ ハグ ” したのであります 」

裁 「 弁護側の述べる [ やむを得ぬ事情 ] とは何ですか? 」

弁 「 それは、被告人の [ カウンセラーとしての職業習慣 ] に起因しており、泣き崩れる相手を放置できないという習性によるものです 」

検 「 異議あり! それでは、被告人はたとえ相手が [ 美しい人妻 ] でなくとも、相手が泣き崩れた場合には “ ハグ ” するのでしょうか 」

被告人 「 うッ!・・・しないかも・・・ 」


検 「 それでは、被告人に伺います。 あなたは “ ハグ ” した時に、相手の髪の匂いを嗅ぎましたか 」

被 「 嗅ぎました 」

検 「 どうしてですか 」

被 「 ・・・どこのメーカーのシャンプーを使ってるのか知りたくて 」

検 「 それは詭弁ですな。 手元の資料によると、あなたは好きになる女性の条件の上位に “ いい匂いのする女性 ” というものを挙げている 」

弁 「 裁判長! これは誘導尋問です 」

裁 「 異議を却下します。 検察側は続けて 」

検 「 ありがとうございます。 さて、あなたは匂うために鼻を近づけ、相手の髪に自らの顔を埋め、モシャモシャと髪を食べましたか? 」

被 「 食べたりしません、ただ・・・ 」

検 「 ただ、何ですか? 」

被 「 指で髪を撫でました 」

弁 「 あっ、馬鹿野郎! 」

検 「 ほう、これは新たな事実が浮き彫りになりましたな 」

弁 「 論告求刑に無いことまで喋りやがって・・・ 」

検 「 たしか被告人は、心理学をたしなんでおられましたな。 男女の間柄で “ 相手の髪に抵抗なく触れる ” というのは、どういう状況ですか? 」

被 「 ・・・性的接触に準ずる行為です 」

ワイワイ、ざわざわ

裁 「 静粛に! いったん休廷します 」

   ( 中略 )


弁 「 この馬鹿は、いや被告人は、事件後、強く反省しており、通常よりも深酒しつつ、二度とこのような過ちを犯さぬよう努力しております 」

裁 「 その “ 通常 ” がどの程度か、他人にはわからんが・・・ 」

検 「 しかも、どうでもいい “ 酒量 ” をネタにして、エンピツの投票ボタンを押させるという小細工を施しております 」

裁 「 うむ、北陸の主婦からその件で抗議が来ておる。 罪状に加えよう 」

検 「 だいたい、[ 忘れるために酒を飲んだが、酔えば心にまた浮かぶ ] という、昭和演歌チックなシュチエーションも考えられるはずだ 」

弁 「 それだけではありません。 彼女のことを忘れるために、別の女性の “ あらぬ姿を妄想する ” という、積極的な努力も続けております 」

被 「 こら弁護士! それを言うな。 イメージダウンになるだろうが 」

弁 「 それに、既婚男性 S氏から [ 感動して心が震えました ] といった、減刑嘆願とも思えるメッセージも頂戴しているようで 」

裁 「 まぁ、あの人もちょっと変わった人だから参考にならんが・・・ 」

   ( 中略 )


ざわざわ、がやがや

裁 「 静粛に、判決を言い渡す。 被告人は前へ 」

被 「 はっ 」

裁 「 肉体的接触が殆ど無かったとはいえど、妖艶な人妻に心を奪われるなどとは、けして人道的に許される振る舞いではない 」

被 「 はっ 」

裁 「 しかも、被告人の胸中にある [ 挿入してないんだから、いいじゃん ] みたいな安易な倫理観と自己弁護には、まことに憤りを感じる 」

被 「 はっ 」

裁 「 よって、本法廷は被告人を 『 有罪 』 と認め、“ 二日間の遠島 ” 及び、“ 二度と、この件を日記に書かないこと ” を申し付ける 」

被 「 はっ 」

裁 「 これからは、主婦を見たら “ こいつ、本当はオカマなんだぜ、きっと ” と思い、独身女性一筋に励むように 」

  - 閉廷 -






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2005年05月01日(日) 「 もやもや 」 と 「 わくわく 」



「 成功する人は、自分の失敗からも利益を引き出して、

  異なるやり方で再び試みるのである 」

                   デイル・カーネギー ( アメリカの著述家 )

The successful man will profit from his mistakes
and try again in a different way.

                              DALE CARNEGIE



目標が、「 失敗しないこと 」 ではなく、「 成功すること 」 にあるとき。

私なら、失敗する懸念を最小限に留め、成功へのプロセスに全力を注ぐ。


先般の列車事故のように 「 失敗が許されない 」 場合ならともかく、自分の資金や労力など、取り返せる犠牲を必要以上に恐れることはない。

失敗をしても 「 あっけらかん 」 と立ち直ったりすると、気持ちの切り替えが早いだとか、優柔不断だとか、ときには無責任なように評価されたりする。

もちろん、失敗による精神的ダメージが、想像以上に大きいこともある。

それでも、目標を 「 もっと先にある別のところ 」 に置いている人間ならば、失敗さえも糧にし、さらに前進することも可能であろう。

人並みに落ち込んだり、センチメンタルな気分に浸ったりすることも事実だが、いつまでもくすぶっているほど暇ではないし、「 ヤワ 」 でもない。


理想の成長とは、小さな失敗を積み重ねながら、そこから学習し、やがては大きな収穫に結び付けられるような生き様を指すものではないだろうか。

もちろん、途中の通過点で、小さな成功というご褒美が与えられたならば、さらにやる気は倍増し、意気込みを持続させやすいだろう。

いくら 「 最終結果が大事 」 だとはいっても、失敗ばかりで、何の手応えもないという状況が続けば、次第にモチベーションは低下してしまう。

仕事も恋愛も、そのあたりはよく似ている。

違うのは、仕事の場合は 「 小さな成功 」 で満足しないでさらに上を目指すことが大事だが、恋愛は 「 それを大事にする 」 選択肢もあることだ。


仕事上での小さな失敗が、大きな事業の成功に結びついた例も多い。

それと同じように、失恋しても 「 新しい恋ができる 」 という風に考えれば、あながち悪いものとは言い切れない。

縁が無かったものと諦め、次に進むことは 「 薄情 」 でもなんでもない。

心の片隅に 「 もやもや 」 が残っていても、次の 「 わくわく 」 を待ち望んで生きているかぎり、そのうち良いことが起きるに違いない。

すべては 「 春の夜の幻の如し 」 であり、自分に与えられた 「 失敗という名のプレゼント 」 であったと思うことが望ましい。






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Oldsoldier TAKA [MAIL]

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