Tonight 今夜の気分
去るものは追わず、来るものは少し選んで …

2005年12月12日(月) 他人の良識に委ねられる限界



「 自由は貴重なものである。

  貴重だからこそ、制限して配らなければならない 」

          ウラジーミル・レーニン ( ロシア共産主義革命の指導者 )

Liberty is precious - so precious that it must be rationed.

                               VLADIMIR LENIN



また一人、異常者の手により、尊い女児の命が犠牲になった。

いつになれば輪廻に終止符が打たれるのか、まるで先が見えない。


事件があったのは京都府宇治市内の学習塾で、被害者は小学校6年生の女児、加害者は同塾に勤務する23歳のアルバイト講師である。

加害者は、自宅から出刃包丁二本とハンマーを持ち込んでおり、殺害現場を監視できるようになっていたモニターの接続は、事前に切られていた。

つまり、用意周到に計画された犯行で、衝動的なものとはいえない。

現時点の情報では 「 動機 」 が解明されていないが、いくら捜査が進んだとしても、万人が共感、納得できるような動機など、見つからないだろう。

教育現場で教え子を死に至らしめる 「 異常性 」 に、正当な理由などない。


放送禁止用語というものがあり、たとえば、「 キ 」 で始まり 「 イ 」 で終わる四文字の言葉は、使用を禁じられている。

精神病などの疾患を持つ人々、あるいは知覚障害者への偏見を助長し、差別につながるからなどという理由から、そうなっているらしい。

はたして、それは正しい判断であろうか。

昔から、「 罪を憎んで人を憎まず 」 という言葉があるように、異常な犯行を指して 「 狂気、狂人 」 と思うわけで、何もしない人を非難する者はいない。

世の中に害を与えている、あるいは与える可能性が高い者を放置することが、弱者保護だとか、弱者を救済する術になろうはずもない。


話は変わるが、国会では、組織犯罪を未然に防止するために 「 共謀罪 」 という新設法案が審議されている。

これは、「 実際の犯行が行われなくても、誰かと事前に犯罪の計画をしただけで罪に問われる 」 という内容で、賛否両論が飛び交っている。

実現すれば、過去に起きたオウム真理教、赤軍派など、組織化、大型化した集団のテロ行為を、事前に鎮圧することに効果を発揮するだろう。

反対意見には、たとえば、冗談で犯行をほのめかしたり、売り言葉に買い言葉で、誰かを 「 殺す 」 などと言うと処罰されかねないという声がある。

日弁連は、弁護上、不利な条件が増えるので、当然、反対している。


でも、よく考えてみると、たとえ冗談でも 「 犯罪を実行する 」 などという発言はしないほうがいいわけで、「 殺す 」 などと威嚇するのもよくない。

気の弱い人などが、威嚇、脅迫されて心身にダメージを受けると、それは現行の法律でも 「 傷害罪 」 が適用される可能性がある。

私も過去に、ネット上で 「 覚えてろよ 」 みたいな脅迫じみたことを書かれたこともあるが、アホを相手にしてもしょうがないので放置した (笑)。

この法律を阻止、反対しようとするのは、�� 弁護士など利害の生じる者、�� 犯罪予備軍、�� 悪口、中傷好きな連中、�� 異常者、などか。

だったら、その連中が不利益を被ることになったとしても、多勢の良識ある国民全体にとって利益が大きいのだから、法制化されたほうが望ましい。


この 「 共謀罪 」 と同様に、「 異常な発言 」 を検閲する機関、あるいは取り締まる法律が必要ではないだろうか。

異常犯罪者が逮捕され捜査が進むと、過去にネット上で異常な発言を繰り返していたり、犯行のシュミレーションが語られていることなどが露呈する。

そのとき、誰かが 「 こいつはヤバイ 」 と気付けば、逮捕するまではいかなくても、本人に警鐘を鳴らしたりすることが可能ではないのか。

マスコミが暴力的な映像や、性的な表現をすることに批判する人も多いが、むしろ問題は、ネットなど 「 双方向通信 」 の世界にある。

テレビと違ってネットでは、異常な発言に同調する者が現れたり、異常者同士が暴論を発展させていったりするので、さらに危険が大きい。


昔は良かったとは言わないが、テレビや映画で暴力的な場面を見せられても、それは 「 実現すべきでないこと 」 という認識を誰もが持っていた。

死にたいと思った人は多くても、実際に計画したバカは少ないのと同じように、異常犯罪を 「 妄想するだけ 」 の人は多く、それは悪いことでもない。

それをネットで配信して、賛同者が集まったりすることで、「 絶対によくないこと 」 と認識していたことが、「 普通 」 に思えてくるケースがある。

やがては、共感者や、あるいは共感した “ そぶり ” をして集まった連中に煽られ、善悪の判断がつかなくなって、実行に至る者も現れる。

もちろん、すべては 「 本人次第 」 だが、これだけ人格障害、精神に異常を持つ者が溢れかえる世の中で、すべての人に良識を求めるのは難しい。


個人の領域を、公的機関が検閲し、場合によっては処罰することについて、言論の自由を奪うとか、思想の弾圧だと反対する人もいるだろう。

しかしながら、この異常犯罪の多さ、社会全体のモラルの失墜、犯罪者検挙率の暴落ぶりを見るかぎり、何かの 「 歯止め 」 は求められるはずだ。

政治になどあまり興味のない私ですら、この現況は受け入れ難いものがあり、「 共謀罪 」 と共に、「 異常発言の検閲 」 は実現してもらいたい。

それにより、たとえばネットを仲介した 「 集団自殺 」 なども防げるし、いくつかの不幸な事件は未然に防止できるはずである。

もはや、「 個人の良識に委ねる時代 」 は過ぎ、過去の幻影となった。






↑ エンピツ投票ボタン です。 一度クリックする毎に筆者が踊ります。

My追加



2005年12月10日(土) 異常者を野放しにした結果



「 すべての人を良く言う人間を信頼してはいけない 」

                    ジョン・C・コリンズ ( イギリスの文学者 )

Never trust a man who speaks well of everyone.

                              JOHN C.COLLINS



国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。

日本国憲法第三章第十一条には、そのように記載されている。


あちこちで子供たちが標的にされ、異常な犯罪の餌食になっている。

犯行は性的に陵辱する目的で計画的に行われ、挙句の果てには、犯行が露呈することを恐れ、殺害に至ってしまう。

あるいは、殺害そのものを快楽として、非道な殺戮を行う者もいる。

犯人とて人間であるかぎり、「 基本的人権 」 を擁護され、それに背くような言動に対しては、各方面の人権擁護団体から抗議が飛来する。

精神鑑定の結果、その精神に異常が見受けられれば、「 懲罰 」 ではなく 「 治療 」 の対象となり、法的に制裁を下すこともままならない。


精神鑑定では 「 責任能力の有無 」 に関する査定や、加害者の知能、精神の疾患などについて逡巡され、その結果を基に司法の裁定が下る。

もし、この犯人に 「 責任能力が無い 」 と判断された場合、では、この犯行が行われた背景にはどのような問題点があり、誰に 「 責任 」 があるのか。

知能、精神に疾患のある犯人を 「 弱者 」 と認め、彼らの罪状は、被害者の家族を中心とした社会全体が、許容していくことが正しいのだろうか。

被害者の人権を非情に蹂躙した者に対し、加害者の人権を認めるのか。

貧富の差や、性別、生い立ちの違いなどから、人は 「 差別 」 を受けるべきではないと思うが、凶悪な犯人をそこまで寛大に庇う必要があるのか。


異常者による犯行を未然に防ぐ術は少なく、しかも効率的でない。

彼らを捕らえることも、制裁を与えることも、あるいは、過去の犯暦を辿って事前に拘留することも、どこかへ隔離することも叶わない。

一様に 「 基本的人権 」 が保障され、日頃から、差別的な扱いをすることも、偏見に満ちた視線を投げかけることも許されない。

つまり、再犯率の高い彼らを監視することもできず、管理の行き届かない 「 野放し 」 に晒しつつ、手口が繰り返されるのを、ただ眺めるしかない。

手を差し伸べ、広い心で免罪符を与えた途端に、彼らが我が子と接触しないよう、良識有る人々は怯えながら暮らしていくのである。


狂犬病に感染した野犬が、市街地を闊歩していたら危険なので、住民の一部は当局に対し、捕獲、隔離、処分などの要請を促すだろう。

海外旅行から重体で帰国し、それが伝染性の高い病気によるものであったなら、当局は身柄の確保、隔離、治療などの処置を施すはずである。

巷を異常者がうろつき、幼児に触手を伸ばしている状態も、これに近い。

それを、まるで 「 ヒットラーのユダヤ人差別 」 と同列に語る人物、あるいは組織、団体がいて、差別だ、偏見だ、粛清だと騒ぎ立てる。

底の浅い博愛主義、理想主義の招いた魔手は、いま、全国の児童に忍び寄り、また新たなる悲劇を産み出そうとしているようだ。






↑ エンピツ投票ボタン です。 一度クリックする毎に筆者が踊ります。

My追加



2005年12月07日(水) 目標を持たないことの恐さ



「 何をやるにも絶対に必要なもの、それは何をやるか選んで、

  それを愛し、夢中で取り組むことです 」

                         ナディア・ブーランジェ ( 作曲家 )

The essential [ conditions ] of everything you do ... must be choice, love, passion.

                             NADIA BOULANGER



最近、イライラやストレスが溜まり、少し怒りっぽくなっている人。

なんとなく、「 情緒不安定 」 になりかけている人は、いないだろうか。


原因は様々だが、多くは 「 明確な目標を持っていない人たち 」 に見られがちな傾向であり、ご自分に当てはまる場合は要注意である。

このところ 「 ニート 」 や、若年齢層の 「 うつ病 」 の人たちと接する機会も多いが、彼らの大部分にも共通して同じ特徴が見受けられる。

なかには、「 いや、“ やるべきこと ” は、わかっているんです 」 と話す人もいるが、それが即ち 「 明確な目標を持っている 」 とは判断し難い。

たとえば、売上の目標は定まっているが、最初から 「 達成は不可能 」 だと思い込んでいる営業マンの場合、明確な目標を持っているとは言えない。

自分の意志により、達成したい、最後までやり遂げたいと願う心意気を持たずして、他人から押し付けられ、与えられるだけでは目標の価値も無い。


数値化されたノルマや目標に対して、あるいはストレスやプレッシャーなどといった部類のものに対して、それを苦痛と感じる人が多い。

私も過去に20年間、営業職を中心に働いてきたので、気持ちはわかる。

しかし、適度な難易度を含んだ目標というものには、個人の技量を成長させたり、業績を向上させるなどのプラス効果がある。

仮に、「 目標はありません、自由にやってください 」 とか、「 難しいと思えば放棄して、簡単なことだけやってください 」 という会社があったとする。

その会社の業績や、従業員の力量が伸びることは期待できず、誰にも利益が還元されることもないのだから、経営者も従業員もハッピーではない。


やり遂げようという情熱を傾けられない人にとって、彼らが 「 目標 」 と称しているものの実態は、押し付けられた 「 課題 」 や 「 重荷 」 でしかない。

真の目標は、苦役だけでなく 「 やり遂げた際の喜び 」 とか、「 達成感 」、「 報奨 」 などの特典があり、それが励みになって仕事もはかどる。

明確な目標を持つ人は本来の仕事に没頭するが、持たない人は 「 できなかった際の言い訳 」 を考えたり、愚痴をこぼすことに時間を取られる。

片方が、できない理由を探している間に、もう片方は、できる方法を考える時間に充てているのだから、その結果は当然、違ったものになっていく。

この 「 目標に対する姿勢の違い 」 というものが、仕事のできる人、できない人、重圧に耐える人、潰れる人の差につながっていくことが多い。


多くの職場で、「 実行力は弱いが他人への批判は得意 」 という人がいる。

これは、自分の使命や目標を直視せず、周囲の環境に不達成原因を求めたり、自分以外のところに責任を転嫁する悪癖が招いた結果である。

ところが本人は、「 自分には、凡人には無い着眼点や観察力が有り、社会の善悪や問題点を批判する技量に長けている 」 などと勘違いしている。

最初のうちこそ、一部のアホな同僚が騙されて賞賛したりするかもしれないが、そのうち 「 仕事のできない奴 」 として、徐々に見放されていく。

その後は、閑職に左遷されたり、降格されたり、あるいはリストラされ、情緒不安定になって精神科、心療内科の世話になるという末路が待っている。


ひねくれた中高年ならまだしも、34歳以下の若年齢層の中に、このようなシニカルで、無気力、無感動な人たちが多く潜んでいる。

断言してもよいが、「 夢中で取り組む目標を持っている人間は幸福である 」 はずで、そういった目標を見つけること、それが一番の打開策である。

ダメな大人が、「 仕事なんてツライだけだ 」 とか、害のある発言を垂れ流しているうちに、何をやったらいいかわからない若者が増えたようだ。

現実は、達成不可能な 「 無茶苦茶な目標設定 」 を押し付ける企業もあるだろうが、もしそれが客観的事実なら、そんな会社は辞めてしまえばいい。

もっといい会社に転職するなり、新たな目標を開拓する方法があるはずで、愚痴や文句を吐きながら居座っている理由にはならない。


クラーク博士が、「 青年よ、大志を抱け = Boys, be ambitious 」 と言い遺した通り、人間には大望や夢、理想、目標というものが必要なのである。

それがなければ、ただの 「 なんとなく生きている浮遊物 」 であって、いくら知識があろうと、偉そうなことを言おうと、微生物となんら変わらない。

自殺者が多いのも、最大の原因は 「 目標を持たない人間が多い 」 ことにあり、やり遂げたい真の目標があるかぎり、誰も死のうなどとは考えない。

仕事にかぎらず、自分の人生のテーマや、目標をきちんと持っている人は、快活に人生を謳歌し、マイナスの発言をすることも少ない。

自分の使命や目標に背を向け、病んだ精神で過ごすよりは、明確な目標を念頭に置き、真っ直ぐに生きていくほうが、きっと人生は輝きを増すだろう。






↑ エンピツ投票ボタン です。 一度クリックする毎に筆者が踊ります。

My追加



2005年12月04日(日) ブログに参加すべきでない人物



「 賢者は、言うべきことがあるから話すが、

  愚か者は、言わねばならないから話す 」

                       プラトン ( 古代ギリシャの哲学者 )

Wise men talk because they have something to say;
fools, because they have to say something.

                                       PLATO



時事問題、社会問題は興味深いが、日記のテーマには煩わしい。

書くとついつい長くなるし、面倒で、忙しい人間には不向きだ。


では、「 暇な人が書けばいい 」 かというと、それも違うだろう。

概ね、暇な人間というのは 「 生きた情報・使える情報 」 を持っていないし、何かの媒体から知識を得たところで、的確に分析や報告が行えない。

それに、「 暇 = 職場などで活躍の場が与えられていない 」 わけだから、その人の能力や資質、あるいは人間性などの評価も疑わしい。

書く作業が本職ならまだしも、趣味の域でしかないブログに、異様なまでの時間や執着を費やすのは、一般人としてバランス感覚にも欠ける。

ここ ( エンピツ日記 ) にもそういう人がいて、やはり偏執的、被害妄想的で、自分勝手な暴論による支離滅裂な長文を連日連夜、発信されている。


当然、「 更新頻度が高い = 暇 」 というわけでもない。

忙しい時間をやりくりして書いている人もいるし、書くのが速い人、あるいは遅筆の人などの違いもあるから、一概に決め付けられない。

ただの暇人と、工夫して時間を創って書く人の違いは、書く内容に現れる。

せっかく工夫して時間を創った人は、本当に書きたいこと、書くべき内容、読む人の多くが共感できる 「 公正で誠実な意見 」 を展開する。

それに対し、実社会で誰の注目も浴びずにブログでしか主張できない暇人は、世の中への愚痴、権威者の悪口、与党批判のみに終始する。


私がカウンセリングをしている男性の一人 ( 20代後半 ) も、以前、ロクに働きもせず、自分のブログを更新する作業に傾注していたという。

マメに更新するのでアクセス数は増え、掲示板への書き込みや、メールのやりとりも頻繁で、あちこちからオフ会に誘われたりもしたらしい。

こんな折、つい人間は 「 自分は人気がある 」 などという錯覚に陥りやすく、態度が傲慢になったり、持論のミスに気付かなかったりすることが多い。

そんな態度が反感を買い、ブログの掲示板で抗議されたり、オフ会に参加して実名を知る仲間からは、某巨大掲示板に個人情報まで晒された。

ストレスが身体面にまで及んで医者を尋ねた結果、「 うつ病 」 と診断され、2年の闘病を経て徐々に立ち直り、現在は少し症状が軽くなっている。


彼は学生時代から、スポーツのできない 「 いじめられっ子 」 で、それが不登校、引きこもりに繋がっていき、ニートになっていった。

実生活で彼の意見に耳を貸す者はなく、自己嫌悪、自己否定の渦中に身を置きながら、彼は静かに世間と距離を隔てていったのである。

ちょうどその頃、ブログ、ネット日記が普及し始め、彼は仮面をつけた匿名の世界で 「 自分の主張を他人に聞かせる 」 喜びを見出したのだ。

他に愉しみのなかった彼には 「 ブログがすべて 」 で、充実していた分だけ、失敗したときのショックも大きかったのだという。

私から過去の経歴を尋ねられた彼は、「 一部の不道徳な読者により、自分は傷つけられ、病気になったのだ 」 と、怒りを込めて語った。


大半の方は、以上の文章を読めばお気づきだと思うが、彼が 「 病気 」 であったのは、「 ネットでトラブルを起こすより、ずっと以前から 」 である。

たまたま病状が急速に悪化した時期が 「 その頃 」 だっただけで、その原因を誰かになすりつけたり、犯人扱いするのは筋が違う話だ。

彼は、自分を攻撃した人間を恨んでいるが、私からみれば、彼を 「 救いようのない立場 」 に追い込んだのは、むしろ好意的な彼の支持者である。

間違った意見に批判もせず、あたかも共感、支持しているかのごとく、彼を 「 人気者 」 だと錯覚させてしまった彼らこそ、問題があるように思う。

そんな顛末さえなければ、もう少し素直に自己認知を受け入れ、専門医の治癒的カウンセリング、私の開発型カウンセリングも楽に進んだろう。


基本的に、「 精神に異常のある人は、ブログに参加すべきでない 」 と思う。

また、極度に忙しすぎるのも大変だが、人間は暇すぎたり、誰からも期待されなかったりする状況で、健全な精神状態を保つことは難しい。

健全でない精神によって生み出された文章を、読まされる方も災難だが、それ以上に、書いている本人にとってのリスクが大きい。

前述の男性も、医者から 「 二度とブログに参加するな 」 と指示され、両親も同意して、自宅をネットに接続できない環境にしたそうだ。

私は彼に、「 ネットなんてなくても、人生は十分にエンジョイできる 」 という事実と、それを実現させる術を、レクチャーし始めたところである。






↑ エンピツ投票ボタン です。 一度クリックする毎に筆者が踊ります。

My追加


 < PAST  INDEX  NEXT >


Oldsoldier TAKA [MAIL]

My追加