なるほど、多くの人が誇りと愛のために死を受け入れる
けれど、それは継続する死後、ではなく肉体の瞬間としての、死、なのだ
哀しい
胸が締め付けられる
哀しいだけだ
哀しすぎることはない
私も墓標の森のように、名もなき一つの死後になるのだろうか
誰にも何も残せないで
私を知るものが数十年で記憶が失われて
誇りだけが、愛だけが、それを慰めるものなのだろうか
今日も、名もなき命が、失われていっている
嫌味を言うて 過ごすなら
どうせ終わる 人生だもん
ちょっとぐらい おかげさま
どうせただの 言葉なんなんだ
恥ずかしがらずに いいまっしょい
我慢せずに いいまっしょい
午前、午後、夜と種類も異なる仕事を3つした。
ホッと一息、電車の中で少し眠る。
周りに人がいて、明るくて、そういう時には聴こえない声
「お前はまた1日死に近づいているのだ」
「お前はまた1日死に近づいているのだ」
どんなに、個体の人生が充足しようとも、
どんなに、個性が天に昇るまで発揮しようとも、
それに替えがたい、「死へ近づいた1日」
・・・
私は不安症なのだろうか。
「そんなのは先なんだからクヨクヨするな」
「そうやって不安がっていると逆に体調を壊すよ」
という人々の声に耳を傾けるべきなのだろうか。
なぜなら、誰しもが死を体験したことがないからだ。
偉そうに、不安がっているのではなく、今日1日を精一杯活きる、それだけを考えるべきだろうか。
私は不安症なのだろうか。
心を研ぎ澄ましてみれば、答えは暗闇から湧き上がってくるようなものだ。
この誰も読まない日記
必ず 止まる