僕は禿げる。(中略)それでも歌を聴いてくれますか?
DiaryINDEX|past|will


2002年10月31日(木) 夢十夜 第一夜

 今日はクリスチャン・ラッセンを殺す夢を見ました。ラッセンは昔からいけ好かない奴だと思っていたので、鯨の事で喧嘩をしたついでに海に投げ込みました。蒼い蒼い、うそ臭いほどに蒼い海に。

 「鯨は食べる物だ」僕がそんなことを言ったのが喧嘩のきっかけでした。僕はラッセンを…彼の絵画の本当の価値の様に…軽々と持ち上げ、葉山の海に投げ込みました。

 彼は実は丘サーファーで、みるみる沈んでいきました。手足を使う暇もなく、最後に「毒が…」と言いました。夢の中では不自然な事が常識としてまかり通る場合がありますね。この場合はこの「毒が…」で全ての言いたい事がわかる僕がそうでした。彼はその蒼さが青酸系の毒であると溺れながら判ったのでした。僕はそう言いたいのだと、なぜかその「毒が…」だけで判ったんです。
 僕は急いでラッセンを引き上げました。例え彼に絵描きとしての価値がなくても、人としての価値がなくても…。引き上げた彼は銀色の髪にワカメや小さいエビがついていて気持ち悪かったです。うつ伏せで何人かのヨットマンに引き上げられた彼を「せーの」で裏返して彼の顔を見た僕は驚きました。彼はラッセンではなかったのです。

 彼はなぜかアメリカのバンド「ボンジョビ」のキーボーディスト、デビッド・ブライアンだったのです。一同は驚き、次の瞬間一人のおじさんが「こういう事なら泳げなくても仕方ねえな」と言い笑いました。デビットブライアンは苦しそうに僕らと一緒に笑いました。



 次の瞬間、僕はその一週間後位あとにいました。鎌倉の海を見下ろす丘にデビットの墓標が立てられました。白い十字架は大きく、事故とはいえデビットを殺めてしまった僕の業までも貼り付けられるくらいでした。少し曇った空のせいか、海も全く青く見えず、泣き崩れるデビットの関係者の女性の喪服の黒い裾が風にバタバタと膨らんでいました。僕はみんなが去っていっても、ずっとその墓標を見ていました。
 僕はみんなが帰ったのを見計らって墓標に近づきました。そして、うそ臭いほどに蒼いペンキで「ラッセン」と書くと少し笑いました


2002年10月21日(月) 無様でささやかな挑戦 ギターの位置と「サンプラー」氏、登場

 今回の公演で僕はギターの位置を少し下にしました。ギターの位置が高過ぎるとさだまさしか、昔のフュージョンの人みたいでかっこ悪いと言われて僕もそう思ったからです。しかし、練習を重ねても僕の左手はその高さでギターを弾くことに慣れてくれませんでした。(言い訳ではないのだあ)

 僕の左手は小さい頃に折れてきちんと曲がりません。ローラースケートで勢いをつけて転び、手をついたので複雑に折れて短くなった!一ヶ月間滑車にオモリをつけて寝たきりで引っ張って直しました。こう書くと家で漬物の石でもぶら下げて井戸のつるべか何かで引っ張ったように思われてしまう!言葉が足りませんでした。ちゃんと入院しました。かなり酷く折れていたようで今でも冬場少し痛みます。
 左手は曲げても肩に触れないんです。その代わり(?)手を伸ばすと、反対側には普通の人が曲がらない位置まで曲がります。よく「私もそう。こうやったら着くでしょ」と両手の手の甲側を合わせてくっつけて見せてくれる人がいます。熊本では「サル腕」と言ってたな。東京ではなんというんだろう。で、その両腕を肘辺りまでくっつけるという技を一応できるので「そうなんですよー」とその人と一緒に着けて見せたりしてしまいます。で、心では「ちょっと事情が違うのにな」と思ってる。大人になるってこういう事?

 ずっとギターの位置を人一倍高くしておかないと歌いながらは弾けませんでした。好きなギタリストはみんな低い位置でギターを構えてる。高校ぐらいから何度もギターの位置を下げて練習したんだけどやはり駄目。身体の構造上無理なのかなと思ったけど最近また下げたくてしょうがなくなり、今回随分かけて「リハビリ」を始めたんです。作戦本部で練習する時も、ビールを飲むときもずっと下げていた。しかしまだ人様にお見せする様なレベルには達してはいなかったようです。御免なさい。次こそは、膝より下に構えて寄席用のマイクで歌うくらいに…。


 もうひとつ、今回の公演から覚悟して始めたことがあります。それはもう一人のメンバー、「サンプラー」氏の参加。前にも一二度参加していただいたんですが、今回からは正式にメンバーになってもらいました。今回は「もう電話もしない」と「眠れない夜が明けても…」の二曲で登場してもらいましたが、これが真っ二つの評価を呼ぶ事に…。
 山作戰時代からアコースティックでの公演が多かったので、僕のイメージは「アコギ一本で潔く」というものになっているようです。公演から山作戰を聴き始めたお客さんが作品集など録音された物を聴いて、納得してくれない場合も多かった。でも逆に作品集から入った人がライブに来て「いつになったらメンバーが出てくるのかなと思ってたらライブが終わった」という感想をくれる場合が多いのも事実。

 「��(高)山の曲はバンドの方がいい」と言われる事も多いんです。僕もいつかバンドになった時の事は考えて作ってるつもり。アコースティックのみでずっと演奏する予定ではないので、そういったご意見は思惑通りで嬉しいです。でも一緒に演奏する人は大変だろうな。コードがいっぱい変わるし、変な所も多い。
「弾き語りの作品集を作って下さい」と言われることがあるけど、無理でした。一度録音してみたんですが、時間のかかり方が半端じゃない。気に入らない事山の如し。今でさえ遅れてるのにアコースティックなんて…。MTVアンプラグドに出た後に考えます。なんちゃって。

 で、折衷案というか、これ以上アコースティックのみの印象で聴いてもらうのも危険だと思い、長年連れ添ってるヤマハの SU-700氏に登場願ったわけです。彼は前回の「山羊と私」の作品集でもかなり活躍しました。今回はほんとは三曲、「冒険」でも出てくるはずだったんですが、僕の計算違いで本番中リズムが聴き取りにくかった。だから曲の構成ごとにリズムが変化するようになっていた「冒険」では舞台上での判断で遠慮いただいたんです。


 アコースティック支持派の方の中には不快感を露にされた方もいました。「できればやめて欲しい」という方から「このままならもう来ない」という方も。でも、結果からいいますと やめません。御免なさい。僕は打ち込みが好きだし、バンドになってからもサンプラーその他は使っていくつもりでいる。だから、それを禁じるのは目的への道を閉ざす意味もあるんです。もちろんできるだけ曲が活きるようにしていくつもりですし、無理にうるさくする気もない。歌が聴こえない編成でバンドをやる気もありません。だから、これからの僕の公演は今までのスタイルと録音とのギャップを埋めていく活動になっていくと思います。ロックへの愛とかもあいまって。

 11月10日ヨシハシではさらに自然に融合するためにサンプラー氏と綿密な予行演習を重ねる次第でございます。ご期待下さい。ね。ね。


2002年10月09日(水) 死ぬかと思えばいいだろう。「アロンアルファで二重にしようとしてマブタくっついて膨らむ」

 「独り暮らしの男はみんな馬鹿な事をするもんだ」という話を昔飲んでいるときにした気がする。貧乏で流し台に登って身体を洗い、蛇口で肩に一生もんの傷を負い、「銭湯の何十倍という病院代は払えない」と言って病院へ行かず、化膿して熱を出しさらに高い金額を払ったという奴がいた。しかしこれは生活に迫られてやった事で、正しい馬鹿な事ではない(その後病院へ行かない判断は十分馬鹿だが…)。正しい馬鹿な事とは、デートの前に(身だしなみのつもりか?)陰毛に火をつけ、人毛がどの位燃えるかを知らなかったために股を火傷した奴のような、相対性を失った探究心の暴走を止められなかったやつの事を言うのだろう。ちなみにこいつはその彼女とその日いい塩梅になり、強行突破。痛みに耐えて男になったらしい。僕はこいつがその話しをしてくれた時、「解るよ。うんうん」とうなずき、お礼に取って置きの話「アロンアルファで二重にしようとしてマブタくっついて涙でマブタ膨らむ」を披露。固い握手を交わした。馬鹿同士。

 僕の「アロンアルファで二重にしようとしてマブタくっついて涙でマブタ膨らむ」事件の顛末はこうだ。
 ある日「アロンアルファは医学用に開発されたもので、カッターなんかで切った傷はアロンアルファでくっつけておくと治る」という話を聞いた僕は、その前に聞いていた「マブタはアイプチ(二重にして貼り付け二重に見せるための糊)で二重にしておくと、癖がついて二重になる」という話と混じって「アロンアルファでくっつければ癖がついて二重」という「名案」が浮かんでしまった。それをその頃の六畳一間、トイレ共同、風呂なしの松原荘二階真中の薄暗い部屋で実行に移した。

 アロンアルファを閉じた両方のマブタの上に横一文字に塗りつけ、右目マブタを釘で押した。上手くいった!しかし、次の瞬間!
 アロンアルファは瞬間接着剤である。大急ぎで何かを蒸発させて乾いていく。何かが蒸発する時、必ずそれは熱を奪う。僕のマブタには薬品の染みる痛みと強烈な冷たさが襲ってきた。僕は右目を閉じてしまった。痛みを感じた時のマブタというのは僕らが考えている以上に閉じた時の接点が深い。僕の右目はアロンアルファが塗られた位置までしっかり下マブタに張り付いた!

 窮地に追い込まれた時の鉄則、「迷うな」僕はこれを守れなかった。左眼には、はやまって塗ったアロンアルファがまだ乾かず、塗った直後よりもさらに接着力を増して残っている。「拭くか、二重にしてみるか…」迷った時にはマブタは乾燥とアロンアルファの気化した成分に負けて閉じていった…。
 暗闇の中で僕はうなった。恐る恐る目を開ける。…開かない!下マブタが伸びて恐らくとてつもなく不気味な顔になっている事は容易に想像できる。「これは独りで処理せねば…」僕は自分がどんな顔になっているかを想像して思った。「マブタって意外に伸びる物だなあ」とも思った。
 独りで処理すると決めた以上、まず僕は「目を閉じた状態でお湯を沸かす」という危険に飛び込まねばならなかった。貧乏な時代である。湯沸し器などついてはいない。ガスさえ通っていないから普段からカセットコンロで煮炊きをしている。手探りでガスコンロを探し、部屋の真ん中の台の上に置くとヤカンに水を入れ、カセットコンロの上に置こうとして異変に気づいた。やけにバランスが悪いのである。ガスコンロを触ってみて納得した。「五徳がない!」コンロの鍋やヤカンを置く支えの部分、「五徳」がなかった。流しの近くにあると考えた僕は立ち上がり、一歩踏み出して手を伸ばした。直後、足の裏に激痛が…。

 僕は五徳を踏み出した足で強く踏んでいた。すぐに座ることもできず、中腰でうめく。痛みよりも寂しさで泣いた。正しくは泣く事も出来ず歯を食いしばった。バランスの悪い状態で体重を送り出したもう片方の足が憎かった。
 僕はマブタが膨らんでいるのを感じていた。マブタの中にあふれる涙が、いき場を失って圧力を上げていたのだ。眼球がズキズキ痛んだが、それよりもこの状況を笑ってくれる人のないことが痛く感じていたと思う。
 僕は踏んだ足を上げ五徳をその足でかき寄せると、カセットコンロに取り付けて火を付けるつまみをひねった。何度かひねり、音で火が付くのを確認すると、こぼさないようにヤカンを乗せた。
 ヤカンの中の水がある程度暖まった頃、僕はそのヤカンを持って流しへ行き手探りでその日洗った食器の中からボウルを取り出してその中に暖めたお湯を入れた。ボウルを採る時に皿が上に載っていたらしく、それが流しに落ちて割れた音がしたが、僕は手を止めなかった。
 お湯をかけながらマブタを擦ると、固まったアロンアルファがザラっとした。そしてすぐにさっきまでの強力接着が嘘に思えるくらい簡単に右目のマブタの一部が開放された。僕はその時ある景色を思い出していた。
 幼い頃によく砂場で山を作り、二人でそれぞれに穴を掘っていった。大きな山を作って何人かで掘った事もある。そして砂山の「地下」でそれぞれの穴をつなげるのだ。山が大きいと、小柄な子は腕をまくりながら肩まで穴に入って掘っていた事もあった。そして何の前触れもなく穴がつながった瞬間、僕らはまだ狭い穴の中指先で相手の存在を確かめるようにお互いの手を指を不器用につまみあった…。その感覚を懐かしく思い出していたのだ。僕はその時、「涙」と共に穴を掘り、アロンアルファを剥がしながら進んだのである。

 少しずつ時間をかけて僕はマブタを剥がしていった。ザラザラとしたアロンアルファの塊が少しずつ剥がれ落ちていき、まぶしがりながら視力を取り戻す頃には両目のマブタはかなり赤くひりひりと擦りむいたようになっていた。
鏡を見ると、上のまつ毛が何本も下のマブタについていた。僕は人一倍まつ毛が長い。張り付いたまつ毛はマスカラをつけ損なったオカマの様になっていた。僕は不恰好な自分を、もう夕方の気配のする部屋で笑った。少し低すぎる位置の蛍光灯の紐を引き、まぶしさにとどめを刺して馬鹿な事をした自分を笑い、そこから死にモノ狂いで戻ってきた自分を笑った。

 安心したのだろう。僕はやっと自分が空腹である事に気づいた。僕はさっき落ちて割れた皿には目もくれずどんぶりをとると、それに冷蔵庫から生卵を取って割りいれた。その上に醤油を勢い良く注ぎ、一人用のジャーから白飯をよそった。
「いただきます」
 あぐらをかいてそれを掻き込みながらさっき五徳を踏んだ足の裏が見えた。土踏まずのあたりに血がにじんでいた。僕はそれに目もくれず残りの卵御飯を掻き込んだ。


2002年10月02日(水) 歌詞のこと

 歌を歌う人の日記である必要がないほどに内容がとっちらかっている気がしたので、今回は前々から書こうと思っていてそれでいて機会を失って、このまま死んだらそれを伝えるためによみがえってきて、すれ違う地下鉄の車両を飛び移ったりロクロを回したりウーピーゴールドバーグが登場したりしてしまうので、浮かばれるために書きます。

 僕の曲を前から愛でてくれている人たちの中では常識となっているようですが、僕の曲には横文字がほとんど出てきません。これは昔感じた疑問が今も残っているからです。それは簡単に言うと「語呂合わせだけの横文字はかっこいいのか」というものでした。

 ハウンドドッグが「OnlyLove胸に」と歌うのが、アルフィーが「メリーアン Won't You Stay For Me」と歌うのが普通だと思っていたある日、急激に滑稽に思えたのは何故なんだろう。今でもその衝撃は余韻を残しています。「黄色い猿」が「黄色い猿」でいようとしているのを見るような、ちょうどB’zを見る様な感覚。

 僕らは尾崎世代と言われます。尾崎豊という人に僕が感情移入しにくかった理由もこの問題なのかもしれません。「シェリー」はだれなのか、そんなにもいとおしい人に「Oh My Little Girl」となぜ言うのか。米軍キャンプの影響なのか?
なんの疑問もなくサビに入ったら英語が垂れ流されるのが当然になっていて、しかもスタジオには作詞のための和英辞典が置かれていたりするくらいみんな英語が話せない。情感溢れんばかりに歌うサビになぜ話せない言葉を?

 「おまえの好きなラジオニクスだってそうじゃないか」というお叱りを受けるかもしれません。実はラジオニクスの太田さんともこの話題は話した事があるんです。太田さんの曲作りはそこも見越しています。しかも彼らの言葉は「絵の具」だ。

 「日本画の世界は偉い人に師事してお墨付きをもらわないと日本画家を名乗ってはいけない」という話しを聞いたことがあります。だから、我流で日本画の画材を使ってどんなに良い絵を描いてもそれは日本画じゃない(この風潮はかなり滑稽ですが…)。だから「お墨付き」を「お客さんの詞への思い入れ」や「歌詞の伝えたい度」だとすれば、例えば太田さんが日本画風な物を描いていたとして、急に気が変わって油絵の具やアクリルを塗り始めても、元々「日本画」という大義を背負ってはいないからいいんです。僕や尾崎(比べると叱られるかも知れないし同じにされたくないけど)は「言いたい事あるぜ組」にくくられる以上、「その辺はきちんと背負って油絵の具混ぜようぜ」って言いたいんですね。

 僕の曲に出てくる唯一の英語として話題にのぼるのが、「例えばさ」の「ワンノブゼム」という部分です。みんな英語が出てくると思ってなかったから何度聴いても聴き取れなかったらしい!
 この「ワンノブゼム」という言葉は小学校か中学校の先生が授業中いつも使っていて意味はわかったけどどう書くのか、何語なのかも知りませんでした。だって彼女は「ワンノブゼム」ってカタカナで言うんだもん。しかも熊本弁に混じって…。
「例えばさ」を作った当時はもう意味も判っていたけど、その頃は釈然としないながらも歌詞に英語を使う事もあったので、一応OKだったんです。今は昔歌っていた曲を歌う時は英語の部分は日本語に換えてるか内容を書き換えるかしているんですが、これは外国語な感じがしなくてそのまま残しました。熊本弁扱い(笑)!

 山作戰のライブに来る方には意外がられますが、僕は邦楽より断然多く洋楽をよく聴きます。その影響もたくさん受けているはずで、実際自分が作った曲の部分で「英語のほうが歌詞の乗りがいいな」と思う事もあります。みんなが聴いてる曲にもあるんです。しかし、そこで英語を乗せてみても、釈然としない事が多い。だってそこだけ英語圏の人に判らせる意味が見出せないんだもん。しかも僕の好きなアーティストたちは自分の話さない言葉をいきなりカタコトで登場させたり(ほとんど※)しないんだもん。好きだから直輸入はなし。直輸入にはセンスが介入する隙間はないし、彼らにも敬意を持ってなんかもらえない黄色い「人まねこざる」だ。
 好きなアーティストに会った時恥ずかしくないようにと杞憂とわかりながら精進する��(高)山なのでした。(今日のわんこ風)

 でも英語を絶対使わない訳じゃないぜ。

注釈
(ほとんど※) クーラシェイカーはしてました。彼らはインドの言葉は多分わからないはず。


山作戰 ��(高)山 |HomePage

My追加