Leonna's Anahori Journal
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2002年03月11日(月) キヌガサ・舎弟・おでこ

鼻炎用カプセルを飲んで横浜へ。
父の家でお墓のこと、法要の事等相談。

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セリエA第26節、ローマダービーは5−1でローマが圧勝。凄いぞ、モンテッラ。なんと一人で4得点。それにひきかえ、どうしちゃったんだ!ラツィオ。やっぱり来期は移籍ですかね、ネスタにクレスポ。クレスポはマンUへ行くという噂もあるけれど…個人的にはあってる様に思いますけどね、クレスポにプレミアリーグ。クレスポが出てベッカムが入るなんてどうでしょう。クレスポ、ベッカム両者にとってもカンフル剤になると思うのですが。

ところで長い歴史を誇るローマダービーでも5点も入る(とられる)のは新記録。モンテッラのダービーで4得点というのも初めてのことだそうです。

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さて、わが家ではローマの若大将トッティのことをトッちゃん、若頭モンテッラのことをモンちゃんと親しみを込めて呼んでおります。他にもいくつかわが家ならではのニックネームがあるので、ご紹介いたしましょう。

 ◎エメルソン→ 鉄人、キヌガサ(まるで衣笠祥雄選手がサッカーしてるみたいです)
 
 ◎リマ→ 鑑真和尚(教科書でみた顔にそっくりです)

 ◎カッサーノ→ 舎弟(誰の?もちろんトッティの、ですよ!)

 ◎フゼール、パヌッチ、モンテッラ→ 順に長男、次男、三男(この三人はどことなく似ています)

ローマの選手ばかりではなく、ラツィオからも1名いきましょうか。

 ◎シモーネ・インザギ→ おでこ(兄チャンのピッポにくらべると、少し)

なお、わが家では“ソックリさん、逆も真なりの法則”にのっとり、衣笠祥雄元選手がTV出演しているのを発見した場合は「おっ!エメルソン出てるじゃん!」と叫ぶことになっております。当然のことです。



2002年03月09日(土) わが家のデルピエロ

J1ファーストステージ第二節、鹿島vs清水を観る。

前半を見た限りでは「鹿島メチャ強い!」という感じだったけれど、しかし、これだけ攻めながら前半無得点というのはチョット嫌な予感がしてはいたのだ。

そうしたら、やっぱり。90分戦って両者無得点のドロー。試合は延長戦にもつれ込んだ。結局延長戦後半、清水、バロンのヘディングが決まって死闘に幕。まさにサドンデス!勝った清水は天国、鹿島は地獄だ。

負けた鹿島の選手は、まるでチャンピオンシップを逃したかのごとくに悔し泣き。これで鹿島は開幕以来よもやの二連敗。観ている側にとってはなかなか面白い試合でしたけれどね。解説の早野さん、低音の魅力、あいかわらずだったし。

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このあいだ某家具店で見つけたイタリア製のデミタスカップを買ってきた。
お皿は白無地、カップにのみ黒の縦縞。
しかし、このセットも小さい!そして重い!。でも持ってみた感じはバランス良し。
さっそくその外観(黒の縦じま)からデルピエロと命名。






これがデルピエロ。ね、ユヴェントスのユニフォームを着てますでしょ?


2002年03月01日(金) コステロ&バカラック

自分の部屋で音楽を聴いている。エルビス・コステロとバート・バカラックが一緒に作ったPAINTED FROM MEMORYというアルバム。

オースティン・パワーズ:デラックスという映画で「もう恋なんかしない」を歌っていたこの二人。一緒に作ったアルバムも出ていると知り、去年の秋に購入したが、今までほとんど聴かずに放ってあった。

PAINTED FROM MEMORYには普通に十二曲入り一枚だけのものと、ライヴバージョン5曲入りのディスクが付いた二枚組の二種類がある。私が買ったのは二枚組の方。このライヴ盤に納められた5曲がとても良い。

ちなみに収録曲のタイトルは以下の通り。

1. THIS HOUSE IS EMPTY NOW
2. I STILL HAVE THAT OTHER GIRL
3. IN THE DARKEST PLACE
4. PAINTED FROM MEMORY
5. WHAT'S HER NAME TODAY?

すべてバラッド。基本的には愛する人を失った悲しみを歌ったものばかりだ。

これを繰り返し聴いているわけだが、別に悲しさが増幅されて涙が出るわけでもない。ただとても心が落ち着いて、ほっとする。このCDを聴いていると、静かな気持ちで亡くした人のことを思い出すことが出来る。

コステロとバカラックに感謝しながら、午後の数時間、じっと音楽に耳を傾けていた。


2002年02月27日(水) ファイトクラブ

午後。昨日借りてきたビデオのうち『ファイトクラブ』を観る。

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前半、男どもが殴り合いをしに集まり始めるあたりまでは「んまあ、なんてロマンチックな映画!」などと思いつつ、けっこうノリノリで観ていたのだったが。ブラピが男どもを組織して軍隊みたいなのを作り始めたあたりから付いていけなくなってしまった。いやさ、あまりにも馬鹿馬鹿しくて。

まったく、ちょっとばっかし力をつけ始めるとどうしてすぐに世界にちょっかい出したがるんだろうね、男ってのは。どうして静かに孤立して、個人的楽しみのためだけに生きられないのだろうか…。

観終わったときの感想は「とにかく、へ〜んな映画!」、それから「エドワード・ノートンご苦労さん」というものだった。

そして当然の事ながらこの映画のブラッド・ピット、大してして良くなかったような気がする。やはりブラッド・ピットは「ハレ」より「ケ」のよく似合う男なのだ。もしくは影ひなたのコントラストのはっきりした役。

『ファイトクラブ』後半のブラピには陰影というものがまるでなくなってしまった。もちろんこれは彼個人の責任ではないけれども。残念!


2002年02月24日(日) 聞けなかったこと

書店、パソコンショップ等に用事あり、T田沼へ出かける。

T田沼周辺はいつもと変わらぬ休日の人出。その変わらぬ町の様子が、何となく悲しく、腹立たしい。いっそのこと駅前の商業地区一帯が一夜にしてどこかへ消えてしまった、なんて事になればいまの私の精神状態とうまく釣り合いがとれるのだろうけれど、そんなことがおこるはずもない。「景色が目にしみるぜ」てな気分で鼻をすすり上げながら涙をこらえて歩く。はたから見たら、ただのヘンなオバサン。

ところが。そのあと、チョットお腹が空いたね、ということになり蕎麦屋へ入って玉子丼を食べた。そして勘定をすませておもてへを出てみると…なんと、あのカナシミの感情が半減しているではないか。
すると、なにか。あの心を浸食してくるような悲しみの半分は、単なる空腹感だったということになるのか…。また別の意味で暗くなる。

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食べる、といえば。生前、母に何度も聞こうと思いながら、とうとう聞けずじまいになってしまったことがある。

一昨年の暮れ、このHP上で『二十世紀最後の晩餐』というアンケート企画を実施した。そのとき、父と妹には「今年の大晦日、何でも願いが叶うとしたら、どこで誰と何を食べたいですか?」と質問してその答えをアップしたが、その同じ質問を母にはしなかったのだ。

当時母は入退院を繰り返す状態ではあったけれど、細かいことはともかく、「もし何でも食べられるとしたら何が食べたい?」もしくは「お母さん一番好きな食べ物は何?」という質問くらいには答えられる体調だったと思う。その後も、企画云々は抜きでいつか聞いてみたいと思いながら忙しさに紛れ、そうこうしているうちに母は、とてもこのような質問に答えられるような状態ではなくなってしまった。

病気を理由に、私たち姉妹が子供の頃から、半ば“おみそ”のように扱われることの多かった母。行楽には父が娘二人をつれて出かけ、母は留守番というのがわが家の常だった。本人は平気な顔をしていたけれど、我慢することばかりでどんなに寂しかっただろう。そう、やっと気が付き始めたのはここ数年のことだ。せめてこれからはお母さんを中心に。絶対仲間はずれにはしない、ときめたはずだったのに。ついに母には「何が一番好き?」と訊けないままになってしまった。

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とはいうものの、べつに、深く懺悔してうなだれているという訳でもない。そんな大げさな事でもないのだ。アタシ、またやっちゃったワ!ママ、ごめんなさいという感じ。それから、もし訊いてたらお母さん何て答えたかなあ、などと時々ぼんやり考えては楽しんでいる。そりゃチョットは悲しくなることもあるけれど、「鱒のすしかな、鰤のカマかもしれないなぁ」なんて考えるのは、ほんのりと楽しい。

そういえば、これも終わってしまった企画だけれど『デジカメ練習帳』。あのページにアップした写真の多くが母を病院へ訪ねる行き帰りに撮ったものだった。花曇りの日、満開の桜の下で遊ぶこどもたち。住宅街で出逢った、前あしの不自由な猫。税理士事務所のドアのおかしな掛札。日が沈むまえの最後の光芒の中で静まり返る公園、等々…
写真に撮らなかったものも含めて、母がこの二年ほどの間に私に観させてくれた風景が、あとからあとから脳裏に浮かび上がってくる。きれいだった。楽しかった。アリガトウ、お母さん。

やっぱり今日は、景色が目に沁みるわ。



2002年02月23日(土) メッセージ

あああ、さすがに疲れた。

この疲れ、精神的な疲れなのか、それとも肉体的な疲れなのかが判然としない。いままで経験したことのないタイプの疲労。夜、頭痛がひどくて一度布団に入ったが眠れず、起き出して薬を飲んだ。

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思うに、娘にとって母親の臨終の顔を見るというのは、自分の死に顔をみることと同義なのではないだろうか。なにしろ、私が永眠した母の顔を見て思ったのは、「あー、これが私のX年後の姿か」ということだった。

「だからね、つまらないことに関わり合うのはやめて、自分と自分の本当に大切なひとのために時間をつかいなさい。」…母の顔はそう言っているように見えた。これが、母が私に遺してくれた、最後にして最大のメッセージ。



2002年02月22日(金) 母が消えた

きのう、通夜。
昨夜は私とキンちゃん、妹夫婦と娘の梨紗の五人で泊まり込み、夜通し線香を絶やさぬよう交替で母についていた。

棺の顔のところの窓からのぞくと、母は相変わらず眠っているように見える。窓には透明なプラスチックのようなものがはまっていて、顔を近づけたひとの影(輪郭や髪)がかすかに映る。私が顔を近づけるたびに母の瞼のうえで私の髪の影がうごくので、そのたびに母が目を覚ましたのかと思いドキリとした。

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きょう。昼から、告別式。お坊さんの読経の最中、一回だけ「がぁぁぁぁーーーつ!」と、もの凄く大きな声をだされた箇所があった。列席した誰もが一瞬ビクッとするような大きな声。私は「ああ、この声で起きてこないようでは、お母さん、本当に旅立ったのだな」と妙な納得の仕方をした。あとから、あの声は、引導を渡すときのものだと教えられた。

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火葬が済んで骨をひろうとき、妹が「陽子お義母さんのときと全然違う」と言って泣き出した。長く患い、ほとんど寝たきりで大量の薬を摂取し続けた母のお骨は、数年前に亡くなった義母のお弔いのときを思い出すと、泣きたくなるくらい脆く、はかなげに見えたのだろう。

私には“普通のお骨”がどんなものかがわからない。ただ、目の前のお骨が“母”だとはとても思えなかった。母はお骨になったのではなくて、起きあがって、どこかへ歩き去ってしまったのではないか?。何も残さずに黙っていなくなるわけにもいかないから、「じゃ、私、行きますから」という代わりに、こんなものを置いて行ったのだ。…そんなふうに考えると、すんなり納得することができた。

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唐突に、尾辻克彦(赤瀬川原平)の芥川賞受賞作、『父が消えた』のタイトルが思い浮かぶ。読んだことはないけれど、その小説はもしかしたら父親を亡くした経験を書いたものではないのか…

いずれにしても、私と妹の母は消えてしまった。もう、二度と会えない。





2002年02月20日(水) 白い船

朝六時過ぎに洋光台の父のところを出て帰宅した。
混みあう電車の窓の向こうに、まっ赤な朝焼けがきれいだった。

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着替えて眠るつもりが、国会中継をみてしまう。田中真紀子、鈴木宗男の参考人招致、あまりにも面白い。温室のように温かい部屋で、ゴロゴロしながらテレビをみていると、昨日のことがまるで嘘のように感じられる。そうやってぼんやりとテレビ画面を眺めていると、ときおり部屋の後ろの方をスイ、と横切るものがあって、それは、白い船のかたちになった母なのだった。薄暗い台所へ走っていくと、発作のように嗚咽がこみあげてきてなかなか止まらなかった。

午後。仕事のめどをつけて、オットが会社から帰ってくる。
横浜で葬儀の段取りをしてくれている妹夫婦や親戚から、ひっきりなしに電話がかかってきた。

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夜。ストッキング、ハンカチなどを買いに出たついでにファミリーレストランで食事。オットはものも言わずにガツガツ食べる私をみて、ギョッとしたという。どうしたというのか、普通のファミレスの食事が、異様に美味しく感じられる。

忘れられないのはデザートだ。たかだか400円ほどのファミレスのデザートが、味蕾のひとつひとつに沁み入るように美味しい。そうして、そのアイスクリームの入ったお菓子の冷たさは、そのまま母の寝かされている場所の冷たさに直結しているのだった。

人間は悲しいと味覚が敏感になるのだろうか?
いずれにしても、今日、私はひとつの決心をした。それはもう二度と人間にはうまれてこないぞ、ということだ。人間は素晴らしいかもしれないけれど、悲しいから。人間だけではなく、犬にも猫にもボウフラにもならない。私が生き物として生きるのは、これが最終回だ。



2002年02月19日(火) 永眠

母が永眠した。

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このところ母の具合があまり良くなく、いつもは毎週木曜日に会いに行くところ二日早めて様子を見に行き、午後四時まで母の病室にいた。点滴を打ちながら荒い息をしている母を、それでも危篤と思わなかったのは、この三年間で「もう駄目かもしれない」と言われながら回復したことが何度もあったからだろう。

おとといから何も食べずに点滴だけだった母は看護婦さんから「今晩からお粥食べてみましょうね」と声をかけられると、身を起こさんばかりにして「ハイ」と返事をした。生きたくて生きたくて必死だったのだと思う。

けれど母の唇は乾いてくっついたままになっていたし、閉じた目の周りにも乾いた目やにがついていた。とても食事のできる状態には見えない。ガーゼを濡らしてきて目の周りと唇を拭く。それから吸い飲みにぬるま湯をいっぱいに入れて口元へ持っていくと、母はほんの少しずつそれを飲んだ。

吸飲みからうまく吸うことが出来ないので、いっぱいまでお湯を入れて傾ける。傾けて口に入る分だけ飲ませて、またお湯を入れに行く。三、四回それを繰り返したあとで母は、目を開けて私の顔をじっと見た。苦しいのか眉間にかすかに皺が寄っている。そうやって二度ばかり私の顔を見つめてから、目を閉じた。疲れたのだろう、と私は思った。

いつもは「また来週来るね」と声をかけるところ、母には何も言わず、父に「あさってまた来る」と言って病室をあとにしたのが夕方の四時だった。

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夜八時過ぎ、父からの電話。母危篤の知らせだった。父もいま病院から連絡を受けたところで、これから家を出るのだという。逗子の妹からも電話があって、すぐ出かけると言う。妹のところから母のいる病院までは四、五十分。私の家からは二時間はかかる。

支度をして、電車を乗り継いで、大船駅に着いたときには11時を回っていた。のぼり京浜東北線を待つホームで義弟(妹の夫)と姪をみつける。この時間に彼らが病院に向かっているということは…。私は義弟に声をかけ「妹から何か連絡がありましたか」と訊くと、答えは「聞いてませんか?」というものだった。私が絶句していると義弟は「八時少し過ぎだったそうです」と教えてくれた。

義弟はすぐに携帯電話で病院に連絡をとってくれた。母はもう病室を出されて葬儀社の人が搬送に来ているのだという。義弟は「お姉さん、いまここにいる。あと二十分待つように言って。すぐに行くから、それくらい待つように言ってよ」と強い口調で頼んでくれた。私たちは大急ぎだった。泣くのもあとまわしにして、タクシーに飛び乗った。

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母は白布にくるまれ、ストレッチャーに載せられて病院一階の廊下にいた。ベッド数20ほどの、霊安室もない小さな病院ではどこもこんなふうなのだろうか。数時間前まで病室で息をしていた母親は白布にきっちりと包まれて、車輪のついた台に載せられたその姿は、まるで小さな白い船のようだった。

父が私を手招きして、葬儀社のひとが白布を解くと現れた母の顔はまるで眠っているようだ。こわごわ額に触れると、冷たいけれども、氷のように冷たいというわけでもない。これってもう、本当に、どうにもならないことなのだろうか。数時間前に病室を出るとき、眠っていた母の呼吸音やからだのぬくもりが生々しくよみがえってくる。

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父の住んでいる集合住宅では病院(家の外)で亡くなったひとを家へ搬入することは規則で禁止されているのだそうだ。それで、母は葬儀社の方へ安置されることになった。亡くなった母を家へ連れて帰ってあげられないことがたまらなく辛い。
「お母さん、また目を覚ますかもしれない。だからひとりで寒いところへやるのはかわいそうだ」、そう思うけれど、口に出しては言えない。搬送する間、黙って母の白布にしがみついていた。
     
深夜二時頃、妹たちは父の家からタクシーで家へ帰って行った。私は始発で帰ることにして、居間のコタツで仮眠した。


2002年02月18日(月) デミタス

ゴミ箱とカレンダーを買いに出たついでに、白いデミタスも買ってしまった。

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以前から、白い厚手のデミタスが欲しいと思っていたのだ。デロンギなどのエスプレッソメーカーと一緒にディスプレイしてある、ロゴの入ったノベルティデミタスみたいなやつ。
薄くて軽くてきれいに彩色した、高価なデミタスではなくて、石のような重量感があって、ゴロンと手に収まるのがほしかった。

そうしたら、今日、西武百貨店のクッチーナフェリーチェという台所用品のお店で「これだ!」というのを発見。小さくて、厚くて重い。しかもカップが下へ向かって少ーしすぼまっているデザインが可愛らしい。一客800円と安かったので二客買ってみた。

この頃はエスプレッソブームのようで、食器や台所用品を扱う店へ行くと必ずエスプレッソマシーンを売っている。以前うちでもデロンギ社のレギュラーとエスプレッソ、両方入れられるマシンを買おうかと思ったのだが、あまりに高価なので断念したことがある。きょうクッチーナフェリーチェで見たらデロンギのエスプレッソ専用マシンが、一万円値下げして(価格改定だそうだ)二万円くらいで売られていた。
さらに、そのあと無印良品の売場を通りかかると、ここでもエスプレッソマシンを発見して、びっくり。白い、無印エスプレッソマシンは一万円ほどで手にはいるのだった。

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この頃は、視神経に障るということもあって以前ほどコーヒーをのまなくなった。もっぱら、紅茶。だからエスプレッソマシーンは、お台所が広くなるまで、もうしばらく我慢してもかまわない。でも、デミタスはコレクションしてもいいなーと思い始めている。
もちろん私が集めるのだから、安くて厚くて重たい、庶民派デミタスということになるけれど。









カップの径は65ミリ、高さ60ミリ。受け皿の径は120ミリ、です。




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