ダメダメちゃむ日記
DiaryINDEX|past|will


2007年03月05日(月) 依存

私は多くのモノに依存している。

まずタバコ。
これはもう超ヘビースモーカーだ<( ̄^ ̄)><ヾ(ーー )威張れない

次に薬。
私は23歳でうつ病を発症したので、かれこれ18年(その内約5年は薬なしで生活できた)、抗精神薬、睡眠導入剤を毎日服用している。
特に睡眠導入剤の方だろうか? 就寝前の薬を飲み忘れると、必ず翌朝禁断症状が起きる。震え、不安、渇望感……いや、人間として生活することができなくなる。仕方なく朝服用すると、禁断症状は治まる。
ドクターは「うつ病は治ります」と18年間言い続けてきたが、この薬物依存から本当に脱出できるのか、かなり不安。

そしてダーリン(連れ合い)。
16歳辺りから私にいわゆる彼氏がいなかった時期は少ない。
常に男に依存してきた。
性交するようになったのは大学からだが、避妊はきちんとした。
躁鬱病でアル中で借金持ちだった父(長年の離婚調停の果て、高3の秋に離婚成立)を、
家族3人(母・兄)で口汚くののしった2週間後、
大学合格発表前夜に轢き逃げ(私は長年自殺だと思っていたが、ダーが検分書を見て、事故と断定したのは去年)で亡くしてからは、
情緒不安定が続いた。
ダーリンの前は主治医に依存していた。(精神科用語では「転移」)
私のうつ事情は過去日記とうつ病掲示板に書いていますが、
うつ病板は放置していた間に散々エロカキコされたので、
過去ログ4〜515くらいまで遡らなければ読めません(−−;
モトが素直で純粋な人間なもので(笑)、
彼氏がいなくてふらふらしていた時期には性被害に数回以上遭い掛けましたが、
奇跡的に一度も赤の他人にレイプされることなく、
K官だったダーリンに終身補導されました(笑)

あと、アルコール(−−;
抗精神薬に眠剤飲んでいるんだから、アルコールは悪いに決まっている。
でも、やめられない。
来週からもう一度ノン・アルコールビールに戻してみようと思う。

それから漫画。

それに生徒(笑)

更に、カーディーラーのH田さんへの依存。
顧客の常識を越えて、H田さんには公私混同でご迷惑をお掛けした。
用もない電話とか、友だちになったつもりのメールから。
今夜、最後のメールを送った。アドレスも履歴も削除した。
「誰か若い人に担当を変わってください。これ以上H田さんにご迷惑を掛けたくありません」
私は、これ以上トップで過労状態のH田に迷惑を掛けたくない。
H田さんからは「引継ぎはできません。冷静になってください。僕は迷惑とは思っていませんが……」という返信が来たが、
私が自分を許せない。
明日夕方行く予定だった1ヶ月点検、H田さんが居ない隙を見計らって、
部長さんか店長さんにお願いしようと思う。
H田さんは本当によくして下さって何も落ち度はないけれど、
私自身がこれ以上H田さんに甘えられない、と
H田さんとは絶交になるかもしれないが、
彼が過労死するよりずっといい。


2007年03月04日(日) 同化

((((;゚Д゚)))ガクガクガクブルブルブル
かなり久し振りに怯えております。
何てシンクロしやすいんだ、自分。。。_| ̄|○

全国教研に参加して、いつきさんや珊士クンにシンクロして、
「夜回り先生」こと水谷修先生の講演会に行き、全書籍にサインしていただいて泣いて、
前任校の卒業式の様子をダーから聞いて゜(PД`q)゜。大泣きし、
水谷先生の書物を読み耽って、日記アップして、
気がついたら自分にとってタブーな筈の2004年3月〜7月の日記を読んでしまった。

まずい。。。_| ̄|○
明日は休まなければならないと思う。

ヤバイ。。。_| ̄|○
2日で水谷修先生のご本を6冊読もうとしている。
これは「私」のペースじゃない。

先週から呑み会の度に「いつもの私なら絶対しない」触法スレスレ行為を繰り返している。
大好きな先輩1人と地元の教育を守るために。
夕方無茶をやったら、すぐ本田ッチ(トヨタカローラトップ営業マン)から電話が入った。
「ちゃむさん、やめた方がいい。今あなたがやろうとしていることは、何よりもあなたのためにならない。だから先週僕は止めたんです。他のお客さんなら言いません。でも、あなただから僕は言うんです。ソレはやめないといけません」
。。。_| ̄|○
ありがとう、本田ッチ(ノД`)

……↑ここまで書いたら、過去がフラッシュバックしたのか、
12月以来シンクロしたり依存してきたモノが噴き出したのか、
ここ数日のハイテンションに嫌気がさしたのか、
久し振りに吐き気を感じてトイレで思い切り嘔吐した。
休養
が必要だ。せめて1日。

今の学校で過ごせたからこその平和に感謝しなければならない。
「もっともっと」なんて思っちゃいけない。
私はいつだってギリギリ、
いつだって精一杯頑張っている。
これ以上無理をしてはいけない。

私は「私」でしかあり得ない。
もちろん成長は必要だ。
しかしそれにはもっと時間も必要だ。
まだまだ私は全然治っていないのだから。


2007年03月03日(土) 巣立

昨日の「卒業」(長い!)の続きです(*^o^*)

もう一つの忘れられない卒業式。
卒業式の日、担任は幸せだ。3年の担任という激務の果ての慶びの日である。
副担任は淋しい。正直、涎が出るほど担任が羨ましい。
しかし、再発以来私はドクターからもダーからも担任禁止令を受けている。
事実、1年生担任の姿を見ていても、「私には無理だ!」とわかる。
うつ病と共に生きていく以上、私に担任はできない。特に3年担任は。
ある年、図書館主任をしたことがあった。
その年の3年生には読書好きの女の子が多かった。
すぐに昼休みは彼女たちと私の読書サロンになった。
昼休みに職員室にいるなんてもったいない。
私の友は図書館におり、仲間は図書部員だった。
彼女たちのリクエストでガンガン本を買った。
彼女たちが続きリストを作ってくる。その通りに私が買う。
私が図書館サロンのマダムであり、毎日本を借りていく常連客(笑)がたくさんいた。彼女たちは読書に逃げなかった。読書と受験勉強を見事に両立していた。
授業でこそ教えたことはなかったが、私たちは読書で繋がった仲間だった。
その子たちが、卒業式に手紙の束をくれた。
「大好きなちゃむ先生へ 図書館愛好会より」
あんなに嬉しい卒業式はなかった。あんなに大切な宝物はない。
教師をやっていてよかった。図書館で君たちと出会えて本当に嬉しかった。
私の教師人生の中で最高に幸せな卒業式でした。

そして昨日。
今年1年の選択授業で100人前後は教えただろう3年生の卒業式。
素晴らしい3年生だった。
「非の打ち所のない」生徒に出会ったのは教師人生で初めてだった。
心が豊かで、感性が豊かで、基礎学力があり、授業にも百人一首にも全力投球だった。
生徒会はもちろん、体育大会、文化発表会、こんなに完成された中学生を見たのは生まれて初めてだった。
もう(ノД`) ただ(┰_┰)ウルウル
何の心配も不安もなく迎えられる、こんな卒業式も初めてだったな。
卒業式はもちろん厳粛にマタニティフォーマル。
2月14日に着て校長から怒られた服だが、流石に今日は文句言われなかったゾ<( ̄^ ̄)>
そして、在校生全員で卒業生を見送る花道では、
冬休みに校長に注意された、「ハ○ー・○ッター」のグリ○ィンドールのローブにグリ○ィンドールのマフラー巻いて、外掃除用の箒を持ってコスプレでお見送りv(≧∇≦)v♪
在校生も「先生、飛んで!」と大騒ぎだったが、あいにく私はマグルなので飛べません(笑)
3年生にも保護者にも大受けさ! わぁいヽ(∇⌒ヽ)(ノ⌒∇)ノわぁい♪<自分解釈(笑)
職員集合の後の昼休憩、まだ卒業生がたむろしている近くの公園へε=ε=ε=ε=ε=ε= へ; ̄_ ̄)┘
「後で写真撮ろうd(^-^)ネ!」
と約束した生徒たちのために(箒抜き)の偽魔女参上撮影大会だ!O(≧∇≦)O イエイ!!
本当に君たちはサイコーな3年生だったよ。
でもね、今の1年をあと2年で、君たちと同じかそれ以上のレベルまで、
私たち育てるから。安心して母校を巣立っていけ! 羽ばたいていけ、その素晴らしい翼で(o^-')b

そして、同じく昨日。
もっと忘れられない卒業式に、ダーリンが出席した。
昼には携帯に電話が入っていた。
「ちゃむちゃん、○中の卒業式、素晴らしかったよ。服装も頭髪も起立着席も式の態度も完璧で、答辞も歌も最高で僕も涙が出たよ! 生徒も来賓もみんな泣いてたよ!」
祝電を贈っておいた、私の前任校の卒業式に、地域の交番所長として、ダーリンは来賓で参列したのだ。
(┰_┰)滂沱〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ!!
あの学年が!!!!? ゜(PД`q)゜。<ホントこんな感じ

1年の時4クラス教えた学年だった。
かなりヤバイ3年生がいたけど、タバコ仲間として悪の3年生とは通じていた。でも、彼らは荒れ過ぎていた。
もちろん彼らには暴れるだけの理由があった。もう決して口外したくないほどの。
彼らは大人に傷つけられ過ぎた。
親に傷つけられ、そして教師にも傷つけられていた。その心の痛みが、彼らを荒れさせた。もう思い出せないような荒れっぷりだった。
当時の3年部がどんなに大変だったか、この目で見たし、
その心の痛みにリンクしてしまった私には、彼らの作り出す大音響(ドアや廊下を蹴る、叫ぶ、他)は耳にきつすぎた。
7月に1ヶ月の病休を取った。1学期の評定を出してから。
復帰した2学期には、1年生の1部の女子が荒れ始めた。
彼女らもまた家庭の犠牲者でもあった。
そこには力の暴力はなかったが、言葉の暴力という恐ろしいほどの破壊力を持っていた。
その辺りの過程は2004年度の日記やうつ板に書いてあると思うが、
今の私には読み返す勇気はない。
書き込む気力もあまりなかったかもしれないが。
まず、女性担任が1人やられた。メンタルだ。2004年度3人目のメンタル病休<一人目は私ですが(*^o^*)
誰が荒れ果てた●組の新担任になるか。荒れの中心にいたのは(勝手診断)自己愛生人格障害のT。私はそのクラスに授業に行っている副担任の1人だった。
校長、教頭、学年長、副学年長単位の相当な会議があったと思われる。
年齢的、条件的には私のはずだった。
しかし私は赴任時にうつ病をカムアウトしていたし、その学校ではメンタル疾患が十分理解されていた。私がそのクラスの担任になったら命の危険があった。
ベテランがかなり無理な条件でそのクラスの新担任になってくれた。感謝してもしきれなかった。

そして、ほぼ同時に家庭のトラブルを抱えていた女性担任も倒れた。こちらもメンタルとなった。年休消化での復帰を待っていたが、彼女のストレスも大き過ぎ、こちらも病休となった。私はそのクラスの副担任であり、彼女が休んでいる間中、担任代行をやっていた。生徒ともうまくいっていた。
どう考えても「私か!?」く(""0"")>
悩んだ。相当に悩んだ。ドクターともダーリンとも相談した。論点は、
「私に担任ができるか!?」
という物理的精神的身体的な条件だった。
校長たちも相当な話し合いをしたに違いない。
ある日、遂に校長室に呼ばれた。
「●組の授業を私(校長)が受け持つから、○組の担任をやってくれないか」
そう、女性教師を2人倒した後、Tの攻撃は今や私に向いていた。
●組に行くのがきつくて辛くて仕方がなかった。Tとその仲間による教師いじめの矛先は今や私を標的としていたから。校長の奇策だったに違いない。
「……医者からも家族からも言われています。現在の状況で担任をもつ気力と体力が私にはありません。ましてや、●組の授業を校長先生にお任せするなんて、私にはできません」m(_ _)m
実は、若くて元気な臨時講師が1年部にいた。あと3ヶ月と少しのこの1学年部を無事に乗り切るには、彼女にお願いするのが最も無難だった。
実は校長もそのつもりだった。若くて元気な彼女が第1候補だったと後でダーから聞いた。ただ、副担任で適正年齢の教諭である私の意志と立場を尊重してくれたのだった。
担任交替が発表される月曜日、私は学校に行けなかった。
Tらの攻撃は続き、遂に私にも限界が来てしまった。
「今すぐから少なくとも3月末までの休養が必要」
それがドクターと私たち家族の選択だった。
本年度5人目のメンタル病休。しかも同じ学年の女性教諭3人。それほど彼女らの言葉の殺傷能力は壮絶だった。
1月、私はうつ病になって初めての精神病院入院となった。春からの拒食症が激し過ぎた。2月には退院したが(笑)
3人の内、私が最も早く4月に復帰できたのは、ひとえに私には信頼できるドクターと十分にうつ病を理解してくれる家族の存在があったからだ。
4月復帰。でもあの学年からは離れる必要があった。命の危険が大きいからだ。
そして新しい生徒とチームワークばっちりの素晴らしい学年部に恵まれた。
しかし、校内人事の関係で例の学年を私が2クラス受け持たなければならなかった。
学年長は全クラス名簿を見せてくれて、
「ちゃむさんが行きやすいクラスを選んで」
と言ってくれた。
自分で選んだ2クラスの授業だけしか私は関わらないようにした。
例えトイレ前に10人座っていようが、私は自分のクラスの授業だけしか関わらなかった。そして、決して彼女たちに指導しなかった。
〜お互いに無視する、指導しない、干渉しない〜
彼女たちと暗黙の間にできた私ルールだった。
そのおかげで無事に1年間を過ごすことができた。病休も取らずに済んだ。
でも、次に最高学年となる彼女らとあと1年間を過ごすには、
私の状態はまだまだ整っていなかった。
かなりの無理をお願いしての2年での異動。それは緊急避難に近かった。
「かなりよくなったよ」
という風の噂は聞いていた。でも、彼女ら彼らを信じ切れなかった。
2年になって1週間で男性教師も1人倒したヤツラだったから(−−;
もう1人の男性が倒れる寸前に私が気づき、私のドクターを半ば無理矢理紹介した。
校長と学年長にも進言した。彼、今ヤバイです。彼のための学年編成をしてやらないと、また犠牲者が出ます。これがあの学校での最後のお節介だった。

あの学年が「素晴らしい卒業式!?」Σ( ̄∇ ̄lll!?
「僕も見ていて涙が出たよ。来賓もみんな泣いてたよ」Σ(゚Д゚;≡;゚д゚)
ダーが帰宅して卒業式次第を見せてくれた。
名簿を見ながら、1人1人の顔が浮かんだ。1年の時、●組だった子、○組だった子……2年の時は……ほとんど全員思い出せた。
ああ、こんな風にクラス編成したのか、○○先生たち頑張ってたもんね。
Tの対策にはあの人が立ったのか……。
そして微笑みうつ病だった彼にこんないいクラス作って支えたんだ……。
゜(PД`q)゜。 ゜(PД`q)゜。 ゜(PД`q)゜。
ダーから卒業式の様子を聞きながら、夫婦2人で泣いた(ノД`)(┰_┰)ウルウル
「答辞が○○と◎◎……」��( ̄□ ̄;)!?
ダ「僕も感動して、ほら、思い出し涙が止まらないよ。帰り際、校長先生としっかり握手して『感動しました! 校長先生、教育って本当に素晴らしいですね!』って言ってきたよ。ちゃむちゃん、教育って本当に無限の可能性を秘めている素晴らしい仕事だよ!」
と、私とも熱い握手。まるで選挙の候補者のような力のこもった両手握手にまた泣いた(ノД`)
「あいつら、がんばったよ。1年で変わったよ」電話したら携帯で教頭先生やU先生たちが教えてくれた。
「先生たちに苦労かけた分、しっかり答えて行ったよ」゜(PД`q)゜。
本当におめでとうございます。本当にありがとうございました。

見られなかった卒業式が、
教師人生で忘れられない4つめの卒業式になった。


2007年03月02日(金) 卒業

忘れっぽい私だが、忘れられない卒業式が2つあった。
それが今日、4つになった(ノД`)
最初の「忘れられない卒業式」は2001年の3月だ。
2004年3月30日の日記「離任式」に書いてあります(〃 ̄ー ̄〃)
2000年秋、私はうつ病で初めての病休、そして春から休職を取った。

次女が生まれ、12ヶ月取れるはずの育児休暇を私は途中で切った。
どうしても、4月から現場復帰したかった。
1999年4月、0歳児の次女と3歳の長女を信頼できる保育所に預けた。
ダーは当時単身赴任だった。
4月、いきなりの椎間板ヘルニアに襲われた。
ほぼ3ヶ月毎夕整骨院に通った。
朝は眠たがる娘を無理矢理起こし、保育所へ預けて出勤する。
2年部だった……んだろうか?(記憶が曖昧)うん、多分2年部。
妊娠するまで持っていた学年に復帰させてもらったのだと思う。
授業は楽しかった。生徒が大好きだった。
そして夕方整骨院で治療を受け、娘sを保育所へ迎えに行った。
夕飯を食べさせ、風呂に入れて、洗濯?
……家庭生活の記憶はほとんどない。
近所に住む実母が手伝いに来てくれていたはずだ。
そう、椎間板ヘルニアで次女のおむつを替えるのも激痛だった。
生まれて以来布おむつを使っていたが、
4月からは紙おむつにしたような気がする。
不思議ときつかったとか辛かったとかいう記憶がない。
イヤなことは忘れる質なのでだろう(笑)

夏休みに県サークル集会があった。
尊敬する部長さんが、
地元新聞の差別記事に何度も抗議している話を聞いた。
彼女1人に闘わせてはいけない、素直にそう思った。
その直後、地元紙のコラムにとんでもないセクハラ推参文章が載った。
私は怒り狂った。
レポート用紙5枚に殴り書きした抗議文書を新聞社に送った。
翌日、少し落ち着いてからワープロで清書して再度送った。
質問項目への返答と、社をあげて対策をとり、謝罪記事を掲載せよという趣旨だった。
何日も総務部長と連絡を取り、
経過をワープロで記録していった。
ひどい風邪をひいた。
きつい抗生物質を飲みながらたった1人きりでの闘争だった。
当時の信頼していたA校長には報告していた。
個人として、新聞社に抗議し、対応させています。
もしかしたら校長先生にご迷惑をお掛けするかも知れませんが……。
と言った私に、A校長は「ああ、どんどんやりなさい!」と励ましてくれた。
質問状への回答は大変不満足な代物だったが、それが彼の会社の現実だった。
そして、謝罪を装ったコラムが数日後掲載された。
私は小躍りして喜んだが、校長と社会科のベテラン教諭は鋭かった。
「これ、全然謝ってないよ。前と同じ言葉を繰り返して茶化してるだけだよ」Σ(。。lll)ガーン!?
その通りだった。
更なる謝罪記事を改めて掲載して欲しいという再抗議には、
「弊社といたしましてはこれ以上の対応をする意志はありません」
の一言だった。。。。_| ̄|○

ここから逆襲を始めた。
女性部はもちろん、県下各地のベテランサークル部長たちに、
ファックスで資料を送付した。
「ちゃむさん、どうして1人でやったの? 最初に声を掛けてくれれば手伝ったのに」
と何度も聞かれたが、私は「1人の読者」がどこまでできるのか試してみたかったのだ。

ダーはかなりの無理をして、何度も帰宅して家事育児を助けてくれた。(K官は勤務地外に出るときには上司の他行許可が要るんですヨ)
週末にダーの赴任地に運転して行く元気は私にはなかった。

秋。
ふと気づいた。
「娘が笑わない!!!」く(""0"")>
結婚前に治ったはずのうつ病が再発した! と直感した。
確かに私は多忙で過労状態だった。
自主的に再通院し、カウンセリングと投薬治療を受けた。
今度は私1人の生死の問題ではない、娘sの人生が係っていた。
ドクターと話し合い、ダーと話し合い、それでも仕事は続けたかった。
朝、空き時間、昼休み、夕方、私はいつも職員室の外で煙草を吸っていた。
この頃、既に同僚とはうまくいっていなかった。
副学年長のW先生からはいつも怒られていた。

ある呑み会の2次会で。
私は1人で飲んでいた。語り合う仲間はそこにはいなかった。
S先輩が隣に座った。
2年前、飛び込み3年副担任をやった時の、数少ない1人だった。あの時の学年部は最高だった。今でも機会あるごとに焼き肉パーティーをやる団結力ある「仲間」だった。
S「最近、お前に対する風当たりがきついの、わかってるな?」
ち「はい……」
S「W先生が何故お前にだけきつくあたるのか、わかってるか?」
ち「……わかりません」何故私だけ!? と理不尽な閉塞感で一杯だった。
S「お前に期待しているからだ。俺だけは2年前のお前を知っている。あの荒れた3年部に飛び込みで入って、大きなお腹抱えて(次女入り)、それでもふうふう言いながら、お前は生徒たちの間を飛び回っていた。」
ち「……」Hちゃんと一緒に学年通信書くの楽しかったな。
S「他の先生は知らなくても俺だけは知っている! お前は『こんな風』(多分無気力ってこと)じゃなかった!!」(≧ ≦)Ω
ち「……『あの頃の私』とは違うんです。……うつ病が再発して、きつくてきつくて動けないんです」(┰_┰)
S「……!? 何故お前はそれを仲間に言わないんだ? お前は仲間をそんなに信頼できないんか!?」
『信頼できません!!』く(""0"")> 本当はそう叫びたかった。
今とは違って、1999年当時うつ病はポピュラーな病気ではなかった。
新採用の時、私は既にうつ病だったが、母から「絶対に誰にも言ってはいけない!」と箝口令が敷かれていた。
『うつ病だと話して、誰がわかってくれる!?』く(""0"")>
私は恐怖でいっぱいになった。特にその学年部ではS先生以外に信頼できる先生はいなかった。
S「お前が言えないんなら、W先生だけにでも、俺から話してやろうか?」
ち「……考える時間を下さい」(ノД`)
記憶があまりない。
しばらくして、私はまず学年部にうつ病をカムアウトした。
多分校長と教頭にも。
W先生からの厳しい指導は途端に止まった。多分S先生が話をしてくれたのだと今でも思っている。
そして、3月にS先生は異動した。

新3年部。1年間教えた子どもたちを私は大好きだった。
でも、うつ病は理解してもらえなかった。
朝起きて、どうしても学校に行くことができない日があった。
急な自習、自習課題のない自習監督の増加による多忙化。
負担という名の愚痴は、私の聞こえるところで、聞こえよがしにささやかれた。私以外は皆健康だった。
私は現実から逃避するために、チャットにはまっていた。
朝、「行ってきま〜す♪」とチャット仲間に話しかける。
「いってらっしゃ〜い。無理するな〜」とチャット仲間が答えてくれる。
子どもを保育園に送迎、授業、最低限の家事育児、睡眠。
それ以外の時間、私はずっと娘sに背を向けてPCでの仮想家族と会話し続けていた。
完全なるチャット依存症だった。

そして、忘れもしない10月。
弁論大会の事前指導として、
私は昨年の新聞コラム闘争を授業した。4時間扱い。
既に昨年度の3年生の3学期に実践済みであり、手応えも感じていた。当時の校長にも報告したし、生徒の感想も読んでもらっていた。校長は応援してくれていたが、その年の3月に定年退職して、校長が替わっていた。
1,新聞のコラムを読み、感想を400字以内で書く。
2.ある女性の抗議文書と社の回答を読み、感想を400字以内で書く。
3.新聞社曰くの訂正コラムを読み、感想を400字以内で書く。
4.再抗議文書とその返答を読み、感想を400字以内で書く。
その過程で、今でも憎むY担任がかみついてきた。
生徒の作文を返そうとした時に読んだらしい。
Y「ウチにはこの新聞を配っている生徒もいるんだ! この新聞社に親や親戚が勤めている可能性もある。コラムに載っている事件の関係者もいるかもしれん。あんたは事前にそれを調べたんか!? あんたのやっていることは新聞社差別や!」
ち「最後まで授業をやらせて下さい! そして生徒の変容を見て下さい。関係の生徒にはきちんと謝りますから」
次の時間、配っている子、家族親族に社の関係者がいる子に謝った。
「あの新聞社自体が悪いんじゃないんだよ。主筆といって、誰も文句も意見も言えない立場に恐ろしいほどの差別と偏見をもった偉い人がいる。そして、その人が差別記事を流し続けることに、私は抗議しただけなんだ」<自白?(笑)
昼休みだったか、放課後だったか、またYが噛みついてきた。
Y「俺があんたに文句を言ったから、あんたが謝ったことになってるやないか!?」
……私はY先生の名前は決して出していませんし、
事実その通りですが、何の問題が……?(??)
K「そんな授業やるんなら、事前に担任に断ってもらわなきゃねぇ〜え」
(多分当時分会長。「年休って権利でしょう?」と言った私に「限度があるけどね」と冷たく答えた働く子持ち女性教師)
そこからは、もうわけがわからなくなりました。
そして、そこがもう私の活動限界でした。。。_| ̄|○
全てのクラスで最後まで授業実践した私には、
もうこの人たちと働く気力も体力も残っていませんでした。
ドクターとダーリンと何回も話し合いました。
私が受け持っているのは3年生です。受験生です。そして私は受験教科です。
でも、もう私はその学年部で生きていくことができなかったのです。
校長とも相談し、ドクターに書いてもらった「うつ病のため病気休暇が必要」という診断書の前日まで、笑顔で生徒たちと授業をしました。
生徒たちと離れたくなかった。
でも、あの教員集団とではもう私の命が限界だったのです。
あの生徒たちの卒業式が「2004年3月30日(火)離任式」に書いてあります。あれが一番忘れられない卒業式でした。

長くなったので、明日に続く。


2007年03月01日(木) 夜回

「夜回り先生」こと水谷修先生の講演を聴いてきました。
涙が止まりませんでした。
講演前に全書物購入していたので、
一番乗りで全部の書籍にサインをいただきましたm(_ _)m
ありがとうございます
私、死にませんから
私も子どもたちに「生きる力」つけてもらうために学校で授業してます
家庭が崩壊していたので
うつ病ですけど
それでも私には「生徒たち」と「娘s」とパートナーがいますから
絶対に自分からは死にません
私にできる分だけ
ガンバリマス

最後にもう一度並びました。
最初にサインをいただいた教員です
私のために、とパンフレットにサインをいただきました
そこには

「いいんだよ 水谷修」

と書いていただきました。
「たれに捧げん」の主人公が恋した修さんと同じ名前ですね
偶然ですね
あなたのようにはできませんが、
私は私にできることを、私なりに
教師としてしっかりとやっていきます

ありがとうございましたm(_ _)m


2007年02月27日(火) 奇跡

ちゃむさんの「奇跡の価値は」お座り一発1000円で暴走の1万8000円でした@エヴァパチ3(笑)
娘sの嘔吐下痢症はあっさり治り、私は相変わらず元気に飛び回っております。
湯布院のお宿はサイコーでしたo(☆∇☆)oきらりーん♪
身も心も癒されました〜(〃 ̄ー ̄〃) <炬燵の横で2時間酔いつぶれていたヤツの台詞?<<ヾ(ーー )おいおい?
有名なコーヒー屋さんで盛り上がり、翌朝トンボ返りして女性部大会。発言タイムに見事に遅刻。。。_| ̄|○
出口で500枚サークル勧誘のチラシを配りました。
そこからカローラに行ったら、カローラ祭りの最中で無料で楽しませていただきました(*- -)(*_ _)ペコリ
そこに従妹から「今プチ里帰り中、赤ちゃん見に来ない〜?」とメールがΣ(・ω・ノ)ノ!?
もう家族でε=ε=ε=ε=ε=ε= へ; ̄_ ̄)┘
夜はPTAのママさんたちと打ち上げ……「遅れます」とは言っておいたけれど、
遅刻した本当の理由は久し振りの兄メイトでデスノートアニメDVD初回限定版(フィギュア付)を3巻と
遙かの映画版DVD初回限定版、
アニメ店長のCDなどを大人買いして、
カードの更新してたからでつ(ノД`)<ママさんたち、笑って許してくださってありがとうm(。−_−。)m スイマセーン

後はもうひたすらアタフタヘ( ̄□ ̄;)ノ ヽ(; ̄□ ̄)ヘアタフタ 暮らしております。とても体調がいいっす(^^;)ゞ
3年生がもうすぐ卒業するのが淋しいっす(ノД`)


2007年02月22日(木) 闘志

逆ギレして、闘志が沸いてきた窮鼠ちゃむです(笑)
バタバタしてて、「足跡」のところに書きました。
ダーリンは、
「やっと闘うちゃむちゃんが帰ってきた♪」
ととても嬉しそう(笑)
ダーリンと出会ったのも「女子教育もんだい」のレポートの取材を
兼ねていて、飲みながら「今の社会は」とか「もっと女性も」
とよく討論したもんです……そして恋が(〃 ̄ー ̄〃)

子どもの病状も落ち着いたし、
明日はダーがお休みなので、
授業してきますv(≧∇≦)v♪
夕方からは学年部で湯布院へプチ慰安旅行です。
温泉入ってのんびりしてきます。
では♪


2007年02月21日(水) 不眠

昨夜は長女・次女の同時多発ゲロ攻撃が4回(−−;
連れ合いは慰労会兼お別れ会で楽しんでいるので電話せず、始末した。
深夜帰宅した夫から
「インフルエンザか!?」「ノロウイルスか!?」
と尋問されるのに疲れて、
「私は医者じゃないからわかりません」
とふて寝した。

朝、私の体調は最悪。
でも、授業しなければならないし、
相棒に作ってもらった学年末テストをチェックしなければならなかったので、
連れ合いに年休を取らせて、私は午前中出勤とした。
普段着のジャンパーには娘のウイルスがついている可能性があるし、
生徒にうつすわけにはいかない。
それなのに、ファッションに興味がない私はろくな服を持っていないく(""0"")>
体調は悪いし、寒暖もよくわからない。
迷ったが、取り敢えず防寒のため部活の時に着るグラウンドジャンパーをセレクト。<(゜゜;)\(--;)ォィォィ

これがもう最悪にまずかった(−−;
何せ私は体育科ではないし、部活動で寒い体育館やグラウンドに行くわけではない。
しかも色が、「私は風邪なので近寄らないように」風の明るい警戒色だ(笑)
職員室に入るなり、
「ちゃむさん、どうしたの?」と質問責め。
「風邪がひどいんです〜(ノД`)」
しかし、あの校長にそんないいわけ通じるわけがない。
まずはジロリと睨んで、
「今日は1日その服かえ?」
「風邪がひどくて寒いんですよ〜。それに3時間目が終わったら帰りますから」(^人^;)
朝の打ち合わせが終わるなり、「ちょっと」と顎で呼ばれて校長室です( ̄_ ̄lll)
「非常識やと思わんか? その服装は!? おかしいやろ? おかしいやろ? おかしいやろ?」<また? ┐('〜`;)┌
「風邪ひいてるんです、寒いんです」
「そんな服着て授業するつもりかえ? 今すぐ着替えてきなさい」
「廊下とかがすごく寒いんですが……」
「そんなに具合が悪いなら帰ればいいやろ!?」
「授業をするために、娘の具合も悪いのに無理して出てきたんです!」
「他の服はないんかえ!?」
「ありません!」<( ̄^ ̄)><(゜゜;)\(--;)ォィォィ
「じゃあ、教室で授業の時は絶対脱ぐんで!」
「わかりました」(−−;

1時間目は空き時間だったので、
相棒の作ってくれた試験問題に褒めながらもいくつか注文つけ、
グラジャンを脱いでみた。
「暖房の効いてる職員室でも寒いよぉ!!」(T∇T)
速効帰宅して、連れ合いの男物ジャンパーを借りました。(−−メ)
連れ合いにまで風邪をうつしたくないのに……。
校長室をノックして、「これでよろしいでしょうか?」
「ああ、それならいいわ!」(喜色満面)
「これなら授業中に着ていてもよろしいでしょうか?」
「ああ、何ぼでも着ていいで!」
私が指導に素直に従ったのがうれしかったのでしょうか?
たった1日、自分の健康を守る権利すらないんかよ ┐('〜`;)┌

早退後、まずは主治医に風邪薬をもらいに行く。
ついでに朝の顛末も話した。
「そりゃまた、セクシャルハラスメントにモラルハラスメントにパワーハラスメントまで揃い踏みのすごい発言ですねぇ」(笑)

サークルのちらし、作ろうと思ったけど、
怒りと孤独と悔しさでろくでもない代物しかできなかった。
女性部両性担当執行委員に電話してからファックスした。
明日の会議では当然ボツになるだろう。

11時頃2時に目が覚めた。睡眠剤飲んでるのに。
またしても早朝覚醒。
「不眠時」の頓服を飲んでも眠れないので、
日記を書くことにした。
今午前3時半。
ベッドに行くと連れ合いが起きてしまって、
その後彼が眠れなくなるのがわかるので、寝室に行けない。
コタツで寝たら、また怒られるのでコタツでは眠れない。

正直、この11ヶ月些細なことから何度校長に
「おかしいやろ!? おかしいやろ!?おかしいやろ!?」
と詰め寄られたことだろう。
やっぱ精神病院通ってる私の頭がオカシイのか?
とか、正直へこみました 。。。_| ̄|○

ちなみに娘sは同時嘔吐下痢症でした(−−;
時間差でなかたことを喜ぼう。
明日は8時登校して、1クラスの自習課題だけ用意して、
もう1クラスは該当時間に行って授業をしようと思ってます。
もちろん「子の看護休暇」7時間は取りますが( ̄_ ̄lll)


2007年02月20日(火) 風邪

風邪ひいちまいました。
昨日の朝からちと風邪っぽかったんですが、本格的に風邪です。
授業やれるだけやってから、年休もらって早退しました。
ちなみに長女も風邪ひきました。
私は鼻水メインですが、長女は嘔吐してますよ。
明日は「子どもの看護休暇」(これも4月に校長の勘違いで取らせてもえなかった日があったっけ。バカだね〜ぇ ┐('〜`;)┌ )かな? 年休かな?
でも、学年末試験前だから、授業だけは行きますよ(≧ ≦)Ω
だって、授業やんねぇと試験範囲終わらないんだもん(^^;)ゞ

じゃあ、テスト範囲も終わってないのに、
何故あんな持ち込み授業やったかというと、(実はこれで結構不安も迷いもあったんですよ(;^_^A  )
あの前日に「クイズミリオ○ア」で、
「西暦3000年の日本の人口は29人!」
という放送(しかもそれで1000万円獲得)があったからなんですよ(^^;)ゞ
厚労大臣の「女は産む機械」「装置は限られているので……各自が産めよ増やせよ云々(<(゜゜;)\(--;)ォィォィ 乱暴な変換しない)」発言もあったし、
出生率は1.29だし、
2007年4月の改正にこんなに不備な点があるし、
全国教研で元気もらったし、割と勢いみたいなモンでした(;^_^A アセアセ

まぁ、
「特設授業は計画的に、教育課程に沿って、発達段階に沿って、学習を重ね、教員間の合意を得て」
という、女性部両性の自立と平等担当執行委員サマのありがた〜〜〜いアドバイス(−−;
もいただきましたしね ┐('〜`;)┌


2007年02月19日(月) 反応

朝一、校長室を訪問し、
「ご指導とご配慮ありがとうございました」(*- -)(*_ _)
もちろん心の中ではベロ出しチョンマですが、そこはそれ ┐('〜`;)┌
この一年、クソ校長のおかげでちゃむも大人になりました( −−)

先週の作文の宿題が各担任から一方的に何の説明もなく「没収」されたので、
宿題は題名選択式にして、テスト後、卒業式後を〆切として課題としました。
「どうして先週プリント集めたんですか?」
「校長がそう決めたからよ!」(^^)にっこり
敢えて1年生には何も説明しませんでした。
それが弾圧だと感じ取れる感性を持っている子には伝わったかもしれません(笑)

しかし、さすがに校長!(笑)
「3年生ならまだしも……」
と昼休みにほざいた台詞を私は聞き逃しませんでした。
だから、3年生には語ったのです。
5限は最後のバトル(笑)をやった後、「このプリントは校長の決定で1年生から回収される」と。
6限は最後の入試直前対策紛らわしい品詞の見分け方を学習した後「さっき私が3年生と授業をしている間にこのプリントは没収された!」と。
3年生の学習権は守り授業をやり、わざと少しの時間を余らせたのです。
(6限の授業には、正直悔し涙が止まらない状態で教室に入りました。)
何事もなく授業をやった後、ただプリントだけを配りました。
3年生には朗読してみせるまでもありません。
興味のない者は読まなければいいし、興味がわけば読めばいい。
そんな気持ちで語りました。
「何故、このプリントが没収されなければならないんだ!? 読んでみて! キミたちが将来出て行く社会が2006年度の現在どうなっているか、君たちのほとんどが読んでいる地元新聞に載った記事をコピーしただけなのに、何故1年生から回収されなければならなかったんだろう。 そんなおかしなコトが書いてあるか!? もちろん、今回は私のやり方が間違っていたのかも知れない。たった1人でやろうとしたから。7年前もそうだった。その新聞がひどい差別記事を書いたとき、私は1人で抗議して新聞社に負けた。それを授業として扱ったら、今度は『新聞社差別だ!』と担任から抗議され、ノイローゼになり、休みを取らざるを得なくなった。何故、世の中のおかしいことを『おかしい!』と立ち上がったら、こうも叩かれるんだ!? 私には正直わからない。でも、たった一つだけわかること、それは
『1人で闘っても勝てない』
ということだ。だから、仲間を増やせ。おかしいことをおかしいと見抜ける感性を持て。そして、仲間と手を取り、連帯して、おかしいことはおかしいを訴え、立ち上がる勇気と、尚かつ人間関係を崩さないコミュニケーション能力を高めてくれ! あと20年、君たちが過ごしやすい職場や家庭に創れるように、先生は全国の仲間と地元の仲間と協力してがんばるから、20年経ったら、どうかそのバトンを受け取ってくれ!」(ToT)<半泣き

昨日の放課後でした。
1年間私の選択授業を受けたTさん、K子さんが、メモ用紙を持って、
「よかったら、先生の住所を教えて下さい!」
と、愛の告白みたいな感じで言ってきた。
「在校生には秘密だよ^^」
「あの……私たち、先週の先生の話を聞いて感動して……私たちに何かできることはないですか?」
受け取ってくれた生徒がいた(ノД`)
「まずは、高校受験まで必死に勉強すること♪」
住所、電話番号、メッセージを喜んで書きましたよ。
小さなバトンと2人にパスできた。
むしろ校長ありがとう。


ちゃむ |MAIL |HomePage

My追加