本・罪と罰

「罪と罰」読了いたしました。
この年になって・・・ですけどね!
主人公と同じ年齢だと言うこともあり、なんだかのめり込んでしまいました。
私が感想を書くとボロがでるのでくわしいことは書きませんが、
ただただひれ伏すばかりの本でした。
こんなに面白くて引きずり込まれる本は久しぶり。
なにより考えていたよりずっと読みやすかったのが、驚きでした。
現代の預言書といわれている通り、今にも通じる内容。
心理描写や身体の感覚は寒気がするほどリアルに描かれていたと思います。

偏った意見にのめりこみすぎたとき、自分を救うのか何か。
ラスコーリニコフにとってそれはソーニャであり、自分の考えを覆す数々の葛藤の果てにあるものだった。今の私たちにとってやはり必要なのは、頭で考えることではなく、経験や自分の肌や感覚で感じるものなのでしょう。
間違った方向に進んでもかまわない。あとで過ちだと気付く力が結局は大切で、それを助けるのはやはり人の力で、自分の力でもある。一人では人は生きられないっていうことを改めて実感しました。
最期のほうは主人公がむしろうらやましくなってしまうくらいで、妙な感動に見舞われました。6章・エピローグは今まで読んだ中でもかなり印象的な部分です。

ちょうど神戸少年殺傷事件の少年Aが仮出所するかもしれないというニュースを見たことで、思い出したのが、「罪と罰」のラスコーリニコフの理論でした。
少年Aの逮捕当時の言動はこの本の主人公の犯行後の自己弁護や理論の展開に実によく似ていて、これを治すのは誰もが難しいと首を傾げてしまいます。
そんな人の目が犯罪を犯す人にとって死や投獄よりも怖い。
だから世間のルールからはみ出てしまうわけで、このルールにのることは実は難しい。誰もが生きていくことに息切れしてしまうこともある。私だって生きるのが難しすぎて嫌になってしまうことがある。そんな時何か救いがあれば、人は軌道修正できるのかもしれません。
誰もが、人に疲れて人に癒されるんだったら、
世の中矛盾だらけなのは当たり前ですね。あーあ。
2003年05月12日(月)

会えない時間

同じ人といつも一緒にいるわけには行きません。
当たり前だけど。
そんな人たちが私の見ていない間何をやっているかなんて別に興味もないし、向こうに興味をもたれたら嫌です。寂しがり屋の人でも、同じ人と何時も一緒で、と言うと息が詰まりそうな気分になるのではないかな。
人には孤独も必要なんですね。

で、見ていない間の事を少し。とりとめがないです。

一つ目。
友人で凄く綺麗な子がいて、たまにファッションショーとかにでてます。
最近またモデルをやったというので、それを見た。
知らない彼女の表情、スタイル、個性、才能。他人のようだ。
彼女の姿はまるで別の顔をしている。女の人の顔をしている。
無邪気で、少年ぽくて、やわらかい。普段の表情とは別。
やはり人というのは私に向ける顔と別の者に向ける顔と言うものは違っていて、角度が違うだけでこんなにも違って見えるんだなあ。と改めて知った。
多面性ですね。
となると、私も人によって接する表情が違うのでしょうか。
孤独と接する時の表情は皆はどんな顔をしているのでしょうか。
電車に乗っている人たちの無表情は誰に向けているのでしょうか。
人というのは見ていると面白いもので、永遠に飽きることのないものはやはり人間でしょうね。人間は何面体なのでしょうか。

二つ目。
憧れている人がいる。
彼をみると息が止まる、気後れする、足がすくむ。真っ白になる。
その人を一日に三回も見た。
一回目は映画館で。
二回目は食事中に。
三回目は切符売り場で。
見ると私は緊張して、友達と話していても話している言葉に意識はない。
嫌なくらい意識をして、そして振り返る。
すると違う人だったり。
よく似ている人だったり。本物はどれだと言われても、きっとどれも本物ではない。他人の空似。ドッペルゲンガ−?
いるわけもないし。
と思うのですが、どうしてこんなにも似ている人に会うのか、不思議だ。
いつもと違うところにいるあの人はあいかわらずだった。
違う場にいても同じ表情をする彼の姿は幻だったのでしょうか。
ただの偶然なんでしょうけどね。
ちなみに私は彼に恋をしているわけではなく、ただひたすら憧れている人です。
ああいう風になりたい、と。
2003年05月11日(日)

日々ノオト / kica

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