だいありー

2002年08月01日(木) 今日は真面目な日記。「命」について

いつも真面目な日記の筈なんだけど、
今日は凄く重たいテーマを書いてみようかと。
今日は、いつもの「ぱんなっちー」と言わず、
「私」を使おうと思う。

「命」

について。
人によって生死観はさまざまだから、
私の戯言程度に読み流して貰えればいいかな・・・。


時折ここでも書いていた、
同じ食道癌の患者さんだったYさん。
彼が今・・・危ない状態にある。


私にとって、Yさんは特別な存在だった。
去年、私のパパが外科的治療の為に入院した時に
知り合った患者さんだった。

手術後、たびたび危ない目にあっていたYさん。

今回、7/28(日)の夜中に、
肺がまたもや機能しなくなってしまった。
年が明けてからは自力で二酸化炭素を吐けなくなった。
Yさんは一度、昨年10月半ばに呼吸器が取ることが出来た。
術後、2ヶ月もICUで眠らされたままだった。
ヒョロヒョロでも歩行器につかまって歩けたし、
年末には退院が決まっていた。
そしてその退院の早朝、
呼吸器を着ける程に肺が悪くなってしまった。
夜中に先生が呼ばれ、蘇生して貰った。
もしもこれが退院した後だったら、
救急車など間に合わなかったろうと思う。
そして、今年に入って何度もそういう危ない状況に見舞われた。
その度に若い先生が呼び出され、蘇生して貰い、
朝方奥様が駆けつける事があった。
機械の呼吸回数と本人の呼吸回数が合わないからなお苦しいのだ。
Yさんは最近導入した最新の呼吸器を使っている。
まだ先生しか使い方が判らない呼吸器で、
Yさんの担当になった看護婦さんが一生懸命先生に着いて
扱い方を習っていたことを、私は知っている。


Yさんは、去年、私のパパがICUから戻って来て
歩く練習をしていた頃、丁度、七夕の時期だったので、
おりがみで「早く帰れるように」とカエルを、
「早く飛び立てるように」と動く鶴を折って
病室に届けてくれた方だった。
この何気ない心配りが、凄く嬉しかった。
涙が出るほど嬉しかった。
私のパパの手術は先生にとっては大変な手術で、
時間こそ予定内で済んだものの、その後、
2回も手術を受ける状態の患者だった。
何度「もうだめだ」と思った事か。
そんな中のささやかな出来事で、
そしてそれがとても有り難かった。
常に前向きで、患者であるYさんが
泣き崩れる奥様を随分励ましていた。

だから私はYさんをいつも気に掛けていたし、
銀座・・・というより、東京に出る用事があると
必ず病院によってYさんを見舞っていた。
「ぱんなちゃんが来た日から、うちの人、調子が良くなったのよ。」
「ぱんなちゃんが来た翌日に呼吸器取ったのよ。」
「ぱんなちゃんから頂いたプリン、あの人食べたのよ。」
そう言われた事が何度かあって、

ああ、
私が行くと調子が良くなるのなら
いつでも行くよー!
プリン買って行くよー!

そんな思いもあった。
実際は、調子が良くなる時にいつもタイミング良く
私が現れたというだけなんだけど。

このGWに私のパパが肝臓に多発転移した時も、
奥様が自分の事のようにガックリなさって、
私と一緒になって泣いて下さって、ご主人に思いを馳せて
「うちもいつ死ぬか判らない」と言った奥様。
私のパパは余命2ヶ月と病状告知で言われていたから、
私のパパが早く逝くだろうと、正直思っていた。
でも実際は・・・。

私のパパの転移が判ってGW明けてすぐに
抗がん剤治療が始まって、
私はお見舞いで頂いたスイカやメロンや桃を
Yさんの病室(個室)に届けに行った。
仲良く半ぶんこした。
食べやすいようにスイカを小さく切って、
密封式容器に入れて持って行った。

Yさんは呼吸器を喉を切開して着けているから声が出せない。
調子がよい時でも声が出せない。
口パクで「ありがとう。話せなくてごめんね」と
何度Yさん本人から聞いたことだろう。
その時はYさんと同じ病棟だったから、
病室までは歩いて 5歩 のところにあった。
Yさんの個室へは、ビニールのエプロンとマスク無しでは
入れない。 個室だから勝手にズカズカと入っても行けない。

差し入れを持ってチョロチョロとYさんの所へ行く私は、
良く看護婦さんや先生から笑われていた。
会社の帰りにパパの病室に行く時、
いつもドアが開いているYさんの個室の中が見えるから
奥様と芸能人のように、夜なのに「おはよー!」と
手を振りあっていた。
これには全く関りが無い呼吸器(肺)の先生にまで
笑われていた。。。

「食道の外科治療を受けられた患者さんはどういう訳か皆、
 仲がいいんですよ。呼吸器(肺)の患者さんはお互いの
 病室を訪問しあったり、お見舞いに来る事は無いんですよ。
 でも、Yさんとぱんちゃんは仲が本当に良いんですね。」

そう、看護婦さんに言われた。
実際、私や私のママとYさんの奥様は仲が良かった。
同志だった。
そして、同じ食道癌で同じ時期に親しくなった患者さん達もまた、
心配して外来の時は必ず病棟へ上がって来てYさんを見舞った。


私のパパが3回目の抗がん剤治療の為に入院した時は
Yさんは既に状態が悪く、薬で眠らされていた。
起きていると上記に書いたように
機械との呼吸が合わないので本人が苦しむからだ。
良くなったり悪くなったりで半年以上過ぎた。
奥様も、「調子が良くないの」とは言うものの
「状態が悪い」が今までと同じで、また持ち直すと信じていた。
1ヶ月に何度も状態が悪かったり良かったりを繰り返せば
誰も毎回毎回、最悪な事を考えなくなる。
・・・馴れと言うものは恐ろしいものだ。
もちろん、家族と言うものは最悪な事は判っていても
考えたくないものだ。

でも・・・。
7/28の日曜日の朝方、Yさんが今まで以上に具合が悪くなった。
夜中に先生が駆けつけた。今回は若い先生だけじゃない。
主治医から執刀医まで駆けつけてきた。
今は私のパパも病棟が違うので、久しぶりに見舞いに行ったら・・・。
奥様は辛そうにしていた。
日曜なのに、私のパパの執刀医の先生がナースステーションにいた。
Yさんの主治医・執刀医は私の父と同じ先生である。
国立がんセンター中央病院には食道専門の外科の先生は3名しかいない。
主治医となったK先生は、マスコミからも名医と太鼓判を押された
先生だった。 おごらず、自分の患者が常に心配で、毎朝・毎晩、
時間が空くと昼間もベッドサイドに来てくれる先生だ。
そして先生もまた、疲れた顔をしていた。

Yさんに会わせて貰った。
いつものようにビニールのエプロンを着け、マスクをして入室する。
大きな人工呼吸器の他に眠らせるための大きな機械があった。 
口を大きく開け、ステロイドの副作用でほっそりした顔が
パンパンに浮腫んでいた。

13年前に結腸癌で亡くなった、私のおばあちゃんの
最後の顔と同じだった。
私は大声で泣きそうだった。
手を触ると暖かくて、
「お父さん、ぱんなちゃんが来てくれたのよ」
という奥様の声は聞き分けていて、私の手を握ろうとする。
弱々しい手だった。力が入らない手だった。
身体の酸素の数値が73%を指している。
手足も真っ白で、青い血管が透き通って見えるようだった。

今までにも何度となく大変な時期を乗り越えてきたのだから
今回も乗り越えて欲しい。
筆談で「あいつ(奥様)を置いて、俺は死ねない」
「親よりも先に死ぬ事は最大の親不孝だ。だから頑張るんだ」
って私に言ったじゃないか!
約束は守らないといけないんだぞ!


私は人が人でなくなる瞬間を見るのがとても嫌だ。
病院の小児科を回る院内保母を諦めた大きな理由もこれだった。
最愛の人、家族が人でなくなる瞬間を見るのは地獄だ。
家族で看取る事が、本人にとって幸せだと人は言う。
本人は幸せでも、少なくとも私には地獄でしかない。

見たくない。
その場に居合わせたくない。

先生や看護婦さんたちは、もうどれほどの
沢山の人の死を看取ってきたんだろう。
「人を助ける仕事に付きたい」というだけでは
勤まらない職業だと思う。
これほど幸せを感じ、
そしてこれほど残酷な職業はないと思う。
患者さんが元気に退院して行った姿を目にした時
何ともいえない幸せを味わい、その反面、
命の灯火が消える瞬間に立ち会わねばならない辛さは
普通の人ではきっと勤まらないだろうと思う。
しっかりした生死観を持っていないと勤まらないだろう。
でなければ、壊れてしまうと思う。

私の胸にはマザー・テレサの言葉が刺さっている。
「人は路上で死なせてはならない。誰かが看取ってあげなくては」
・・・たまたま耳にした言葉だった。
マザーは凄いと思った。
私は、見も知らぬ人であっても看取る勇気が無い。
きっと、泣き叫んで、自分自身が壊れていくだろう。
そう、弱虫なんだ、いつだって私は。

マザーの突き刺さった言葉は、
今、青い血を噴きながら
更に私の中に食い込んでいくようだ。


 < 過去  INDEX  未来 >


ぱんな(Panna) [MAIL] [BBS]