Sports Enthusiast_1

2002年10月07日(月) K1対プライド

のテレビ放送が週末にあった。なんとなく見ていたけど、あまりおもしろくなかった。勝った選手は、どちらを問わず、体力差という感じがしないでもなかった。
格闘技は体重別が一般的だ。体重別を採用しないのが日本の相撲と「プライド」などの総合格闘技。でも、無差別(ヘビー級)となると、上を制限しようがないので、200キロを超える選手が120キロクラスと戦うことになる。この差は大きい。でも、体重の重い選手が必ずしも勝つとは限らない。それを楽しみにする観客も多い。その確率は高くはないけれど。
余談だが、試合前に「挑発」をして盛り上げる仕掛けが多かったようだが、見苦しい。これを最初にやったのは、カシアスクレイ(モハメドアリ)だった。しかし、アリを攻める気にはなれない。その当時米国における、アフリカ系スポーツ選手の置かれた立場はいまと違うからだ。60年代、アフリカ系スポーツ選手が尊敬を集めることは不可能だった。そういう状況の中で、アリはヒールを積極的に演じたのだ。そのことは差別に対する挑戦という意味もあったと思う。でも、いまは違う。米国におけるアフリカ系スポーツ選手の地位は高くなった。バスケットボールのマイケルジョーダンは「神様」とまで、呼ばれている。
異種格闘技の戦いにおいて、相手をののしる宣伝フィルムを見るたびに、ばかばかしいというか時代錯誤というか、私の趣味には合わない。怨念とか因縁とかいうのは、ショーとしてのプロレスの筋書きの常套だ。
日本柔道とブラジリアン柔術との対決も時代錯誤だ。因縁の発端となったのは、50年も前のこと、柔道王・木村がブラジルでグレーシーに勝ったことらしい。そこから日本柔道とブラジリアン柔術の戦いが今日まで続いているという。だが、その木村は日本で、プロレスの力道山に負けている。これこそ因縁の対決だったようだ。当時のフィルムが断片的に流れるが、ルールなき戦い、多くの観客に見せる内容ではないように思える。
人間同志の肉体的戦いから、暴力性を排除したものが「スポーツ」なのだ。これは格闘技であっても同じこと。格闘技と暴力が同一であってはならない。相手に勝つために闘志が必要であることは認める。闘志と暴力とは紙一重である。が、このわずかな差を越えれば、スポーツでなくなってしまう。スポーツではレギュレーションが決められている以上、選手が暴力性を増せば増すほど、勝てない(のだと私は信じている)。だから、その一線を越えるように仕向ける、試合前の「挑発行為」だけはやめてほしい。


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