日本人は金で解決する事しか考えない

世の中には『身体障害者』と呼ばれる人達が沢山いる。
私はその言葉が差別化を図っているようで嫌いだけど、今回の場合他の言葉で呼ぼうとするととても長くなるので、仕方なくその言葉を使わせて貰うことにする。

身近で不思議に思うのが一つある。
市内の『福祉バス』だ。
自分が『身体障害者』であることの証明章を見せれば、タダ、あるいは半額の100円で乗ることができる。
分からない。これになんの意味があるのだ。
『身体障害者』はそれを望んでいるのだろうか。
確かに誰でも安く乗ることができればそれに越したことはない。
が、『身体障害者』であるからといってたった数百円負けてもらって、それで彼らの為になっていると本気で思っているのだろうか。
私には全く意味の無い行為にしか思えない。

バリアフリーにしたり、車椅子用のトイレを設けたり、名前は忘れたが黄色の凸凹した道しるべのような物を設置したり、駅に音声案内を設置したり・・・。
そういうのはあってもいいだろう。
本当に役に立つように工事なり設置なりするのは大いに結構だ。

が、それと同時に、いや、それ以前にやれる事があるんじゃないだろうか。
教育をすればいいじゃないか。
街角で『身体障害者』に出会ったら手を貸すこと。
どこが悪い人はどういうのが困難だから、どうやって手を貸せばいい。
どういうとき彼らはどうして欲しい。
またどうして貰うと困る。

誰かが好意でやった事が、かえって相手を怖がらせてしまったりするようだ。
助け方が分からないばかりに逆に危ない目に遭わせてしまっては全くの迷惑である。
そういう事が無いように、また、周りの人間が自然と手をかせるような環境になるように、金を使って解決する事ばかりを考えずに、小さい頃からそういうのを授業として取り入れたり、どうしてそういう所に頭が回らないんだろう。

よく小学校の授業の道徳で『身体障害者』について考える時間があった。
しかしあんなものはダメだ。全く役に立たない。意味がない。
そんな事で差別意識がなくなるとでも思っているのだろうか。差別意識は頭で考えて無くなるものではない。
そういう意識をなくさせたかったら、『身体障害者』という言葉自体がなくなるくらい彼らの存在が当たり前に感じられるように、日常的に彼らと付き合わせなくてはいけない。
どんなに上辺っ面ではきれい事を言ってたって、初めて見れば誰だって可愛そうだとか怖いとか気持ち悪いとか近寄りがたいとか、何か感じるだろう。耳の聞こえない人とはコミュニケーションが取りづらくて苛つくだろう。
そんなんで普通に接する事が出来るわけがない。

道具があれば便利だ。だけど、道具だけじゃどうにもならない事もある。
金を使って道路を整備したり、高い金賭けて道具を作ったり、特別に料金を安くしたり、そうやって金で出来ることだけやっても、人間自体が冷たかったり、気にかけても逆に迷惑をかけていたりするのでは何の解決にもなっていない。
『身体障害者』を見かけても、『あ、身体障害者だ』などと思わずに、普通にただ何も感じないで自然と適切な判断で手を貸せるような、そういう人が増えるようにしていけばいいじゃないか。
今のままじゃまず無理。
一人一人に訴えたってらちがあかない。考えてどうこうなる問題じゃないんだから。
福祉が大事だとか訴えてる人達は、金のかかる問題ばかりじゃなくて人間自体が変わるようにはからってくれと訴えた事があるんだろうか。
気軽に手をかせるように、頼めるように、そうなるようにはからってくれと訴えた事があるんだろうか。
日本人は金で解決する事しか考えられないのではないかとたまに思う。
経済大国のなれの果てがこれなのか・・・。


余談。
「身体障害者は自分が障害を持っていることに甘えている」と言う人がよくいる。
私もずっと昔そう思っていたときがあった。
けど、そう言っている自分はそんな事をいえる立場なのか。
確かに甘えている節はある。甘えているように見える。っつーか甘えてんじゃねぇぞコノヤロー。
けど、そう言う意識を持たせてしまっているのは自分たちのせいだ。
彼らを『身体障害者』と呼ぶせいだ。
周りの人間が『障害』を意識しているのに、本人が『意識』しないわけがない。
それでも甘えずにしっかりしている人は、他の人よりもちょっとばかり強かっただけの事だろう。
ああいう事を言っている人に限って自分が『障害者』になったとき甘えるんだよ、絶対。
2001年12月26日(水)

にきにっき / にきーた