日記帳




2009年08月10日(月) 日本の夏、金魚の夏

まほろは、運ばれてきたそれの円周部分だけを切り取って腹の中に収めた後、ほぼ正方形に残った生地を更に小さな四角に切り分け、格子柄のように苺ジャムとバターを塗り分ける、という作業に没頭している。それは、例えば彼女の大好物であるホットケーキを一番美味しく食べるための準備、というよりは、明らかに遊戯に属する作業で、父親としてはここで「食べ物で遊んではいけない」と諭すべきなのかもしれなかったが、しかし彼女の至極真剣な面持ちと手付きは、どこか儀式めいてさえいて、単純な小言で遮ってはいけないような、そんな気もするのだった。

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大丈夫よ、今日は上機嫌だし、昨日だって「パパに会える」って喜んでたもの、と電話口の彼女は事も無げに言った。
しかし、目の前に座る娘の、幼子特有の冷ややかさを纏った顔を伺う限り、その完璧な無表情から「今日は上機嫌」だという高揚や、ましてや「パパに会えると喜んで」いたという兆候を、どうやって読み取ったら良いのだろう、と彼は途方に暮れるのだった。

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あれはいつのことだったか、保育園から帰ってきた妻とまほろを、家のソファで本を読みつつ出迎えた覚えがあるから、きっと失業中だった頃のことだろう。
珍しく憤慨した顔で、スリッパの足音も高く居間へ入ってきた妻は、数歩先を遅れてついてくる娘に、すぐおやつにするから手を洗ってらっしゃい、と首だけを振り向かせて声をかけると、彼女が洗面所の扉の向こうへ姿を消したのを確かめるや否や、今日保育園でね、と早口で話し始めたのだった。
「保育園でね、タイムマシンの話になったらしいの。それで、まほろが落ち込んじゃってね」

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「もし、まほろと同じ年に戻れるなら」
普段、滅多に感情を暴発させたりはしない妻が、内からあふれ出す何ものかを抑えきれないといった風に、細かく声を震わせていた。
「私はいくらだってあの子と仲良くなるわ。唯一無二の親友になって、ずっと傍にいるわ。ずっと守ってみせるわ」
あの子がそう望むなら。

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コシのある細いビニール紐で口を絞った透明な袋の中を、金魚が三匹泳いでいる。二匹は赤、残る一匹は黒の出目金で、良く見ると右の出目が無い。
大人の小指程度の大きさしかない魚たちが漂うその袋を、光にかざしてみたり、氷嚢のように額に乗せてみたり、もう小一時間ほども、まほろは飽きる様子を見せないのだった。

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突然、彼女の手には持ち余る大きさのグラスを両手でつかみ、半分ほど残っていた水を一気に飲み干した。喉が渇いていたのか、それならば何か飲み物を、とメニュー表に伸ばしかけた彼の手を遮るように、まほろは突然ビニール袋の口を開くと、金魚もろとも空になったグラスに注ぎ込んだ。そして、唖然とする彼の目の前に、ぐいっとばかりに突き出す。

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夏の屋台ベスト10、なる番組を見ていたら、急に夏祭りの話が書きたくなってしまったので、保留ファイルの中から引っ張り出してきた断片をいくつか。パーツだけを見ていると、今にもひとつの物語にまとまってくれそうな期待を抱いてしまいます。それがあくまでも淡い幻想に過ぎないにしても。





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