日記帳




2009年11月04日(水) ここはあなたの家

鋼の冷たさが混じる風の吹く午後、友人と連れ立ってある資料館へと出かけた。ちんまりと住宅街に埋もれたその五階建ての建物は、かつて舌鋒の鋭さから柳葉包丁に例えられたこともある評論家が暮らしていた邸宅で、主亡き今は時折訪れる物好きな訪問者(私たちのような、だ)を、拒むでもなく歓迎するでもなく、至極淡々と受け入れ続けている。

入口に受付があるわけでもなく、順路表示の案内板があるわけでもない室内は、玄関先で靴を脱いで上がり込むと、見学者というよりも客人になったような気分をもたらす。招かれざる客でなければ良いけれどね、と友人が軽口を叩く。

一階と二階は、いわば肩慣らしのようなもの、本当に面白いのは三階から上の部屋だね、とは、以前この場所を訪れた別の友人の弁である。確かに、それほど広くもない床面積を、重箱のような形に四つに区切った部屋の中には、何の変哲もない机や椅子、そして飾り棚などが行儀よく並べられていて、別段心に楔を打ち込むような驚きがあるわけでもない。しかし、方々に飾られた小物の数々―古い玩具や鉱石や骨董品や、食器や文房具や装飾品やらが何の脈絡もなく無造作に放り出されている風情には、なにやら宝探しでもしているような高揚感を覚えないでもない。この家は寄せ鍋のようだ、と昼時が近付いて多少空腹を感じ始めた頭で考える。さて、問題の三階から上には、一体なにがあるというのか。

狭い階段を上り切り、細い廊下に片足を乗せた途端、それはやって来た。これほどまでに分かりやすい「不穏な空気」など、これまで肌で感じたことがない。一段階光度の落ちた室内に足を踏み入れれば、そこにある設えは階下と変わらない、しかし存在するものものの気配が明らかに異なっている。なにやら得体の知れない錆びついた金属の塊、何の動物のものとも判別できない毛皮の玉、グロテスクに歪んだ陶器、折れ曲がった人形の足、腐敗して溶けかけたような色合いのランプシェード、そんないわくありげな物たちが、不意打ちのようにそこかしこから顔をのぞかせる。背後で友人が小さく悲鳴を上げたのに驚いて振り返れば、その視線の先にはだらりと垂れ下がる鳥たちの剥製があった。前言は撤回しよう。この家は闇鍋のようだ。

他には見物人などいなかったはずの室内に、ふと人の気配を感じる。警戒しつつ辺りを伺えば、窓枠に腰掛けて釣り糸を垂らす老紳士の姿が目に入った。灰白色の髪に、鮮やかなレモンイエローのシャツが映える。こちらがじっと見つめていることに気付いたのか、彼はゆったりと振り向き、穏やかな笑みを浮かべつつ窓の外を指さした。誘われるように屋外を見遣れば、そこには見事な日本庭園が広がっている。老紳士は、庭を囲むように造られた池で釣りに興じているらしい。どうやら怪しい人物ではなさそうだ、と力を抜きかけた肩を、友人が強く掴む。耳元に口を寄せて囁くには―忘れたのか、ここは三階だよ? それに、あの人は。

いつになく思わしげな表情を浮かべた友人に引っ張られるように、最上階である五階を目指す。そこは、かの評論家が生前収集した文書の保管庫になっており、この資料館の学芸員が常駐する研究室でもある。
妙に近代的なアルミのドアを押し開けると、米粒のような輪郭に胡麻塩をまぶしたような坊主頭の青年がダンボール箱をのぞきこんでいた。
やあ、よくいらっしゃいましたね。彼が言い終わるのも待たずに、友人は素っ気ないほど平坦な声で訊ねていた。あの人に会いましたよ。あなたもお会いになったことがあるんですか?
ええ、時折。青年は平然と答える。でも、とそこで友人は躊躇うように一瞬口を噤んだ。あのひとは、いってしまったんでしょう? それは曖昧な平仮名の発音ではあったものの、そこに当て嵌めるべきなのはごく日常的な「行く」などではないことに、ようやく思い至った。雑誌で、本の見開きで、テレビ番組の画面で、あの面影を認めたことが、確かにある。
あのレモンイエローは、と言いかけて、こちらを見遣った友人は、強張った唇をほんの少し緩めて、からかうような微笑を浮かべた。やっと気付いたみたいだね。そうだよ、さっきのあの人は、この館の元主人だ。
そんなに不思議なことではないでしょう? 軽く首を傾げつつ、青年は諭すような口調で続ける。ここはあの方の家です。自分がいなくなった後、訪れた人たちがこの場所をどんな風に受け止めるのか、気に入ってくれるのかどうなのか、そういったことが気にかかるのは、当然のことではありませんか?

開け放したままのドアの向こうから、パチリ、と小気味よい微かな音が聞こえた。ああ、と青年は表情を和らげる。新しいお客様がいらっしゃったようですね。どうやら、将棋を嗜む方らしい。あの方は殊の外将棋がお好きでしたからね、これから一局始めるおつもりなのでしょう。

***

その後、学芸員の青年となぜか意気投合した私たちは、整理中だったダンボールの中から出てきた『家紋の全て』なる本を肴に、閉館間際まで語り合うことになりました……という夢を見ました。





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