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2003年10月20日(月) 生きるという行為が罪であり罰というなら



許す、とか。
許さない、とか。
そーいうんじゃないでしょ。

「誰かを許す」という行為に相応しい人間なんていない。
誰もが自分で自分が許されていると納得させながら生きている。
誰かに許してもらおうって考えも、誰かを許そうっていう考えも
どっちも高慢で高尚だ。
誰も許されない。
誰も救われないし、誰も救えない。
結局生きていくしかないのだ。

あたしが生きるためにどれだけの人が涙を流し死んだことか。
それでもあたしは弔いの言葉すら捧げられず、ただ、生きている。

誰もが罪も罰も背負って生きてる。
生きるという行為自体が罪であり、罰だ。

あたしはもうすでに罰を受けてる。
罪なら生まれた瞬間から背負ってる。
それでも生きてる。
恐れるものなど何もない。
さらに罪があるのならさらに罰を与えればいい。

ああ、そうか。

この世界はこんなにも矛盾してる。

生きるという行為自体が罰だとしたら
死ぬという行為は「許された」という証か?救いか?
否、それもまた罪であり罰だ。
ほぅら。この世に救いなどない。

でもあたしは生きている。

おいしいお菓子が食べられる。
おいしいゴハンを食べている。
ジュースを飲んでおいしいと思った。

生きるという行為が罪でも罰でも。
いいんだ。
存在しているという事実であたしは救われる。
所詮救いなど自分で見つけて崇めるものだ。
本当の万物共通の救いなどない。
でもあたしは、救われる、自分によって。


あたしは、、、存在していたい。




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