「大きな古時計」は、おじいさんとともに生き、時を刻み、 おじいさんの死とともに役目を終えた時計の物語。 「今はもう動かないその時計」という詞が改めて、 古時計がおじいさんと命を共にしてきたことを強調 しているようです。
ただ、機械は設計仕様さえ適切ならば、機械そのものの 寿命まで動きつづけるものでもあります。 昔のSF小説で、宇宙船に乗る飛行士の心を慰める ためのロボットが飛行士が死んだ後も、正確に 起動しつづけるという話がありました。 目覚めることのない飛行士を起こし、料理を作り、 主の愛した曲を奏でる。 ロボットではありませんが、渋谷駅で帰らぬ主人を 待ちつづけたハチ公もそう。 あるじがなくても定められた通りに動く姿は 忠実であればあるほど哀愁を感じるものです。 定められた行動が「他には何の役にもたたない」 ものであるほど。
大きな古時計はたとえおじいさんが死んでしまっても、 動けばその子供、孫、家の人のために役に立つことは 出来たのですが、あえておじいさんについていった というところでしょうか。 時計にとっては、幸せなのかもしれません。
おじいさんのために、時を刻む古時計、 毎晩10時におじいさんが好きな サラサーテの「ツィゴイネルワイゼン」を奏でる。 ある日おじいさんがなくなった。 それでも時計は時を刻みつづける。 そして今も10時に「ツィゴイネルワイゼン」が響く。 コーヒーを飲みながら穏やかに耳を傾ける おじいさんはもういない。
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