与太郎文庫
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2025年05月17日(土) |
わたしの書誌目録 〜 My Bibliography 〜 |
http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/day?id=87518&pg=19540915 書誌目録 〜 from My Bibliography 〜 http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/search?idst=87518&key=%BD%F1%BB%EF%CC%DC%CF%BF …… 約 4,870,000 件の結果 グローバル Web アイコン https://note.com › tatatatatah 自宅本棚の図書館化 Part2:「蔵書目録」を作ろうの会 Web ページ関連の画像 20220330 蔵書目録というと、普通は 書名・著 者名・出版年・出版社 あたりは最低限入れておくものと思う。だが、 今回は「書名」オンリーでいきます。理由は 大変だから。 … グローバル Web アイコン moralist.jp | 清水真木のブログです。 https://moralist.jp › organizing-private-library …… 書庫の整理と蔵書目録作成:3万冊への挑戦 20241026 今年にな ってから、自宅の書庫にある本を整理して蔵書目録を作り始めました。 現在、膨大な数の本が乱雑に詰め込まれており、書庫の現状はカオスで す。当然、全部で何冊の本があるのか、数えたことはなく、また、数え ることもできません。 グローバル Web アイコン Yahoo知恵袋 https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp › qa › question_detail 読書家の人は、自宅に何冊くらい書籍を保持しているもんなの ... 20120518 蔵書が1万冊にもなったら、管理などできるものではなく、 「再読したい本は、探すより買ったほうが早い」という状況になる。 「ナナメ読みしただけの本のほうが多い」 https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1087567150 老若ふたりの音楽評論家 〜 Two music critics, young and old 〜 あるとき、音楽評論家を自称する老人に招かれ、雑談したが、地方紙 の隅に、カッコつきで書かれていただけで、著作も論評も知らなかった。 後日、新人ピアニストのコンチェルトに誘われて同席したが、閉演後 「つまらん!」と言われただけで、話が続かなかった。 廊下とんびに紛れて、いちおう有名な評論家に出会ったので、こんど レコード店を開きました、と告げると「名刺を」と求められた。周囲の 観客からみれば、先生のファンが表敬している風に見えるはずだ。 そこで評論家が、尊大な手つきで無造作に受取り、ポケットに収めた。 ある種の人たちは、時には誰もが人前で自己の存在を誇示することに 異常な熱意を示す、ハイテンション症状に襲われることもあるらしい。 https://tx696ditjpdl.blog.fc2.com/blog-entry-1952.html GATO 〜 また逢う日まで 〜 https://q.hatena.ne.jp/1740391340#a1283484 〔book〕 0517 引用は隠喩か暗喩か 〜 Is the quotation metaphor or allusion? 〜 はてな、知恵袋、教えてgoo ! などのQ&Aサイトで、長々しい持論 はそぐわない。かといって、ありきたりの決まり文句も曲がない。 そこで、やや意外な視点を思いだし、探しだして、核心に迫ってみる。 ただし、こういう趣向を、こころよく思わないユーザーも少なくない。 さらに言えば、自分と同じような発想を、ごく当たり前に答えろという。 つまり、当り前の質問に、当り前に答えるべきだと考える人々である。 たとえば「いまの会社では、上司に認められないので、転職したい」 という相談に、会ったこともない他人が、どこまで親身になれるのか? あるいは、似たような経験を語っても、どれほど参考にできるのか? 与太郎の過去回答は、自分の経験を述べ、他人の結果を予想した上で 質問者が結論を降すように、こころがけてきた。しかるに、あまりにも 年齢・経験・現状が異なるので、まったく参考にならないのが実情だ。 むしろ、与太郎は、こうした条件の違いに関わらず、他人は他人で、 自分は自分と割切った発想の比較検証が、あんがい必要だと考える。 八百屋だって魚を、魚屋だって野菜を食って生きるのが世間なのだ。 …… ある日の午前に日比谷近く帝国ホテルの窓下を通った物売りの呼 び声が、丁度偶然そのときそこに泊り合わせていた楽聖クライスラーの 作曲のテーマになったという話があったようである。自分の怪しう物狂 おしいこの一篇の放言がもしやそれと似たような役に・・・ https://www.aozora.gr.jp/cards/000042/files/43257_17197.html ── 寺田 寅彦《徒然草の鑑賞 193401‥ 文学 全集第七巻 19970605 岩波書店》 〔book〕 0517 ── クライスラー/新田 潤・訳《塹壕の四週間 119230101 噴泉堂 1937‥‥ 竹村書房》 http://booklog.jp/users/awalibrary/archives/1/B0093T7K4S (20190911)(20250517) ── クライスラー/伊藤 氏貴・訳《塹壕の四週間 あるヴァイオリニストの従軍記 20210805 鳥影社》 http://booklog.jp/users/awalibrary/archives/1/4862659004 Four weeks in the Trenches, Houghton Mifflin Harcourt 1915 Digital Archive Terada, Torahiko 18781128 東京 19351231 57 /筆名=吉村 冬彦 Beethoven, Ludwig van 17701216 Duitch 18270326 56 /“楽聖” Kreisler, Fritz 18750202 Wien America 19620129 88 /1950 引退 >> …… クライスラーは演奏旅行先にある歴史ある図書館などで埋もれて いた作品を発掘し、それを演奏会にかけることを楽しみにしていた。そ の埋もれた作品をそのまま演奏するのみならず、作品の旋律のごく一部 を自作に取り入れ、その自作をしばしば「過去の(忘れられた)作曲家 の作品を『再発見』した」と称して演奏・出版した。ある時、その演奏 を聴いた評論家が「作品はすばらしいが、演奏は大したことがない」と 斬って捨てた。それを聞いたクライスラーは激怒し(クライスラーは、 評論家の批判に対しては滅多に怒らなかったようであるが、この時は逆 鱗に触れる部分があったらしい)、抗議の手紙を評論家に送った。 1935年頃、その手紙を入手した『ニューヨーク・タイムズ』の音楽担 当記者が、「編曲」と銘打っているのに原曲が世に出てこないことを疑 問に思い、当時ウィーンに戻っていたクライスラーにそのことを尋ねて 証拠品の提出を求めた。すると、クライスラーはあっさりと「○×作曲 ・クライスラー編曲」とある曲はほぼ自作であることを認めたばかりで なく、どの曲のどの部分をどう・どれだけ引用し、どの部分が自分の作 曲であるか事細かく答えた。そして、事に及んだ理由として「自作ばか りじゃ聴衆が飽きるし、また自分の名前が冠せられた作品だと他のヴァ イオリニストが演奏しにくいだろう? だから、他人の名前を借りたのさ」 と答えた。 この爆弾発言は1935年2月8日の『ニューヨーク・タイムズ』で公表さ れ[1]、一大センセーションを巻き起こした。「クライスラーは、騙す 気はなかったとしても30数年もの間音楽業界と聴衆を小馬鹿にしていた」 と当時はそのことを問題視する向きもあったようであるが、クライスラー によってフランス・バロック音楽やヴィヴァルディの再発見のきっかけ が作られた事実もまた否めない。「他のヴァイオリニストが演奏しにく い」点に関しては、完全にクライスラーの杞憂に終わり、その後は世界 のヴァイオリニストの定番レパートリーとなっている。なお、クライス ラーの「編曲」のうち、問題になったのはあくまでバロック期などの作 品(を騙った作品)であり、古典派・ロマン派以降のものは純粋な編曲 である。 他にはオーマンディが、「ラフマニノフの《交響的舞曲》のオーケス トラ・ヴァージョンで、弦楽器の運弓(ボウイング)指定をクライスラー が行ったことをラフマニノフ自身に自慢された」との証言を残している。 来日 クライスラーはただ一度、1923年5月に来日している。日本では以前 よりビクターレコードの赤盤によって人気が沸騰しており、クライスラー より少し前に来日していたウィリー・ブルメスター(格式ではクライス ラーより劣ることはなかった)の公演が、知名度の低さもあいまって霞 んでしまうほどであった[2]。帝国劇場で行われたリサイタルではベー トーヴェン、ブラームス、J.S.バッハ、ブルッフなどの大曲から「編曲」 ものまで多種多様なプログラムを組み、耳が肥え始めた日本の聴衆を唸 らせた。 永井 荷風は、その日記「断腸亭日乗」に、5月5日の帝国劇場での 演奏会を聴いた旨、記述している。 クライスラーはこの来日の際に、関東大震災の前触れとも言うべき地 震に遭遇している。5月6日のこととされているが、公演後も引き続き観 光で滞在中だったブルメスターも遭遇しており、「私の幸運の星を信じ る」と回顧している(この「幸運」が、果たして災厄から逃れたことに 対するものか、稀有の経験に遭遇したことを指すのかは、はっきりした ことが分からない)。なお、帰国の際にはそのブルメスターと一緒にア メリカ行きの船に乗っている。 この頃、すでに出演料などの面ではハイフェッツ(同年9月に来日予 定も関東大震災で11月に繰り下げて来日)に抜かれていたクライスラー ではあったが、当時の日本ではハイフェッツよりもクライスラーの方が リサイタルの入場料は高く、クライスラーより前に来日したミッシャ・ エルマンやエフレム・ジンバリストと同格であった。 1923年に来日したヴァイオリニストの特等席の料金(金額は当時) ※当時の大卒の初任給は50円前後 クライスラー:15円 ブルメスター: 7円 ハイフェッツ:10円 もっとも、ハイフェッツのリサイタルは大震災直後のこともあり、 「特等、一等…」とする通常の区分けではなかったので、通常の特等席 料金とは別個に考える必要はある。 << ┌┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┐ ↓=Non-display><↑=Non-display └┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┘ YMDay(20250517)last up dated.
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