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2008年03月26日(水) |
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腐海 |
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C1の混雑が嘘のように、横羽線は空いていた。 通勤ラッシュが一息ついた直後だからだろう。
今まさに逢魔時。 垂れ込める雲はほんの一滴水を含ませただけで、今にも崩れ落ちそうだ。
鈴ヶ森、平和島。 左手に広がる羽田空港の大仰な、それでいて点滅しない夜景は、70年代に流行ったピンボールの台を思わせる。
浜川崎を越えた辺りで空気の臭いが変わった。 工場の吐く息とでも言えばいいのだろうか? 金属や溶剤や燃料、様々な無機物が放つ臭気の混じりあった空気。
以前付き合ってた彫金家の女は、金属の発酵する匂いだと言っていた。
「無機質なのに醸されちゃってるの。」
まるでウィリアム・ギブソンの小説だね。
女がきょとんとした顔をしたので、古典だよ、と付け加えたのを憶えてる。
また臭いが変わる。 コレはすぐわかる。 酵母の発酵する臭いだ。 高速の右側にはキリンの工場がある。 常々アルコールに弱いドライバーは大丈夫なのかと心配になる。
大黒線には入らず横浜公園を目指す。 みなとみらいの近未来的な夜景がジオラマの様展開する。 近未来は常に近未来で現在との距離が縮まることはない。 みなとみらいは10年前から近未来で10年後もたぶん近未来なままだろう。
遠雷で雲が一瞬発光する。 ついにバイザーに雨粒が落ちる。 まるで夜の雫だ。 墨汁のように黒い染みとなり、僕を侵食しそうだ。
金属が発酵し甘苦しい匂いを撒き散らし、果汁のような重たい雲がじっとりと夜の街を湿らす。 寝苦しい熱帯の夜より尚濃厚な腐敗の夜。
横浜の夜はまるで、貴腐ワインの海だね。 甘く、ねっとりとしていて、上等。 酔うことは簡単。
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2008年03月25日(火) |
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tripper |
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路肩にバイクを停める。 目の前にはまだワックスの乾き切ってない911が、真横になって一車線の道を塞いでいる。
「大丈夫?」
バイクを降りヘルメットを外しながら近づく。 ハンドルに顔を伏せていた女が恐る恐る頭を上げた。
「どうしよう。怒られる。パパに。」
口元に笑いを浮かべてる女を眺め、あぁ本気で怖かったのだな、と思う。 人は本当に追い込まれると泣いたり喚いたりするよりむしろ笑ってしまうものだ。
「保険ならたんまりかけてるよ。それよりさ、車から降りた方がいい。」
女はのろのろと車を降りる。エアバックも作動しないような事故だが万が一もある。 まだ若い女だった。ひらひらのワンピースもピカピカのヒールもアップにまとめた髪も綺麗に飾ったネイルも何もかも新しい。
「警察呼ぶ前にさ、ピンヒールは履き替えておいた方がいいと思うよ。」
女はまだ口に笑いを貼り付けたまま頷く。口元が強張ばって上手く言葉が出ない。
「・・・謝恩会、始まっちゃう。」
きっと今日は大学か何かの卒業式だったのだろう。 謝恩会の会場に911で乗り付けるため一度家に帰り着替えて出たのかもしれない。
「もしかしてさ。初心者マークも貼っておいたほうがいいじゃない?」
路肩に女と並んで腰を下ろす。 別に親切心ではなくこの横になった911の先に僕の行きたい場所があるのだ。
女は警察と父親に電話をした。 電波が良くないらしく何度も同じ言葉を繰り返す。
「何でこんなことになっちゃったんだろう。」
女はため息をつきながら呟く。 大粒の涙が浮かび、見る間に頬を伝わる。
「怪我なくて良かったじゃん。車も見たところ大したことないし。」
「これから大学の謝恩会なんです。今日でもう会えない人とかいるのに・・・。」
女は下を向いたままワンピースの裾のほつれをいじりながら答える。
「別に人跳ねたわけじゃないしすぐ済むさ。車も全然平気だよ?」
女は震え声で言う。
「・・・もう運転できません。怖い。」
謝恩会の会場は熊谷市内の式場だった。 結局バイクに女を乗せ会場に運んだ。
女はヘルメットを返して深々と礼をした。 二、三当たり障りのないことを話してからバイクのエンジンをかけた。 せっかくセットした髪はヘルメットでだいぶ潰れてしまったが、そのことにはお互い触れなかった。
バイクで県道を戻りながら考える。 女の電話番号はおろか名前も聞いてない。 飯くらい奢ってもらうべきだったのだろう。が、女子大の謝恩会の会場で飯でもと言われても、それはそれで困るのはこっちだ。
はっきりしているは、今日の予定が殆どクリアできなかったってことだけだろう。
秩父三十四箇所巡礼。 始めた日にこれじゃ先が思いやられる。
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