『Number』といえば、日本では数少ないスポーツ専門誌として知られている。日本のスポーツジャーナリズムはスポーツ新聞が主流。新聞の紙面づくりを見ると、大きな見出し、センセーショナルな記事が中心で、しかも、紙面が芸能スキャンダルと混在していて、スポーツの専門的分析記事はない。あるいは、野球の人気球団の広報紙として機能しているものも多く、記事内容は大本営発表か新聞辞令といわれる人事に偏向している。ファンクラブの機関紙みたいなものだ。大きなカラーの見出しばかりで、内容はきわめて薄い。 そんななか、『Number』は、純粋なスポーツ専門誌としての特色を出してきた。今月の特集は日本サッカー。早速買ってみた。記事はジーコジャパンの評価が中心で、Kキャプテンがジーコ監督の評価についてコメントしている。もちろん結論を述べたわけではないのだが、Kキャプテンの発言内容から勝手に類推するならば、ジーコ監督の去就はまな板に乗ったと私は読んだ。つまり、結論は出ていないけれど、ことあらば解任も近いうちにあり得ると。 特集のなかでもっとも面白かったのは、市原のオシム監督に係るもの。市原の中心選手が、オシムの監督としての手腕を高く評価している。やはり、この監督の力量は私が見込んだとおりだった。具体的な指摘については、この雑誌を読んでください。その一方、オシム監督がマスコミ取材に対して極めて慎重であることを初めて知った。「オシム語録」が出てくる経緯を詳しく知りたいものだ。オシム監督に会って話をしたいものだ。 さて、この雑誌の全体の印象を言えば、「オシム特集」をやったらいい、と思うくらい、オシムに係る記事以外は面白くなかった。ジーコ監督の切り方に鋭さがない。批判すればいい、というのではない。両論併記もしくは、支持者、批判者それぞれの熱い論が読みたかった。特にジーコ支持者の支持の根拠を展開する論理がどれも弱い。 実は『Number』を購入して読んだのは今回が初めて。これまでは、立ち読み専門だった。すわって読んだ印象としては、巨大出版社のエリート編集者が何時間も編集会議を開いてつくった文芸誌のような感じ。「出版エリート臭」が滲み出ていて、つまらない。スポーツはやる方(選手)にも、指導する方(監督等)にも、見せる方(興行師=協会)にも、欲望や嫉妬が渦巻いているのが普通だ。カネ、自己顕示欲、見栄、妬み等々のいわばダーティーな部分だ。そこがスポーツの「面白さ」の原点の1つではないか。 この雑誌の限界は、たぶん、このダーティーさを避けているところだ。スポーツは美しい、健全だ、選手は純粋だ…こうしたスポーツへの盲目的信仰が編集ポリシーなのか。今回、1つだけ色物として、代表監督の人脈を戯画化した読み物があったが、それはそれとして、選手や指導者や協会幹部の欲望を認識したうえで、あえて「美しいスポーツ」に復帰するのであれば、リアリティーが出てくるのではないか。 アスリートは美しい、スポーツは純粋だ、では、それはこの雑誌に従事する編集者の錯覚と自己陶酔でしかない。
| 2003年12月25日(木) |
サッカー、最近の話題から |
(その1―中田の移籍問題) 中田がボローニァに移籍するらしい。ペール―ジャ、ローマ、パルマときてボローニァというのは、中田の商品価値の下落を意味するのか、それとも来シーズンへの飛躍の足がかりとするための過渡的措置なのか、確言はなかなか難しい。移籍の主因がパルマの経営危機なのか、中田の選手としての力量の問題なのかも判断しにくい。ただ、パルマが消滅するわけではないのだから、中田のパルマに占める位置というのが絶対的なものでなかったことだけは確かである。中田の飛躍の時代は終わり、これからはよくて現状維持、悪ければセリエAから脱落する可能性も否定できない。プレミア、リーガエスパニヨール、ブンデスリーガからの勧誘の噂は管見の限りないと思う。 否定的な見方もある一方、中田はパルマ以外ならば、セリエAの中心選手として、まだまだやっていける、という意見もある。肯定的な見方を成立させるためにも、移籍が望ましい。中田はジャパンマネーを集める広告塔としての機能ももっている。商品価値はまだまだあるだろう。 (その2―ブラジル選手権) ブラジルリーグはクルゼイロの優勝で幕を閉じた。クルゼイロの監督はルシェンブルコ、そして、2位サントスの監督はレオン。2人は、昨年、日韓W杯に向けチームづくりの途中にあった、ブラジル代表監督を解任された者同士。解任された2人の監督がブラジル選手権の1位、2位というのだから、2人とも、解任の汚名を挽回したと見るべきだろう(W杯でブラジル代表を率いたのは、フェリペで、いま、ユーロ04のホスト国・ポルトガルの代表監督)。 クルゼイロ、サントスの2チームには、若手の有望選手が育っている。ブラジルのクラブは、育てた若手を欧州の各リーグに輸出して、クラブ維持の財源とする。優秀な監督は名伯楽であり、ビッグマネーを生み出すエンジニアのようなものだ。才能のある若手がいても、チームで活躍しなければ価値を生まない。 若手に切り替えるか、実績ある選手で戦うか――監督の見極めというのは重要だ。実績のある選手を下ろしてチームの成績が悪ければ、責任は監督にある。一方、ベテラン中心ならば、成績の悪化の責任は選手に転嫁できる。監督批判が起こりにくい。サッカーに限らないけれど、選手の切り替え時がスムースなところほど、安定して上位をキープする確率が高い。選手を育てるか補強するかしか、チームづくりの方策はない。 ところで、クルゼイロには、かつて横浜フリューゲルスで活躍したジーニョがいる。まだまだ、ブラジルで第一線で活躍しているのだから、すごい。ジーニョは、すでに30代後半を超えたのではないか。 若手、ベテランを問わず、日本選手が実力で欧州クラブから声がかかるのは、まだまだ時間がかかりそう。中田、小野に次いで、実力で欧州でレギュラーになれる選手は・・・ (その3―Jリーグ改革) Jリーグは、2年後、1シーズン制に移行する。望まれた改革である。Vゴール廃止、1シーズン制と、これまでこのコラムで力説してきたことが着実に実行に移されてきている。Vゴール廃止により、Jリーグは確実におもしろくなったし、クラブの力も上がってきた。 また、現行16チームから18チームに増えるらしい。が、1シーズン制・18チームで2チームの入れ替えでは少ない。3チームの入れ替えが望ましい。とにかく、これで真の優勝者がどこなのか、はっきるする。これまで、前期を捨てて後期に賭ける、いわゆる「鹿島方式」が通用しなくなるのだ。 白熱したJリーグに、五輪とW杯アジア予選が加わることにより、04年は日本サッカー界にとってバラエティーに富んだ1年になりそうだ。W杯開催を経て、日本のサッカーもようやく、普通の国のサッカーになってきた。残された課題は、もちろん、最大の課題の1つ、いうまでもなく、弱体化した日本代表の建て直しである。
経営再建が決まったサッカーJ1の神戸が、新監督にハシェック氏を就任させるというニュースをみた。いい人選である。おおいに期待がもてる。ハシェック氏は現役選手として広島・市原でプレーしたと思う。出身はチェコ(スロバキア)である。現役時代から知性派として知られ、将来、指導者として有望視されていた。 チェコのサッカーはいまではスピードがあり、当たりも強いとされているが、むかし、プラハをホームとするチェコ一番の強豪クラブは、プラハの狭い路地を通すといわれるほど、上手なパスまわしを得意とするプレースタイルが売り物だった。余談だが、プラハは中世の面影を残す美しい街で、路地も多いが、「百塔の街」と呼ばれるほど高い塔が多い。 そんなチェコのサッカースタイルは、日本人に合っている。バルカンにもテクニシャンが多いが、チェコもそれに劣らない。ハシェック氏のサッカー理論はおそらく、日本人に理解されやすいだろうし、ハシェック氏がJリーグでプレーした経験がプラスに働くと思う。 新しい監督としては、浦和に就任したブッフバルト氏がいる。ブッフバルト氏も現役選手として浦和でプレーした。こちらの指導者としての力量はわからないが、現役時代、浦和サポーターの心をつかんだ選手であることは間違いない。そのプレーぶりは堅実で重厚であった。浦和の2トップをどう生かすかというよりも、エメルソンがいなくても負けないチームをどうつくるかが課題となる。 というわけで、ハシェック氏、ブッフバルト氏という新しい頭脳がJリーグにやってくる。二人には、実績を残したオシム、ネルシーニョ、アウディレス(復帰)の3監督に続いてほしい。少なくとも、この二人の指導者の就任は日本サッカー界にプラスであって、マイナスではない。日本人監督の岡田氏を含め、指導者たちの指導方法、チーム作りにも興味が尽きない。 私見では、C大阪、清水の2チームは、監督次第で順位がもっと上がる。クラブ運営者は、いい指導者を探す努力をしてほしい。
大晦日の曙vsB.サップのルールが決定した。3分3ラウンドのK1ルールらしい。高度な試合を期待する人は少ないと思うけれど、このルールなら、見る必要はない。総合ルールでやってもらいたかった。曙の体力が持たないのだろうか。K1ルールというが、どちらもK1は素人である。膝に故障があるといわれる曙のキックなど、期待するほうが無理。パンチもおそらく、オープンブロウなどで有効打は少ないだろう。サップもK1ではミルコ、ボンヤンスキーに惨敗している、巨漢同士という以外、見るべきものはない。 しかし、素人同士といえども、200�舛鯆兇┐訖祐屬�殴り合い・蹴り合いをするというのは、そうそう見られるものではない。スポーツすなわち技術のレベルではなく、怖いもの見たさみたいな興味は尽きない。そこがイベントとしての面白さではある。 曙の魅力は、とにかく、曙がリングに上がることである。試合展開など関係がない。国際式ボクシングならば、ライセンステストがある。プロテストに合格しなければ、リングに上がれない。4回戦、6回戦を経験してメーンイベンターに上り詰めるのが普通だ。ところが、K1にはそんな制度がない。素人がいきなりのメーンイベント。大晦日のテレビを使って全国中継するコンテンツなのだろうか。 総合格闘技ならば、この制度はいらない。出場者それぞれは、異なる格闘技において、経験を持ったもの同士。彼らが最低限のレギュレーションの下で力を競うわけだから、プロであることは前提以外の何者でもない。曙、サップは、相撲、フットボールの経験者。総合ならば、レギュレーションがないに等しいのだから、双方の高度な格闘技の展開が期待できた。 K1はキックボクシングである。格闘技のなかでも制限の厳しい競技に入る。それだけ、キックボクシングという固有の技術が要求されるものだ。K1は、ここのところ魔娑斗、アビディの二人が国際式世界チャンピオンを撃破し、強いイメージを与えてきた。ところが、ここで、曙vsサップ戦というキワモノの登場である。これでは、K1がスポーツであることを、自ら否定してしまったようなものだ。残念なマッチメークをしたものだ。
今朝のA新聞を読んだ人は多いと思う。スポーツ欄に、サッカー日本代表の今年一年、とりわけ、ジーコ監督をめぐる評価が、記者座談会形式で載っていた。それによると、ジーコ監督を評価する意見(をもつ記者)と、全く評価しない意見(をもつ記者)が、それぞれの記者の発言という形式で、両論併記されていた。 評価する意見とは、日本のサッカーマスコミがジーコ氏監督就任以来展開してきた論理、すなわち、選手の自主性、創造性を重視する指導方法が日本代表をワンランク上にステップアップさせるというもの。私はこの評価を、ジーコ氏監督就任以来ずっと、批判の対象としてきた。一方、ジーコ氏批判の論点を端的に言えば、選手にすべて「丸投げ」で、監督としての仕事をしていないというもの。こちらは私の主張にほぼ等しい。 なぜ、A新聞の記事を紹介したのかといえば、このコラムでしばらく前に書いたけれど、日本サッカー協会はA新聞と一体だからだ。もちろんその背景には、A新聞vsY新聞の「新聞戦争」がある。Y新聞は日本のプロサッカー(Jリーグが開始されて間もなくだが)をプロ野球の「巨人型」に再編しようと試みた。ところが、当時のチェアマン(いまのKキャプテン)に阻止された。プロ野球における巨人中心主義は、サッカーの地域密着理念に反する――というのがKチェアマン(当時)の主張であり、それを全面的に支持したのがY新聞と競争関係にあるA新聞だった。だから、A新聞は、サッカー協会がY新聞の圧力に抗するプレズンスというわけだ。A新聞がサッカー協会に与える影響というのは、尋常ではない。A新聞が「ノー」と書けば、おそらく、代表監督のクビが飛ぶ。そのA新聞がジーコ監督の評価を両論併記したということは、ジーコ氏のクビはまだ、半分つながっていることになる。まだ、半分もつながっているのか――というのが私の見方だが、それでも、一年かけてクビの半分が身体から離れたということは、大きな変化なのだ。つい1年前までは、A新聞はジーコ監督が前面に押し出した自主性・創造性を礼賛・讃美していたからだ。そのときの新聞記事などもちろん手元にないけれど、私の記憶によれば、A新聞は、ジーコ氏の指導理念が日本代表をトルシエ時代から全く新しい地平に飛躍させる――というような意味のことを書いたのだ。換言すれば、トルシエ=組織=強制的=子ども扱い、ジーコ=自主性=自由で創造的=大人扱い――となる。この図式がいまだに、日本サッカ―界を呪縛している。 だが、A新聞は、少なくともほぼ1年近くの学習期間を経て、ジーコ氏の指導理念の半分を疑うに至った。しかし、残り半分、「ジーコ信仰」を捨てきれていない。この分で行けば、残り半分を疑うまで、あと1年はかかる。A新聞がジーコ監督のクビを切るのは、2004年の暮れということか(笑)。あと1年、「神様」を信じるというわけだ。ま、それはそれで仕方がない。 ただ、ジーコ擁護もしくはジーコ讃美の論拠が、「やるのは選手なのだから」というのであれば、これほど残念なことはない。スポーツにおける指導者無用論、監督不要論など成立の仕様がないではないか。選手も監督も必要なのだ。 日韓W杯後、韓国チームを率いてベスト4に導いたヒディング氏が、韓国国民から多大な尊敬を集めた。韓国国民は、選手はもちろん、選手と同じくらい、いや選手以上にヒディング監督を評価した。ヒディング監督の指導なくして、韓国代表のベスト4はなかったと確信しているが故だ。このことは、韓国国民のスポーツ理解の方が、スポーツの本質を見抜いているという一点において、日本国民よりも上質であることを意味している。日本人は、W杯ベスト16の成果を、中田・稲本・鈴木・・・(の活躍)という個々の選手に還元してしまった。日本人選手もついに、世界レベルに達したと。この錯覚とジーコ氏の「日本サッカー大人論」は微妙に影響し合いつつ、「やるのは選手だ」という日本人のサッカー観をつくりあげている。「大人」という表現は、日韓W杯出場の日本代表が「トルシエ・チルドレン」と呼ばれたことに起因する。ジーコ氏は、前代表監督をことあるごとに批判してきた。ついでに、「チルドレン」を逆手に取って・・・というわけだ。日本のサッカー関係者、マスコミ、そしてサポーターは、ジーコ氏のトルシエ批判に酔い、そこから大きな勘違いが始まり、それがいまのいままで続いている。 この一年間、サッカー日本代表をめぐる評価については、深く長い迷路に喩えて余りある。
| 2003年12月18日(木) |
ボカの勝利がACミランを苦しめる |
トヨタカップに敗れたACミランには、散々な結果が待ち受けていた。PK戦をめぐって、チームに内紛が勃発したらしい。これまで欧州最高という評価を受けていたクラブが、一挙に二流・三流の評価になってしまった。勝てば官軍の喩えのとおり、敗者には厳しい批判が待ち受けていた。 ミラン選手のウェッブサイトのコメントなどを読むと、彼らはこの一戦に最悪に近いコンディションで臨んだことがわかる。 プロスポーツの世界では、「プロなのだから」という言葉が多用されるけれど、プロだから何でもやれというのも困ったものだ。プロなんだから、言い訳はしないけれど、それでも・・・と、ACミランの選手達は言いたいに違いない。勝ったボカは疲れも忘れ、いまごろ「世界一」の美酒に酔っている。南米の選手はたとえトヨタカップに負けても失うものは少ない。ボカの選手の最高年俸は3,000万円に満たないらしいが、契約金と合わせるとその20倍近いミランの選手が負けたのだ。彼らが負けて、失うものはあまりにも大きい。 年俸だけがサッカーの実力を反映するわけではないが、ボカは有力選手が欧州に引き抜かれた後のチーム。欧州からの出戻組、若手、欧州からオッファーのなかった選手で構成されている。ボカを率いて名将の誉れ高いビアンチ監督もセリエAのローマの監督に就任したことがあるが、1シーズンで解任されている。監督も含めて出戻りなのだ。 さて、トヨタカップをホーム&アウエーで行ったとしてシミュレーションするとどうなるか。まず、イタリアではACミランの勝利は固い。ミランの鉄壁の守備、シェフチエンコを使った速攻が生きて1−0くらいのスコアでミランが勝つ。ブエノスアイレスではどうなるか。ミランのベテランDF陣ががんばってボカの攻撃を封じ込める可能性が高い。 でも、結果などどうでもいい。勝負は時の運、いくらミランに年俸の高い選手が多いといっても、サッカーでは何が起こるかわからない。ただ、いずれかの試合で、いずれかのチームのベストに近いパフォーマンスが見られることが重要だ。 一方、将棋ではないけれど、どちらかのチームの「受け」の強さも見られる。将棋には「指しきり」という決着がある。一方の棋士が敢然と攻めに出て、先手を取りつづける。ところが、攻めが切れて、追い詰められたかのように見えた棋士が勝つ。素人が見れば、圧倒的優勢に見えた棋士が駒を投げる。そんなシーンを見て、唖然とさせられることがある。 サッカーも同じようなものだ。ホームチームが攻めに攻めながら得点を奪えず、残り15分ほどでアウエーに得点を許して負けてしまう。あるいは、序盤でセットプレーでアウエーが1点をとり、そのままタイムアップ。ボンボネラのミランとボカの試合がそのような展開になるかどうかわらないけれど、ホーム&アウエーにおいては、そうした展開が少なくない。それもまた、サッカー。実に深みのある試合展開ではないか。日本で行われるトヨタカップには、そんな展開は期待できない。
| 2003年12月15日(月) |
トヨタカップ日本開催には意味がない |
退屈だった、眠くてしかたがなかった。遠路はるばるやってきたACミランのベテラン達は、後半になると動きが鈍る。若さでミランより元気があるボカも、爆発的な動きがなく、ミランDFを崩せない。前半に双方1点ずつ取り合った後は延々100分近く、ダラダラしたサッカーが続いた。ボクシングに喩えれば、双方がカウンターを狙ってにらみ合ったまま時間がすぎ、接近戦かと思うとクリンチでもつれるという展開に近い。中立国開催の1本勝負では、勝負にこだわってリスクを取れない。ショーケースの中に入れられた暴れん坊たちが、よそ行きのサッカーをみせた。 そもそも、この決定戦は横浜(日本人)のものではなく、ブエノスアイレスのボカ地区住民とミラノ市民のもの――この晴れ舞台を見る資格があるのは、2つのクラブを支えたサポーターたちだけだ。日本人はテレビで見るか、どうしても生で見たければ、航空運賃を負担してブエノスアイレスかミラノに出かけるべきだろう。 私は、東京のテベス(ボカ)は別人だとこのコラムで以前予想したけれど、別人以外の何者でもなかった。先発を外れたのは、ケガ、体調不良が原因だが、出場した後半30分からゲームセットまで、ボンボネラだったら、もっと鋭い動きを見せただろう。 ミランのスーパースター達、とりわけ、シェフチェンコ、カカの動きが悪い。コンディションが悪いとしか思えない。過密スケジュールのなか、はるばる東京までやってくる意味が彼らには発見できないのだろう。あるいは、動きたくても動けないのかもしれない。 結果はPK戦でボカが勝った。南米勢が一矢を報いた結果だが、この勝利に重い意味を見出すことは不可能に近い。日本人だって、どちらを応援したらいいのかわからない。観客のいないサッカーはサッカーではない――とよくいわれるが、有名なクラブの高い技術が見られる日本人は幸せだという論理は、サッカー専門家のものであって、サポーターの論理ではない。日本にもボカやミランのサポーターがいることは否定しないが、その数は、横浜マリノスより多いはずがない。 せっかく南米と欧州のチャンピオン同士が戦うのだ。スポーツでなく、冠イベントとして割り切るのは、あまりにも辛い。中止は簡単だけど、続けるならば、ホーム&アウエーに戻すべきだろう。
U20の世界大会で、日本はベスト4進出を逃した。予選ではイングランド、エジプトに勝ちコロンビアに負け、決勝Tでは、韓国に勝ちブラジルに負けた。 負けた南米2チームには大敗を屈している。活字報道だけで試合を見ていないが、南米の2チームに大敗したのは、日本と南米のサッカー環境の違いだろう。たとえば、ブラジルリーグで上位で健闘しているサントスのロビーニョ、ジエゴがリベルタドーレス杯で活躍した年齢は18、19だったし、あの大会で優勝して、いまトヨタカップで来日しているボカジュニオ―ルのテベスもそのくらいだ。つまり、南米では20歳以下でも第一線で活躍している選手がたくさんいる。日本でもぼちぼちと、Jリーグで活躍している選手が出てきたが、その数は少ない。20歳以下は、Jリーグ・高校生・大学生と、組織的にも分散している。 日本ではU20→五輪→W杯という段階がイメージされているが、南米には、そのような段階はない。良い選手ならすぐリーグ戦で活躍し、U20だろうがフル代表だろうが、かかわりなく呼ばれる。トヨタカップがあれば、テベスのように、U20世界大会など無視してしまう。より自分が注目されるステージを、活躍の場に選ぶのだ。 さて、天皇杯ではJリーグ完全制覇の横浜が市立舟橋高校に90分どころか120分でも勝てなかった(PK戦で横浜が勝利)。市立舟橋は後半退場者を出したにもかかわらず、それでも互角にプロと渡り合った。PK戦でやっと勝った横浜は、サポーターから大ブーイングを浴び、負けた市立舟橋には健闘を称える大歓声が送られた。当然の光景である。後半は高校生のほうがいいプレーをした。 市立船橋には、カレンロバート、田中といった、才能のある選手が目に付いた。ところが、この高校生達はU20に選ばれていない。 サッカーには、適齢期などない。遅咲き早咲きは個人の資質である。日本では、ハイスクールベースボールが支持される伝統があり、サッカーにもその傾向が定着しつつあるが、私は好ましいとは思わない。高校など行くな、というわけではないが、サッカーで世界を目指すのなら、早くクラブで活躍したほうがいい。高校生を世界大会を含めた遠征には連れていきにくい。本人が自分にあった道を、うまく選択をしてくれることを望む。サッカーでは、若さが武器になることも少なくない。
いまさら、サッカーW杯の価値を問い直しても何も始まらないけれど、W杯に一元化されたサッカー観というものを好ましいいとは思っていない。W杯出場は悲願ではあるけれど、出場できないことも覚悟しなければいけない。日韓大会には、オランダもチェコもこなかった。予選突破に最善を尽くすにしても、そのためだけに、イレギュラーな制度を設けたり、特定の選手を特別扱いする時代ではない。もちろん、予選で勝てなければ、責任をとらなければいけないが、サッカーというスポーツは、W杯だけがおもしろいわけではない。 前回のコラムでは、欧州・南米ではクラブと代表の関係がかなり拮抗しており、両者に上下関係がないことを、やや大げさに書いてみた。私の考えが日本のサッカーファンに受け入れられる余地はないけれど、いまの日本代表とクラブの関係のあり方には、危険を感じている。 サッカーはチームで行うスポーツでありながら、代表というのは、即席の寄せ集め集団にすぎない。だから、代表の試合のレベルが、サッカーというスポーツにおいて、最高水準を示すわけではない。つまり、代表の試合がつねに、最高のパフォーマンスだと思ってはいけない。もちろん、日韓大会の韓国vsイタリア、同じくポルトガルといった試合は熱戦ではあったけれど。 W杯の予選は、各国リーグ戦の合間に行われる。いま、サッカーほどグローバル化が進んだスポーツはない。そうした状況のなか、幸いにも、サッカーファンは<リーグ戦>、W杯地域予選等の<代表戦>の2つを楽しむことができる。サッカーファンというのは、全スポーツ中、最も恵まれた存在なのだ。世界レベルのクラブ対抗戦、加えて、欧州選手権・アジア選手権・南米選手権といった代表による地域戦と、お腹いっぱい、おいしい料理を楽しむことができる。 だが、選手は人間であり故障や調子の波に襲われる。すべての試合に全力で挑めば、つぶれてしまうのがサッカー界の現実だ。欧州にいった中田、中村、高原が活躍できていないが、彼らの不調の原因をたびたびの欧州〜日本の往復だと断言する根拠はないが、しかし、不調の一因だと私は考えている。 こうした世界サッカーを取り巻く環境変化により、代表のチームづくりにおいては、特別なノウハウが必要となっている。たとえば、短期間にチームのコンビネーションを醸成する力、選手選考の力、短期間で敵を知る力・・・などが挙げられる。これらは、通常のサッカーチームが必要とする能力とは別のものだ。たとえば、この秋、ジーコ代表監督が「固定メンバー」と言い出したとき、私は世界の趨勢と違うなと直感した。日本のサッカー選手が海外に散らばりだした時代、南米や欧州に近づいたいま、「固定メンバー」というよりも、いかに短期間に寄せ集め集団を1つのチームとして束ねるかではないのか。あるいは、固定メンバーを組むことが難しい前提で、代表チームの底上げを図る道筋を探るべきではないのかと。 W杯予選開始までのあいだ、親善試合、タイトルのかかった公式戦など、代表の力を試す試合が何試合組まれているのかを知らない。ただ、大雑把に言えば、その時々に合った、試合の位置付けが必要だろう。ジグザグ路線、行きつ戻りつでは、成果は少なかろう。 冠大会をスポンサーに売るためには、目玉選手が必要なのはわかる。このことは、日本のサッカーファンの未成熟さを示すものではあるが、顔見世興業でいいのかどうか。日本のサッカーファンがW杯の興奮を引きずりたい気持ちもわかるけれど、それならば、親善試合用に緩和された選手交代枠を十二分に活用すべきだった。親善試合に勝たなければクビが飛ぶのが日本代表監督の既定路線ならば、ジーコ監督のクビが今日現在あることのほうが不思議だ。日本の協会は負ければすぐ、監督のクビを切るほど単純ではない。 細かいことでいえば、代表戦で先発メンバーを事前に公表するやり方も納得できない。短期間でチームとして束ねるには、選手同士がライバル関係にあることが前提だ。海外組だって、合同合宿で調整ができていなければベンチスタートのほうがいい。海外組=特別扱いも愚かだ。なんども書くけれど、海外でベンチの選手よりも、Jリーグで活躍した選手を先発にしたほうがいい。特定の選手にチャンスを与えるよりも、調子のいい選手をどんどん使うべきだ。 代表の試合には興奮があり緊張があるといわれる。本当にそうなのか。代表サポーターやマスコミがそう、思い込んでいるだけではないのか。私には親善試合で国家が演奏され、フラッシュがたかれ、代表選手が居並ぶ姿を見ても、確かにその光景はいつか見たものではあるけれど、長旅に疲れ時差ぼけで、しかも、中心選手が抜けた海外の代表チームをみて落胆し、緊張のないダラダラ試合を見て辟易する。 そんな試合よりも、東アジア選手権で、日本と香港の選手同士がつかみ合うシーンを見て興奮する。Jリーグの横浜やFC東京、市原の全力プレーに心の中で拍手を送っている。サッカーは取っ組み合いではないけれど、モチベーションの高い試合でなければ、見るに値しない。 国と国が戦うことだけに意義を見つけるのは、スポーツの本質から外れる。だから、日本代表に対する整然とした応援風景も好きではない。サポーター個々にそれぞれ、おもしろい場面があるはずだろう。もちろん、ゴールは共通だけれど。
| 2003年12月11日(木) |
代表チームづくりの理想 |
ある新聞報道によると、昨年の日韓W杯開催が決まったとき、韓国は代表メンバーによる、かなり長期の合宿を実施したらしい。実施時期、期間、参加メンバー数等の詳細は不明。ただ、「おや」と思ったのは、参加選手がリーグ戦を免除されたという箇所だった。リーグ戦免除ということは、欧州・南米ではまず、考えられない。かりに、レアルマドリードのラウルが代表合宿でリーグ戦を休んだら、マドリードで暴動が起こるだろう。 日本は韓国とともにW杯の共同開催国だったが、韓国のような方式をとらなかった。トルシエは、グローバルスタンダードに従い、リーグ戦で活躍した選手を代表に選ぶと選手に伝えた。代表候補は代表メンバーに選ばれることを励みにして、Jリーグで戦った。 結果については、韓国がベスト4、日本はベスト16にとどまった。韓国が長期合宿を実施しチーム力を高めたのは、韓国の国内事情や、北との対抗上そのような代表チームづくりの伝統があったからだ。冷戦時代、韓国代表選手は、あらゆる特権を与えられた一方で、北に勝つことを義務づけられていた。 日韓大会で韓国チームがイタリア、スペインといった欧州の強豪を破ったのは、特殊なチームづくりの成果といえる。開催国には予選がないため、エリート集団を純粋培養するかのような代表チームをつくれないことはない。 韓国ほどではないが、日本にも代表を頂点に戴くサッカー風土がある。代表戦ならば親善試合でも数万人を集めるが、スペインでクラシコと呼ばれるようなクラブの対抗戦で盛り上がることはない。同じ都市におけるダービーマッチも、それほどではない。 一方の南米には、リベルタドーレス杯が権威をもっていて、欧州のナンバーワンクラブと戦うトヨタカップへの関心は高い。今年、ブラジルのサントスは、リベルタドーレスの予選を優先して、コンフェデ杯への選手参加を拒んだ。 では、欧州、南米がW杯に関心がないのかといえば、そんなことはない。ただ、韓国や日本のように、代表に一元化されていないだけだ。日韓が1つの中心しか持たない円ならば、欧州・南米はクラブと代表の2つの焦点によって描かれる楕円のようなものだ。どちらも重要であるが、一方に偏ることがない。楕円はそれなりに、美しい図形である。 しかも、代表戦という一方の焦点にたったときでさえ、代表戦ならなんでもいい、というわけではない。先述したように、コンフェデ杯程度では、クラブ上位が揺らぐことがない。 私は、サッカーにおいて、日韓のように代表チームがサポーターに偏愛される傾向を望まない。日本サッカーが楕円構造に早く、近づくことを願っている。だから、代表選手は流動的であってかまわない。固定メンバーによる韓国方式は、おそらく、サッカーの底上げや地域密着の理想の妨げになる。また、予選を通じて世界の代表が覇を競うW杯のあり方からして、反則とはいわないが、韓国方式は世界で通用しなくなっている。クラブは、リーグ戦中に中心選手を抜かれたらたまらない。 ドイツは06年の開催国だが、ブンデスリーガや欧州各国にちらばったドイツ人選手をリーグ開催中に呼び集めることはないだろう。そんなことをしなくても、ドイツはホームの利で優勝するチャンスが十二分にある。リーグ戦も楽しみ、代表戦も楽しむ−−そういうサッカー観戦に彼らは慣れている。 代表チームが世界の頂点に上り詰めるよりも、地域の代表が世界を制覇するという構図の方が、欧州の王朝の歴史にかなっているようにも見える。たとえば、ハプスブルク帝国を築いたハプスブルク家は、ドイツ(スイス)の寒村の豪族の1つにすぎなかった。さらに遡って、神聖ローマ帝国のオットー一世もフランク族の一豪族にすぎなかった。そう考えれば、近代国家の「代表」は、クラブよりも歴史がないのである。
| 2003年12月10日(水) |
浦和の田中を選んでおけば・・・ |
東アジア選手権、日本はホームでありながら、優勝を逃した。最終試合の韓国戦、開始早々に大久保がイエローカード二枚で退場処分、10人で善戦したものの、得点に至らなかった。結果論としては、香港戦で追加点が奪えなかったことが最後まで響いた形だが、それにしても、韓国戦に退場者を出して引分けという結果は、厳しい日程のなか、故障を押して頑張った三都主、久保、小笠原の攻撃陣、3試合を完封した、宮本、楢崎、坪井らの守備陣には無念さが残るだろう。とくに3試合をゼロに抑えたDF、GKは割り切れない思いだろう。 気になるのは、代表監督の勝ち運のなさ。DF陣が完封しながら、攻撃陣のシュートがことごとくポストに阻まれる、ライバル韓国が元気がないのに、退場者を出して勝ちきれない・・・。根拠のないことで礼を失するが、いまの代表監督は、勝負運を持っていないのではと心配してしまう。いやはや、勝負の世界、そういう星の下の選手、監督というのがいないわけではない。 さて、韓国戦は評価の難しい試合だ。 (1)問題の大久保 この選手が退場させられたことに驚く人はいない。Jリーグで最も退場が多い選手だ。ハンド、ラフプレー等の反則、審判への抗議、シミュレーション・・・と、およそ、スポーツマンらしくない。大久保が才能をもちながらプロとして成長できなかった原因は、�―蠡哀�ラブのセレッソ大阪に、彼を指導できる監督・コーチがいないこと、��大久保を代表に召集しながら、彼のリーグ戦におけるプレーを代表指導者が修正できなかったこと、�K椰佑�サッカーを勘違いしていること――だ。とりわけ、プロチームにありながら、この若い選手を指導しきれなかったクラブの責任は重い。と同時に、これほど問題を抱えた選手を代表に呼び、軌道修正できなかった代表の指導者も問題だ。二枚目のイエローカードは誤審だ、という人もいるかもしれないが、李下に冠を正さず――正々堂々力いっぱいプレーしているかそうでないかは、アジアの審判にもわかる。弁明の余地はない。来季のJリーグで大久保のプレースタイルが改まらなければ、彼を二度と代表に呼んではいけない。 その大久保と心中とまで新聞に揶揄されたのが、ジーコ監督。ここまで点が取れなかった大久保だったが、ジーコ監督は彼に期待を込めて起用し続けた。結果、最も大事な試合に裏目と出た。これもジーコ氏の勝負運のなさの表れとも解釈できるが、浦和の田中という選択肢はなかったのだろうか。田中は代表に選ばれていない。大久保か田中か・・・ ユーロ予選、W杯南米予選などの世界各国の代表試合を見ると、若い選手の起用にみな積極的だ。18才は、世界ではフル代表年齢として通用している。今の時期、20才前後の選手が本番で22〜23才となれば、伸び盛りの選手に成長する。逆にいま27〜28才の選手は30代で下り坂。この時期、五輪代表、U20・・・と世代別に代表選手を固定する方法を考え直す必要がある。両方かけもちで、経験を積ませる手もなくはない。 (2)藤田の起用 後半、オランダから急遽帰国した藤田が起用されたが、成果につながらなかった。走力、切れがない、ボールを触る回数が少ない、意外性がない――調整不足だろう。 藤田を呼び戻す必要があったのかどうか。というよりも、代表戦には、調子のいい選手を使ってほしい。特に10人で戦う非常事態で重要なのは、運動量だろう。運動量が豊富で守備も堅実な選手を交代で出すべきだ。藤田はコンディションがよければ適材だが、どうもそうではなさそうだった。 (3)代表選考 どうしても私はいまの代表の選手選考が納得できない。この問題は長くなるので、次回、詳しく書くつもりだ。
市原の阿部勇樹がオランダ(フェイエノールト)と契約するらしい。この選手は私も買っている。東アジア選手権で代表に選ばれながら、ジーコ代表監督が先発で使わなかったことをこのコラムで批判したばかりだ。ジーコ代表監督の目は節穴だ。まったく選手を見る目がない。阿部は若いが、FWのチェ・ヨンス、MFの羽生、坂本、村井と並んで、市原のJリーグでの躍進を支えた。阿部はオシム市原監督が育てた優等生の一人ともいえる。阿部を代表に選びながら先発で使わないのは、ジーコ代表監督の数ある失態のうちの1つだ。 さて、報道によると、東アジア選手権で編成した日本代表の主力が、ことごとく故障しているという。香港戦で先発を外れた中沢(横浜)、途中交代した小笠原(鹿島)――もともと故障しているが。香港戦で途中出場した奥(横浜)、ここまで頑張ってきた三都主(清水)も悪いらしい。本山(鹿島)も怪我が完治していないまま代表に呼ばれた。 それぞれの怪我の状況は、外部の人間にはわからない。しかし、これでは、ジーコ代表監督は怪我人ばかりを招集した、と言われても仕方がない。海外組が不在のこの大会、Jリーグのメンバーで代表を構成しなければいけないことは、前からわかっていたことだ。もちろん、怪我人の予想はできないが、これまでの親善試合で、「固定メンバー」に無用にこだわったツケがまわってきた。親善試合などに無理に海外組を召集せず、Jリーグで活躍している若くて運動量豊富な選手を代表に呼び、実戦テストをしておけばよかったのだ。そうすれば、選手層は確実に厚くなっていた。 ジーコ代表監督の大会の乗り切り方にも問題が多い。手ごわいと思った中国戦を2−0で楽勝した日本。2戦目は香港だ。結果的には苦戦したが、それは結果論であって、乗り切り方としては、香港戦は、故障の重い選手は休ませるべきゲームなのだ。 わからないのは、もともと怪我の小笠原と奥(私は小笠原の故障は知っていたが、奥の故障は知らなかった)の二人を選んでいること。小笠原は中国戦、90分フル出場した。私は前のコラムで、小笠原を奥に代えるべきだと書いた。小笠原の後半の動きが落ちたからだ。2−0で楽勝に近いあの試合、怪我の小笠原のフル出場は無意味だし、香港戦の先発も見合わせるべきなのだ。 東アジア選手権は、中2日の強行日程。コンフェデ杯のときにも書いたけれど、ターンオーバーを使うべきなのだ。そもそも、東アジア選手権は、強行日程に対応するため、登録選手数を増やすという特別のレギュレーションを採用したはずだ。監督は、こうした緩和された制度をうまく利用しなければいけない。やっぱり、ジーコ氏は素人監督だ。
| 2003年12月08日(月) |
敵は気候か、それとも・・・ |
06年W杯ドイツ大会1次予選の組合せが決まった。日本は、インド、オマーン、シンガポール。どの3国も日本より実力で劣る。国際経験も少ないし、海外で活躍する選手を知らない。ホームならば大差で勝てるだろう。 だが、最大の敵となるのは、3国それぞれの厳しい気候だ。インド、シンガポールは観光で訪れたことがある。乾季と呼ばれ、比較的すごしやすいのが11月〜2月ころと記憶しているが、たとえば、インドは広大な国土を誇る。試合がどこで行われるかわからない。仮に雨季の北インドで試合が行われたとしたら、日本は危ない。まず、行ってすぐならば、身体がいうことをきかない。いくら鍛え上げたプロ集団の日本代表チームといえども、インドのアウエーはきつい。シンガポールも同じようなものだ。中東のオマーンはどうであろうか。日本代表は先回予選免除であったため、アウエーの予選の厳しさを体験している選手が少ない。アウエーの予選試合経験者は、現在の代表の中では、中田一人ではないか。 報道によると、アウエーでは、試合前から選手に重圧がかかるらしい。周りは敵ばかり。歓迎されることはない。試合中でなくとも、日本選手にはブーイングが浴びせられる。ピッチ状態も悪いところが多い。審判のホーム優位の判定は覚悟しなければならない。これはお互いさまだが。食事、外出といった練習以外の生活も言語の壁があり、不自由を強いられる。そこに、厳しい気候が加わり、選手を疲労させる。結果、本番で走り負けることが十分、予測される。 もちろん、対抗策はある。まず、一言で言えば、「タフ」な選手をそろえることだ。海外でも精神的・肉体的に負けない強さをもった選手、海外経験が豊富な選手、スタミナがあり走力のある選手・・・いろいろな適性が考えられる。もちろん、そのすべてを満たすことは不可能だが、複数を満たす選手であれば、その選手は代表に近づく資格がある。たとえば、海外経験が皆無であっても、走力があり、相手に競り負けない強さを持った選手ならば、海外経験豊富でもアジアの風土に適応性を欠く選手よりは、代表に向いている。 代表サッカーは風土の戦いだ。風土というのは通時的(歴史性)かつ通態的(地域性)な同一性のこと。代表チームは異なる風土を背負って戦う。だから、ホームが優位なのだ。日本代表に厳しさが足りないのは、日本的風土の特性だ。 CATVには、リーベルのサポーターが、監督退陣を求め気勢を上げているシーンが映し出されている。宿敵ボカに2−0でホームで完敗したようだ。「頑張ったのだから、負けてもいいよ」、というサポーターはブエノスアイレス(アルゼンチン)にはいない。憎きボカに完敗した以上、監督の責任を問うのが、ここでは普通のことなのだ。 日本は、東アジア選手権で韓国と優勝を争うことになった。韓国は日本のライバルだ。ここで日本が負ければ、監督の責任を問うことが普通だ。タイトルを賭けた試合で勝負の責任を問わないのならば、プロではなくサークル活動にすぎない。サッカーはスポーツであって、日本代表が演じるイベント興業ではない。神様だろうが仏様だろうが、過去にどんな実績がある選手だろうがへぼだろうが、監督としての責任を問うのがスポーツマスコミ、サポーター、協会幹部の仕事だ。
サッカー東アジア選手権・日本vs香港は、日本が1−0で辛勝。日本の得点はPKだった。香港の強い当たりと執念深い守備にてこずって、日本はフィニッシュが決まらない。勝てたことは幸運だった。 この試合の日本の攻撃は、前半は左サイドに偏りすぎ。右サイドハーフの山田が守備の意識が強すぎて鋭く前を目指さないため、3―5―2のメリットが出ない。左サイドハーフのサントスは水を得た魚のごとく活躍したが、左右の揺さぶりにダイナミズムを欠き、形をつくりながら得点できなかった。 この試合では、香港の健闘が光った。世界的な選手がいなくとも、チームとして意思統一し激しく食い下がれば、サッカーではそうかんたんに点を取られない。少ないチャンスを生かせば、勝つこともあり得る。これが公式戦の厳しさだ。日本と香港の前に行われた韓国vs中国では乱闘があった。日本vs香港の試合でも、久保が香港選手と小競り合いを起こしイエローをもらっている。親善試合では絶対にお目にかかれない光景だろう。乱闘がいいとはいわないが、真剣勝負をすれば、そういうシーンも起こり得る。 強豪に立ち向かう時、香港代表ができて日本代表ができないのが、この闘志を前面に出した試合運びだ。日本代表は、何度も書くことだけれど、自分達がうまいと錯覚して格上チームとの試合において、頭からぶつかる姿勢に欠ける。闘志を剥き出しにして、運動量を増やし強い当たりで相手をかく乱することができない。それができれば、チームの力は徐々に上がるし、見るものに感動を与えることができる。真剣勝負は、こうした国際的な公式戦、リーグ戦、カップ戦で経験できるのであって、親善試合ではだめだ。厳しい試合を重ねて、強い当たりで相手を揺さぶり、相手からの強い当たりに耐える訓練を積むことだ。親善試合では、こうした訓練はできない。 さて、日本代表は香港に足元を救われることは、どうにか回避できたが、次の韓国の当たりは香港よりはるかに強い。優勝がかかり、しかも、東アジアの王者というプライドをかけた、時差ぼけのない世界的な強豪との試合だ。おそらく、コンフェデ以上の圧力となろう。ホームだが、親善試合とは違う重圧があろう。この条件でジーコジャパンの真価が問われる。 見所は、ジーコ監督の指導力だ。選手のモチベーション、闘争心をどこまで高めることができるのか。代表監督の仕事は、選手選考・チーム戦術・戦略の立案だけではない。選手の心をいかにコントロール(言葉は悪いが、マインドコントロールである)し、一つのチームとして束ねるか。それができなければ、厳しく長いW杯予選の過程で、チームとしての挫折を経験してしまう。たとえば、中心選手を怪我で欠いて、弱いと思われている相手から勝点3を奪えないことなどが想定される。選手はマスコミ報道などによって混乱し、激しい精神的動揺がチーム内に生じるだろう。そんなとき、チームを立て直すのは、選手のマインドをコントロールする監督のマンパワーだ。私は、ジーコ氏にはそうしたマンパワーがないと推測している。勝負師としての度胸、勝負勘、駆け引きなどの能力も含めて、ジーコ氏には代表監督の資質がない。何度も書くように、ジーコ氏は、テクニカルディレクターとか選手団長のような役職が向いている。 香港戦、勝てなければ代表監督更迭と書いたけれど、辛うじての勝利を見て、ますます、ジーコ監督更迭の時期が遅すぎたことを確信している。 なお、FIFAランキングでは、香港は日本よりはるかに下だが、そもそも日本のランキングはバブルである。ホームの親善試合の勝利で上がったものにすぎない。香港戦で明らかなように、日本の実力は私の見方では、50位前後だ。しかも、50位が100位とやって勝つ確率は高いが、勝てないことある。1996年アトランタ五輪において、日本がブラジルに勝った、「マイアミの奇跡」を忘れてはいけない。
東アジア選手権初戦、日本代表は久保の2得点で中国を圧倒した。前半は小笠原がねばって久保を使い、後半は途中出場の本山が判断よく久保を使い、受けた久保が冷静に得点に結びつけた。途中、シュートがポストに当たる一発を含め、この試合で最も目立ったのは久保だった。 しかし、試合を支配できた要因は、日本代表各選手が共通のイメージを描き、各選手同士が自然にネットワーク(=規律)を築けたことだ。実況アナ氏が図らずも言ったように、このチームは、見るものに安心感を与える。この安心感、安定をもたらせた核心こそがシステム=手馴れた3―5−2だ。「手馴れた」という表現は適切でないな、3―5―2が海外組、Jリーグ組を問わず、日本代表に最も合ったシステムなのだ。 3―5―2の最大の利点は、常々私が主張してきたように、三都主の才能・能力を生かせることだ。三都主がゴールに近いところでボールを持てばそれだけで、相手に脅威を与えることができる。4―4―2の左SBでは、三都主の脅威は半減どこではすまない。三都主がサイドハーフに復帰して、やっと、彼のスピード、テクニック、破壊力が生きる。 試合の流れを大雑把に再現してみよう。前半早々、中国DFがサイドに引っ張られ小笠原がフリーになり、小笠原からのラストパスで中国は失点を食らう。それを受けて中国は選手交代で小笠原にマンマークをつける。中国のこの作戦は成功し、日本は小笠原が機能しなくなって、中国に押される時間が続く。ところが、日本が打開策を見つける。解説のK氏がいち早く上手に解説してくれたので、打開策はテレビ観戦でも理解できた。中国は小笠原に専用DFをつけて小笠原をつぶしたのだが、結果、最終ラインが薄くなり、日本のFWが、スルーパス、もしくは浮き球で、ゴール付近で勝負できるようになる。GKと最終ラインの間(裏)、DFの前、サイドライン沿いといったスペースだ。日本の中盤から、そのスペースにボールが配球され、日本FWがゴール近くで中国DFと一対一になるシーンが続出する。その結果が2点目であり、ほかにも、2度ほど決定的チャンスがあった。 さて、この勝利は相手が中国だから上げられたという見方もあろう。アジアのレベルだから勝てたと。しかし、海外組の「黄金の中盤」で、中国から2点とれたかどうかは疑問だ。もっと取れたという見方もあろうが、私には、「黄金の中盤」よりもJリーグ中心の代表チームのほうが、チーム力としては上だと解釈している。 勝ったけれど、私はジーコ采配に疑問だ。まず選手起用だが、ボランチの福西、右サイドハーフの山田(浦和)が疑問符。石川、阿部の若手だろう。公式戦の経験を積ませるという意味で、若手起用の絶好の機会。もう一つは指令塔・小笠原について。この試合、彼のいい面も出たが、もの足りなさもあった。2点リードで、運動量豊富な奥(横浜)の投入もあった。おっと、ジーコ監督の哲学は、「勝っているときは動かない」か。それは、度胸がないだけであって、「哲学」とは言わない。
| 2003年12月03日(水) |
ベテラン選手に辛い季節 |
Jリーグの日程が世界標準に外れていることは、このコラムで何度も書いた。さらに、リーグ日程終了後、契約更改が行われることにより、日本で最大の規模を誇るカップ戦(天皇杯)に出場する選手のモチベーションにも影響することがはっきりした。つまり、リーグ戦終了とともに、クラブ側は契約更改をしない選手にその旨通告をする。 ところがである、契約更改しない選手が、そのクラブの下で天皇杯に出場する。最後のご奉公と張り切るか、契約打ち切りを宣告したクラブの下での全力プレーをためらうか、あるいは、新しい契約先決定のための就職活動として張り切るか――素人の私には、そんな選択肢が思い浮かぶのだが、はたして選手の気持ちはどのようなものなのだろうか。かつて横浜フリューゲルスが、クラブ廃止決定後の天皇杯で優勝したことを思い出した。あれは??? いま現在、秋田、相馬(いずれも鹿島)、中西(市原)、森安、小村(仙台)といった元日本代表選手が、現在のクラブから「契約更新なし」を通告されている。彼らはベテランである。実績もあるが給料も高い。給料の割には働きは悪いというわけか。しかし、クラブの発展に尽くした功労者も多い。であるから、「更新なし」よりは、「減額」の話し合いがあってもいいと思う。若い選手が実力で彼らを追い抜くための壁のような存在だ。たとえば、鹿島の秋田選手の場合、年俸8000万円だと仮定して、来シーズン5000万円でどうか、という打診があってもいい。秋田選手がそれでも鹿島に残りたければ残ればいいし、ほかに5000万円を上回るクラブがあればそちらと契約したらいい。なぜ、いきなり、「契約更新なし」と通告されるのだろうか。チームの若返りとはよく言われる。だが、年齢が若くなるから強くなるとは言えない。たとえば、チーム戦術に合わないとか、監督にとって指導理念を伝えにくい存在であるとか、もっともな理由があれば仕方がないが、いまのJリーグのクラブでは、ベテラン選手にいきなり解雇がやってくるのが不思議だ。選手には、いままでの自分は何であったのか、自分ががんばってきた思いが踏みにじられたような気がするに違いない。 クラブ経営者の選手の扱いは、まるで消耗品だ。クラブは地域社会と一体的なもののはず。秋田氏が地元に密着した存在だったことはたびたび報道されている。そんな秋田氏を、「生涯鹿島」と位置付け、引退まで選手として残し、引退後は指導者として残す道は考えられないのか。秋田氏にその価値がない、ということか。部外者の私には、秋田氏は選手としても指導者としても、十分、優秀な人材のようにみえる。彼の闘志あふれるプレーは若手の手本にならないはずがない。そんな秋田氏を簡単に切るクラブ――鹿島を私は好きになれない。 秋田氏を必要とするクラブは少なくないだろう。秋田氏と契約したクラブは、きっと大きなメリットを得るはずだ。秋田氏も鹿島にリベンジしてほしい。鹿島との試合が遺恨試合になるくらいの・・・
| 2003年12月02日(火) |
トルシエに戻ってしまった |
きょうの報道によると、サッカー日本代表は3バックに戻して、三都主を左のサイドハーフに戻すという。なーんだ、ジーコ監督はあんなに批判していたトルシエに戻ったのか。海外組がいないから、というのがその理由らしい。ジーコ監督が日本代表で最も期待する中村俊輔はケガでリタイア。中田、小野は欧州にとどまる。中村のケガはどうやら重症で、復帰には時間がかかりそう。海外組で構成する「黄金の中盤」など、一場の夢に終わった。W杯アジア予選を控えてもっとも重要な時期に、欧州組なしでアジア勢と日本代表が戦うという現実は、ジーコ監督が力説していた固定メンバー構想も崩壊させてしまった。ジーコ監督が掲げる、「黄金の中盤」「固定メンバー」がなぜ、「戦いの本質」として機能しないのかといえば、代表チームというものがもともと流動性の高い組織であることを知らないからだ。「戦いの本質」はタレントの寄せ集めからは生まれない。監督は、代表選手(=タレント集団)の中からその組み合わせを何パターンかを想定し、それぞれの適性に合った戦い方を頭に描く。パターンを越えて普遍的なテーマがあれば、それについて、名前を付けてもいい。たとえば、「フラットスリー」とか。しかし、「フラットスリー」はすべての局面で機能するとは限らない。相手あってのサッカーなのだから、フラットなDFラインを破る戦略を相手はとってくるだろう。それにはそれなりの対応が必要なのだ。しかし、浅いDFラインを敷いて中盤で強いプレスをかけて相手ボールを奪って速攻をしかけるという戦略は、どの相手に対しても普遍的に機能する。 相手が日本代表より実力があり、スピードのある相手ならば、中盤に速くて強い選手を起用しての、ディフェンシィブな戦い方が必要だろう。そのときには、代表メンバーはそうした適性をもったタレントでの戦闘を強いられる。日韓W杯のとき、ベスト8決定戦の相手はトルコだった。トルコは予選で戦ったベルギー、ロシア、チュニジアよりもはるかに、スピードのある強いチームだった。そこで日本代表に必要なタレントといえば、三都主だった。 本番では、代表選手は総数23人。GK3人を除けば、フィールドは各ポジション2人。たったそれだけの選択肢しかない。それまでの間、どれだけのチームをつくることが可能なのか。 いま、ジーコ監督が3バックに戻して三都主をサイドハーフで使おうとしていることは、「トルシエ」に戻ったことを象徴している。ということは、いまの日本代表は、02年のトルシエジャパン以上の力を持っていない。 いま、03年が終了しようとしている。日韓W杯から1年半が過ぎたのだ。この間に日本代表がやったことといえば、気合の入らない数試合の親善試合だけだった。選手も監督も緊張感に欠け、勝てなくても監督は選手を怒らない。1年半でふやけきった代表を鍛え直す時間は、はたしてあるのだろうか。
| 2003年12月01日(月) |
チェアマンってこの程度なの? |
Jリーグは、後期も横浜が制して完全優勝。この結果について、Jリーグの鈴木昌チェアマンは29日、こんなコメントを出したらしい。 「昨年の磐田に続く横浜Mの前後期完全優勝で、年間王者を決めるチャンピオンシップが2年連続でなくなったことを受け「(チャンピオンシップの)スポンサーに申し訳ない。見直しということも出てくるかもしれない」 あれれれ。現行の2ステージ制の改革は当然だが、それは日本サッカーの技術向上、選手育成、ファンによりエキサイティングなリーグ戦を提供するため、ということが理由だろうが。冠イベントを買ってくれるスポンサーのためではないだろうが。 鈴木チェアマンの頭の中には、サッカーというスポーツの本質が欠落している、自分たちが、愚かでお粗末な「チャンピオンシップ」なる冠イベントをスポンサーに売りつけていたことの反省の「は」の字もない。 チャンピオンシップの見直しについては、私はこのコラムで何度も書いてきた。前後期制度では、真のチャンピオンがどこだかわからない。選手、スタッフが真からしびれる優勝決定戦を体験するためには、長い年間の戦いを必要とする。最終節まで1位をキープしたチームが、最後の試合で下位チームの守備的戦いでゴールを割れずに順位を逆転される・・・といった場景を想像するだけで楽しいではないか。1シーズン制度にすれば、年間順位などというややこしい断りに煩わされないで、優勝と降格が一気に決定するのである。リーグ戦は誠にスリリングなものとなろう。 市原のオシム監督は、サッカーを人生に喩えることが多いという。オシム監督のコメントは「オシム語録」と呼ばれ、選手ばかりか、それを読む者に人生について考えさせないことがない。 長いリーグ戦の結末に、選手はまさに己の人生を読み取るだろう、サポーターは己の人生を重ね合わせ、あるいは、これから先の己の人生を予感することだろう。それがサッカーである。あの広いようで狭い、いや狭いようで広いゴールに、その何百分の一にも満たない直径の球形の物体を入れることが、かくも難しいものなのかと。人はその瞬間を待ち、裏切られ、ついには、待ちに待った至福のときを経験する。勝者がいる以上、敗者がいる。そこに落胆があり怒りがある。また、負けてはいないにもかかわらず、勝点という魔物に憑かれて割り切れない思いで地獄に落ちることもある。それを乗り越えるために、選手は血を吐くような練習を重ね、サポーターは我を忘れて応援する。 いまのJリーグチェアマンには、スポーツのこの愚直さがわかっていない。彼の頭の中には、チャンピオンシップが売れなくて、リーグはいくら損したんだろうと叩いた電卓の液晶数字がちらついている。だからこんな愚かなコメントしか出せないのだ。 チェアマンがいえないのなら、私が代わりにいってあげよう。 「自分達はスポーツ関係者でありながら、前後期制度などをでっちあげ、それを冠イベントとして売っておりました。結果、真のスポーツのあり方を歪曲し、サッカー技術の向上を怠ってまいりました。ここ2年間の磐田、横浜の2つのクラブの真摯な取組により、自分達がこれまで行ってきた前後期制度が意味のない、スポーツの発展を阻害する制度であったことを知りました。つきましては、クラブ、選手、サポーター各位に謝罪し、前後期制度を速やかに撤廃いたします」(Jリーグチェアマン/鈴木昌)
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