今こうして流れてしまう涙は
誰へのものなのかと思う
なく理由も
なく資格も
なく必要も
その意味も ないのだと思う
やはりわたしは
性善説を 思いたい
家族や家の事を 置き去りにしていないか
という疑問
それでも
今自分が
少し前とはちがう感覚で 進んでいる事と
それは繋がっていると
信じたい
2013年06月11日(火) |
被災地という場に行き、人に出会う。 |
マッサージボランティアとして石巻に行く。
大事なひとが病気でそんな中何で行くのかとか、日々の中他にやるべき事があるのを置いてそれをやるのかとか、優先順位が違うんじゃないかとか色々考えてしまったり思われてもいると感じながら それでもやっぱり行こうと思うのは
心が自然にそう動くから、 一セラピストとして願う「マッサージを必要としていながらお店で待っていては出会えないひと達」がそこにいるから、 そしてただただ、 また会いたいと思うひとに行く度出会うからだと
そう思う。
それでも、 東京での日々の生活の中時間に追われる事でまた揺れて自分の中でも再び震災に対しての風化があり 行く度にその自己嫌悪や罪悪感を感じながら自分がどこかで勝手に癒され許される。
地震が起きた時、無意識に両手を組んで大きな何かに謝って、「もう少しだけ待って下さい」と願った事 ネットで飛び交う情報や活動を見ながら大した事が出来ずに小さく震えていた事
その時の感覚を思いだす。
少しでも「楽になった」と言ってもらえる事で、何かの確信をもらう。
ただただ思うのは、行ってよかったと、いう事。
いつもどこかで、真摯なものをもらって、帰ってくる。
それが、ただただの、本当。
できたことと できなかったこと抱えて
行ってくる
2013年06月07日(金) |
意識してしまうみたい |
こうなると そのひとの前で
自然体なわたしは なかなか存在し得なくなるので
それは ちょっと
残念なんだな
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