先日、食事の時間に長女が「死んだらどうなるか考えた事ある?」と尋ねて来た。 今はそれほど考えないけれど、子供の頃(長女と同じくらいの頃)には考え過ぎて眠れなくなった事がある。 と、答えようとしたら全く同じ事を主人が答えたので驚いた。 長女がそんな質問をするという事は、このくらいの年頃にはみんなそんな事を考えるものなのだろうか。 でも、二十数年前に30kmほど離れた空の下で、彼と私が同じような事を考えていたと思うと不思議で嬉しい。
今、死に対して感じる恐怖は、段々と射程距離に入って来た現実感のある恐怖である。恐怖というより、家族と離れてしまうのが辛いだろうなという想像だ。家族を置いていくのも辛いし、置いていかれるのはそれ以上に悲しいだろう。 子供の頃に感じていたのは、何処かでも書いたが自分が──と言うより自分の思考が途絶える事への恐怖だった。 家族と離れる事など淋しいとも怖いとも思わず、死とはただ自分一人の問題だった。
死について考えさせられる出来事がいくつか続く。死(特に他人の)について不思議なのは、一個人の死をクローズアップした場合には確かに悲しく辛い出来事なのに、その単位が増えてしまうと途端に絵空事のように(と言うと冷たく感じられるが)現実味をなくしてしまう事である。 遠い地で何千人何万人が亡くなったと聞いた時、その一人一人の命に思いを馳せる事は重すぎるから、押しつぶされないように悲しみを抽象化するように心が機能するのだろうか。 死は、一人一人のものであって実はそうではない。多かれ少なかれ周りに様々な影響を与える。 人の命を奪う者は、その影響をまるごと背負えるのだろうか。想像力が欠如しているのか、何かに盲信しているのか。いずれにしてもおそろしい。
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