ゼロの視点
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2007年12月27日(木) ドラマ

 日仏夫婦M&Fを我が家に招いて、ディナー。日本人妻M嬢が、かなりいけるクチなので、あっという間に私も日本人同士シフトになって、ディナーというより《呑み会》のりに、2人でクイクイとシャンパンにはじまって、後は、赤ワイン、赤ワイン、赤ワイン・・・。

 夫は、私が日本人シフトになって飲みだすのが大キライなので、私に向かって無言ながらも、いやぁな視線を送ってくるが、そんなの軽く無視っ♪。楽しい波に乗ってしまったもの勝ちで、M嬢と日本語で盛り上がり、夫とM嬢の夫Fは、フランス語で議論しててもらう。

 ほろ酔いのところで、ふと私がピアノを弾きだすと、M嬢が私に向かって一生懸命、とあるドラマの説明をしてくる。


《ほら、あの、水谷豊が出てきて、ゴミ箱あさってたドラマ・・・あったでしょ ?!?!?!》、とのこと。


 さすが同世代の友よ!、ってことで、わたしゃ、たったこれだけの説明で、M嬢が私になんの曲をリクエストしているのかがピンときたので、さっそくその曲のさわりを暗譜で弾いてみると、《そうよ、これっ、これっ、これぇぇえええっ !!!!》と、興奮気味な彼女(爆)。

 今、一番流行っていて、ものすごく面白いドラマ《のだめカンタービレ》でも、もちろんなく、じゃ、かなり前の1985年に、それなりに流行ったドラマ《少女に何が起こったか》でもなく、もっともっと前の1977年に放映された、大映ドラマ赤いシリーズの一環で存在した《赤い激流》・・・・・・。

 1967年生まれの私は、10歳でこのドラマを見たのだが、そりゃあさすがの大映ドラマ、10歳の眼差しからでも、その大げささと、突拍子もない展開に“ケっ”と思いながらも、あまりにもくだらないのではまらざるをえないという、奇妙な魅力を持っていたものだった。

 で、同じように、M嬢も同時期にこのドラマを見ていたのだなぁ・・・、と想像する(爆)。で、クラシック音楽を好もうが否かは別として、洗脳されたかのように、このドラマで毎回聞かされた数曲が、M嬢のアタマにこびりついてしまっているのだろう(笑)。

 ま、所詮、私もM嬢と一緒だったわけで、私の頭にこびりついていた曲のひとつ、ベートーベンのピアノソナタ第17番《テンペスト》の第3楽章を、M嬢にむけて弾いたところ、前述のような“熱い”彼女の反応を得ることができた・・・、というわけだ(笑)。

 で、もちろん、M嬢のリクエストはこのドラマ続きで、ショパンの《英雄ポロネーズ》!!!!。が、これは、酔っ払ったわしのには暗譜では弾けなかったので、楽譜を探してみたもののどうも、楽譜の背表紙のタイトルが酒のせいでみな2重に見えてしまい、なかなか見つけられず・・・・・・・・(泣)。

 そんな私に業を煮やしたM嬢が、右手の指一本で《英雄ポロネーズ》のメロディーを、間違えながらも引き出したっ♪。おおおおっ、ブラボー!!!!。もう、完全に酔っ払いの世界で、わしらは、一音でもあってるだけで盛り上がり、そんなわしらを見て、そんなに酔っ払っていない仏人夫陣は、シラーっと冷めた視線をわしらに向けている。

 そんなことに気がついても、無視、無視、むしぃぃぃいいいっ、で、ひたすら2人で盛り上がった挙句、ちょっと私が目を離した好きに、M嬢はソファーの上で、死んだように深い眠りについていた。

おやすみぃ♪。


2007年12月25日(火) 予感

 2004年、2005年と、自分の母親のことで秋から年末まで日本で過ごしており、これを口実にちゃっかり、 « 嫁 »として参加するノエルという、面倒くさい家族行事から遠ざかることに成功していた私。

 その延長で、2006年もこの行事をブッちぎることは容易だったのだが、ふと、もしかするとこの機会を逃すと、もうあの行事も永遠にないかも?、という予感がして、ま、これが最後になるかどうかは別としても、とりあえず久々に « 嫁 »をやってみるか?、と思いたち、夫と共に久しぶりにRennesに足を運んだ。

 2006年のノエルは、誰一人喧嘩したりすることもなく、絵に描いたように何事もうまくいった家族行事となり、私は腰が抜けるほどビックリしたものだった。が、うまくいけばいくほど、《ああ、きっとこれが最後なんだ!》と思えて仕方がなかった私。

 この時のクリスマスプレゼントの中に、ペンデュラム(水晶の振りこ)があったので、それを面白半分に使って、一番最初に尋ねたのが、《ノエルの家族行事は今年で最後》かどうか・・・、ということ。で、振り子の結果は、ノンで、“うおおおお、振り子までノンて言ってるよ〜 !!!!”と、独りで妙に興奮したことを、昨日のように覚えている。

 とはいえ、振り子に尋ねておきながら、ペンデュラム自体を胡散臭くも思っている私なので、ま、それはそれとして、信じていたわけではなかったが、それ以前に、自分の予感のほうが強かったのが妙に気になっていた。そして、私の予感は見事に当たった(笑)!!!!!。

 なんと、夫のママ〜ンこと、私のばばあは、大腿骨が磨り減ってしまい歩行が難しくなったこともあり、12月の初旬に、プロテーゼと呼ばれる人工関節に置き換える手術を受け、ノエルの今も入院中。ゆえに、今年のノエルはなし、という、私の予想通りの結果になったのだった。

 今回は夫だけが日帰りでRennesに行き、病院にいるママ〜ンを見舞い、そのままばばあの愚痴だのなんだのを親子水入らずで行ってもらい、わたしゃ独り気ままにパリに残る、というある意味、理想的なノエルになったのだった。

 ばばあは死んだわけじゃないし、これから回復して、また元気になってしまうのだろうけれど(←ちょっと残念)、とはいえ、夫にとっては生まれて初めて、ママ〜ンのいない実家というのを体験することにより、実感をもって、彼の妻である私の立場というものがより一層理解できたのでは?、と思われる。

 実家に戻れば、いつも最寄り駅までクルマで迎えに来てくれていた私の母も、徐々に年をとり、挙句の果てには認知症になり、いつのまにか迎えにくるクルマも無くなり、実家には誰もいなくなってしまった私だが、夫も同じ。

 Rennes駅から歩いても可能な距離にある実家なのに、息子がパリから帰ってくると駅には必ず張り切ってクルマで迎えに来ていたばばあ。が、今回は、うるさいくらいの存在感のばばあも病院のベットの上。そして、主を失った無人の実家が真っ暗のまま夫を迎え入れるわけであり・・・・。


こういう機会を目の当たりにすると、さすがに、双方の親が着実に老いていくのを認識せざるを得ない・・・・・・。


 こうなってくると、個人的にはばばあとは出来る限り関わりたくないとはいえ、ここで死なれたり、もっと体調が悪くなられたりすると、それはそれで大変なので、やっぱり、それなりに遠くで元気でいてもらいたいと、“よい嫁”のように、義母を想うこともあるゼロでした。


2007年12月13日(木) 健康

 7月初旬に会ったっきりのDNと、ようやく双方の時間の都合がついたので、Républiqueにてランチ。本当は7月に、もう一度会って一緒にランチする予定だったが、当日私が風邪でダウンしたため、それっきりになってしまった。

 ただ、この時、この機会を逃したらなぜかDNとなかなか会えなくなってしまうという、嫌な予感がしたものだったが、実際に、それが当たってしまった。なぜなら、この私のキャンセルから2週間後、彼女の脳に5�僂琉�性腫瘍が発見され、以後、本日に至るまで、私の想像を絶するほどの闘病生活をDNが送ることになってしまったから・・・・。

 実は彼女、3年前に乳癌の手術を受けている。抗がん剤治療で、それまで自慢だった腰まであった髪を失い、それと当時に自信もなにもかにも失ったと言ってはばからない彼女だったが、以後は持ち前の前向き精神を発揮、見事、病に打ち勝ったはずだった・・・。

 7月に共通の友人のノルマンディでの別荘で、ウイークエンドを一緒に過ごした時には、髪の毛も肩にかかるぐらいに伸びてきたのを、嬉しそうにキラキラした表情で語っていたDN。そんな彼女を見て、誰もが《乳がん》のことは完全に過去のことになったと信じていた。

 ほぼ半年ぶりに会えたDNは、白い杖をつきながら私のほうへ向かって歩いてきた。脳腫瘍の手術自体は成功したものの、腫瘍が右視神経を痛めてしまった結果、彼女の右目はほぼ失明状態になったとのこと・・・・。またこうして一人で外出できるようになったのは、ついこの2週間ぐらいのことだということも教えてくれた。

 レストランに入り、尽きることなく2人でお喋りにはなを咲かせる。日本で購入してきた《癌に効くお守り》を彼女に渡す。今は、放射線療法中だが、年末には、抗がん剤治療がまた始まるとのこと。まだまだツライ治療過程が残っているゆえ、お守りでもどんなものでも、少しでもプラスになるものなら何でも嬉しいっ!!!、と彼女は述べていた。

 親や、祖父母などが病気に倒れることには納得できても、友人が病に倒れるのには全然慣れていない私は、それなりに動揺する。そんな自分を含めていつ病に倒れるかわからないのが人生とはいえ、ここ最近、DNだけでなく、他の友人・知人らが癌になったという悪いニュースが続いている・・・・・。

 DNが再び病に勝利することを信じて疑わない私だが、同時に、もっともっと自分の健康にも気をつけないと・・・、と強く思うゼロでした。


2007年12月04日(火) 親知らず

 昼下がり、家でのんびりしていたところ、電話がなった。一瞬、居留守でもしようかな?、という誘惑が私を襲ってきたが、なんとなく電話に出たほうがいい感じがしたので、素直に受話器を取る。すると、夫の歯医者からだった・・・・。

 《アナタのダンナさんの体調が優れないので、すぐに迎えに来てほしい》とのこと。なんで歯医者で、体調が悪くなったんだ、あのオッサン?!?!??!!、と思いながら、どうも歯医者の話し方があまりにも深刻そうなので、夫を迎えに行くことにした。

 一刻も早く行ったほうがいいのだろうが、とはいえ《そこまでしなくとも・・》という思いもあり、キチンと化粧する時間を確保した上で、歯医者に出向いてみる。そして、“体調が優れない”という夫を探してみると・・・・・・・・、奥のほうで、顔面蒼白になったオッサンを発見。

 
白い、白い、しろぉぉおおい、オッサン。


 ああ大変だったのね・・・、と思いながらも、あまりにもオッサンの顔が白く、衰弱しているので、思わずプッと吹いてしまった私。そんな私をみて、思いっきりムカついているオッサン。ま、許してちょーだい♪。

 本日、右下親知らずの抜歯のために歯医者に出向いた夫。が、どうも麻酔がうまく効かないまま、親知らずを抜かれるはじめ、その痛みはゲシュタポの拷問にも匹敵するほどのモノだったと夫は、弱々しく語る。が、なんで実際にその時代に生まれてもいないのに、ゲシュタポの拷問と比較できるのか?、等というツッコミはこの時はやめといたのだが・・・。

 夫の右下親知らずの根が、かなり曲がったまま奥の奥まで入りこんでいたため、これを全部抜くのが、技術的にも難しかったと、歯医者の弁。で、難しかった=時間がかかった、ということであり、結局夫は、長時間、麻酔が効いてない状態で、強烈な痛みと同時に、親知らずを抜く作業で生じる、ガリガリ、ゴリゴリという生々しい音を耳にし続けていたことになる。


いやあ、それにしても恐ろしい・・・・。私の身に起こらなくてよかった・・(笑)。


 夫はあまりの痛みに、汗がダラダラ出て、気がどんどん遠くなっていってしまったらしい。あとになってネットで検索してみたが、親知らずの抜歯でのショック死というのは、結構あるらしいので、ことによったら、この日、私は40歳で未亡人になるところだったのかもしれない。

 私は20代の後半で、すべての親知らずを抜いてもらったが、その歯医者が非常に腕のいい人だったので、一瞬たりとも痛みを感じることがなかった。なので、親知らずの抜歯が大変というのは迷信に過ぎないと思うキライがあった私だが、今回の夫のケースを目の当たりにして、少し考えを改めねばならなくなった・・・・。

 余談だが、親知らずが痛いということで、色々な人から抜歯を勧められていた夫。そんな彼は、そのことを自分のママンにも相談。すると、この婆さんは『抜歯なんて滅相もない!。絶対に歯をキープしなさい。1本でも多く歯があれば、モノをよく噛むことができるのだから !!!!!』と、突拍子もない助言を夫にした模様・・・・。モノを捨てられないケチケチ婆さんらしい発言とはいえ、呆気にとられたゼロでした。


2007年12月03日(月) リラックス

 母もいなくなった実家が合宿所化して久しい昨今、友人らが我が家にやってくると、話仕込む前に、皆、勝手に着替えだすのが常。とにかく、いつ酔いつぶれても寝られるように・・・、という感じで、さっさとリラックスできる格好に着替えるわけ、だ。

 《ちょっと失礼》などと言いながら、本当に失礼とか思ってんのアンタ?、という感じで、堂々と私の目の前で洋服を脱ぎだす友人らは、皆、女性(笑)。中には化粧も落とし始めるモノもいる。で、準備万端でテーブルを囲む頃には、色気もなにもない、ただただリラックスしたババア連中、おっと失礼、女性陣が、ゲラゲラ笑い、呑んで・・・・、という、傍から見ると、ちょっとだけ恐ろしい様相を呈した宴になっていく。

 春に実家にいた時は、瓶ビールの美味しさにハマッてしまい、誰かが来るとすぐに瓶ビールで乾杯・・・、などということを調子にのってやっていたら、フランスに戻る頃には一回り近く肥えてしまい焦りに焦った私。私と一緒に瓶ビールの美味しさにハマッてしまった親友MF嬢も、腰周りがやけに逞しくなってしまったこともあり、今回の里帰りには、ビールは避けて、《ビールのようなもの》を徹底して飲むようにしてみた。

 値段も安いし、カロリーも少ないこの《ビールのようなもの》は、確かにちょっとだけ味は落ちるが、体重も落とすことができ満足。呑んでもスリムなどという、非常に都合のいい飲み物は実にありがたい。夫もかなりハマッた模様だった。

 それにしても、だ・・・・。フリース上下の、ウエストがゴムパンツで、男っ気もなにもなく、女だけで瓶ビール呑みまくって、ただただ家畜のように肥え続けていった春の里帰りのことを思うと、少々背筋が寒くなることもあるのだが、ま、なんとか体重も元に戻せたし、よしとするか・・・・・(汗)。

 ちなみに、フランスでの生活では、上記のような飲み方とかをすることがほとんどない。招く相手にもよるが、食事を準備した上で、それなりにキチンとした服装でもてなす・・・、ということが多々あり、日本の実家でのはじけまくった宴と正反対で、妙に笑える。

 今度フランスで誰かに食事に招かれ、友人宅に到着した途端、フリースに着替え化粧を落とし、《さあ、これでユックリと呑めるぞォ !!!!》とやってみたら、どんな反応が相手から得られるのだろうか?、と、気になってしょうがないゼロでした。


2007年12月02日(日) 同志、再び

 10月の日本国内旅行の同志で、昭和一桁なフランス紳士、MGのノルマンディの別荘で、これまた同志だったPDと、日本には来られなかった彼の妻Oと一緒に週末を過ごす。

 誰も敢えて打ち合わせをしなかったのに、皆、旅行中の写真がインプットされたパソコンを持参で登場。日がな一日、それぞれが撮影した写真をみながら、それにコメントして・・・・、というだけで終わってしまった(爆)。

 道中は、融通の効かないMGにむしょうに腹が立ったりと色々あったが、今となってみれが、本当に素晴らしい旅行だったと再認識。そんな時77歳のMGが、《残念ながら、また同じ旅行ができるか?、と問われれば、ちょっと難しいかなぁ・・・》と、この旅行が最初で最後というニュアンスで話す・・・・。

 そういえば・・・・・、先日、同伴させてもらったM嬢の両親も、MGと似たようなことを言っていた・・・。《娘が是非来いというから、悩みに悩んで来ることにしたんですよ、フランスに・・・・。で、今回が最後かな・・、と思って・・・》、という。

 これを言われると、どうしようもなく切なくなる。そして、我が母が2003年の12月に、半分ボケながらフランスにやってきた時のことを思い出す。母がパリの空港から日本に帰っていくその後姿をみて、《これが最後だっ!》と、確信できてしまって、ガラにもなく号泣してしまった思い出と重なってくる。

 この滞在の時、母はしょっちゅう《もう、フランスへは来られないなぁ・・・》と言っていた、その時、そのままの母の表情が浮かんでくるほど、その瞬間瞬間を今でも鮮明に覚えている。

 とはいえ、MGが、そしてM嬢の両親が、私の母と一緒というわけではない。が、時の移ろいの儚さ、というものをまったく無視できなくなってきている自分を、ハッキリと認識する昨今。

 なのに、実際に母に会うと、彼女がボケていようがなんだろうが、まったく優しく出来ず、どこまでも鬼畜なゼロでしたぁ♪。


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