与太郎文庫
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| 1957年06月25日(火) |
戒名無用 〜 善魔から親鸞まで 〜 |
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19570625 http://www.hatena.ne.jp/adlib/activities http://twitter.com/awalibrary http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/list?id=87518&pg=000000 http://www.enpitu.ne.jp/tool/edit.html http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/day?id=87518&pg=19570625 Ex libris Web Library;《異母兄弟》 http://mogamiya-forth.cocolog-nifty.com/dailylife/2008/06/post_4c2c.html ── 木下 恵介・監督《善魔 19510217 松竹》役名=三國 連太郎 ── 家城 巳代治・監督《異母兄弟 19570625 独立映画》田中 絹代・共演 ── 三国 連太郎・原作・企画・脚本・監督《親鸞 白い道 19870509 松竹》
三国 連太郎 俳優 19230120 群馬 東京 20130414 90 /籍=佐藤 政雄 http://d.hatena.ne.jp/adlib/19990331 歯本論 〜 歯は三十二 〜 http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/search?idst=87518&key=%CF%A2%C2%C0%CF%BA http://nozawa22.cocolog-nifty.com/nozawa22/2006/10/post_3a28.html 三国連太郎 出生のなぞ 20061018 http://nozawa22.cocolog-nifty.com/nozawa22/2008/10/post-ba26.html ♀□□ □□ 19‥‥‥ 宮崎 ‥‥ 19‥‥‥ ? /1946-1948 偽装結婚(復員の際、同姓の未亡人と) ♀□□ □□ 19‥‥‥ 鳥取 ‥‥ /前々妻/待合の娘 ♀□□ □□ 19‥‥‥ 長野 ‥‥ /前妻/味噌屋の同僚 ♀□□ A子 元芸者 1931‥‥ ‥‥ ‥‥ /1957-1972 三妻〜《認知症 20120913 週刊文春》 http://www.excite.co.jp/News/entertainment_g/20120913/Postseven_143212.html ♀佐藤 友子 19‥‥‥ ‥‥ ‥‥ /四妻 …… 亡くなる2日前、ふいに「港に行かなくちゃ。船が出てしまう」 と口走っていたという。 http://www.nikkansports.com/entertainment/news/f-et-tp0-20130415-1112786.html ♀太地 喜和子 女優 19431202 東京 伊東 19921013 39 /水死/別名=志村 妙子/緑内障 http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/search?idst=87518&key=%B4%EE%CF%C2%BB%D2 ♀石田 えり 女優 19601109 熊本 ‥‥ /籍=内田 恵理子/162cm 53kg B85cm W60cm H88cm ──────────────────────────────── 佐藤 浩市 俳優 19601210 東京 ‥‥ /三國 連太郎&A子の長男 http://d.hatena.ne.jp/adlib/20040812 月は昇らず 〜 乗客乗員名簿 〜 http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/day?id=87518&pg=20040812 。 ♀□□ □□ モデル 19‥‥‥ ‥‥ ‥‥ /1986-1989 籍=佐藤 浩市の前妻(一児の母) ♀広田 亜矢子 女優 19‥‥‥ ‥‥ ‥‥ /1993 籍=佐藤 浩市の後妻/原田 喧太の義姉/レオナの従妹
(20130415) ┌┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┐ ↓=Non-display><↑=Non-display └┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┘
| 1957年06月20日(木) |
抹茶の倦怠 〜 退屈論から厭世考へ 〜 |
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19570620
やまなみ 13号 もくじ お願い……………………………園田 民雄…… 2(文芸部顧問) 作家と私(二)…………………富井 康夫…… 7(文芸部先輩) 虞美人草…………………………埋草 書人…… 4(?) 客体から主体へ 〜 現代芸術の理解のために 〜 ……………………竹内 康 ……38(2A) 家遠し……………………………下村 福 ……18(国語科教諭) 幸福………………………………野副 紀子……27(2B) 抹茶の倦怠………………………武市 恒子……28(2D) 芝生の草…………………………笠本 義嗣……17(2C) 受験……………………………… …… ……13(?) 一年選集…………………………………文芸部選 ……19 消えた灯…………………………今井 公子……14(1F) 入学試験…………………………石田 良子……15(1G) 電信棒……………………………井上 道子……16(1G) 叡山電車…………………………池野 雅子……19(1B) のぞみ……………………………山本 邦彦……19(1D) 春を送り夏を迎う………………谷口 尚子……20(1E) 現実………………………………中西 宏 ……21(1E) 春…………………………………大島 雅子……21(1D) 山…………………………………芳野 雅子……22(1D) 中学生 生いたちの記……………………星野 隆昭……23(中3) 法隆寺をたずねて………………革島 良子……16(中3C) 創作 桜草………………………………和田 和代史…29(2D) 乱心………………………………小磯 実 ……35(? ) JEALOUSY………………清水 隆史……41(2F) 編集後記………………山本 悦朗……44(3C) 宮田 昌洪……44(3?) 松浦 和郎……44(2A) (N) ………44(? ) 編集人:山本 悦朗・和田 和代史/印刷所:芸林社 ── 《山脈・第13号 19570620 同志社高校文芸部》 (この号は、目次や執筆者の表記に欠落・不整合が多い)
>> 抹茶の倦怠 二D 武市 恒子 近頃季節のせいかいやにぼんやりしていて体がだるい。別にどこが悪 いという所もないのだけれど、どうにもしかたがない。自分は自分だけ が知っているといったって、自分の自分を知らないことが多い。まして 他人は誰も自分を知らないなどといって悲しがることはない。他人は畢 竟身身に違いないから他人をせめるにあたらない。相互に相手を睨合い ながら表面はおだやかだ。自分の満足を求めるだけ。そんなことは考え ない等と野暮なことはいわぬことだ。強いものはいいが弱いものはそん だ。他のものも自分のものも信用する事の出来ないものほど損なものは いない。生活方法の絶対究極は無為に従ふて無為に生かされる……と昔 から、どうするにも仕方がなくなった人がよくいったものだ。自分には 無為体究なんて思うだけ実に無為なもの。といって別にどうしようもな いから時に従っているだけ。実につまらんけれども、どうしようもない から仕方がない。 湯釜の音を聞き、茶碗の内を見ながら、お薄をスーとのむ。そしてし ばらく茶碗を持ったまゝぼんやりしいる。それは感傷じゃない、或る満 足感かも知れないけれど、そこに永遠性のどうにも仕方のない退屈を感 ずるのである。 ── 《山脈・第13号 19570620 同志社高校文芸部》 << ※ぼんやりしいる(誤植)→ぼんやりしている。 ひっ‐きょう〔‐キヤウ〕【×畢×竟・必×竟】 [名]《梵atyantaの 訳。「畢」も「竟」も終わる意》仏語。究極、至極、最終などの意。 [副]さまざまな経過を経ても最終的な結論としては。つまるところ。 結局。「―人は死を免れえない」 み‐み【身身】 1 《「身身となる」の形で》身二つになること。出産すること。 「舟のうちの住まひなれば静かに―と成らん時もいかがはせん」〈平家 ・九〉 2 各自のからだ。その身その身。 「おのが―につけたるたよりども思ひ出でて」〈源・蓬生〉 ── 大辞泉(小学館) ──────────────────────────────── 続々・抹茶の倦怠 フィリピンだかネパールだかで、ゴミの山での一番人気はネスカフェ の空瓶だそうだ。 いちど覚えたカフェインは、脳に記憶されるらしい。 最近タクシーの運転手に「どこか、コーヒーの旨い店を知らないか」 と訊ねたら「わしゃ味なんか分りません、インスタントばっかりです」 と素気ない。だがネスカフェは、こういう人たちにも売りつけたのだ。 若いころ(名曲喫茶で)一杯50円のコーヒーで半日暮らしていた。 一杯500円の“美人喫茶”では、すごい美人が隣に坐ってくれた。 (いま調べるに、全員なんらかの美人コンテスト入賞者だったらしい) 中年になると、打合せのたびにコーヒーが出された。 家に居るときまで、ガブガブ飲むくせがついてしまった。 徹夜仕事では、カフェインとシュガーを脳が要求したらしい。 パソコンに向いながら、インスタント・コーヒーを飲むのは簡単だ。 老年になると、赤ん坊の味覚にもどるらしく、肉や脂が苦手になる。 インスタント・コーヒーにも飽きて、一日数杯に減った。 日本茶だけで物足りず、あるとき亡父が抹茶を点てる姿を思いだした。 はじめは面倒だったが、これこそが、一服の休息となる。 色や香りの溶けぐあいをたしかめるので、両手がふさがるからだ。 ゆるやかに茶碗を回して、じっと覗きこむ瞬間が極意である。 あるときは海であり、あるときは空である。 ときには、おのれの瞳が映しだされることもある。 こんなものの喫みかたを教える茶道の家元制度も、類がない。 こんなものを喫みつづけた家元は、緑色の小水が出るかもしれない。 うそかまことか、つぎのうわさ(二は自作)もある。 一、日本画家は、絵筆を舐めるので、五色のフンが出るそうだ。 二、菜食主義者(田畑忍学長)は、草食動物とおなじく、フンが丸い。 三、佐々木幸綱の家では、七五調で話しているらしい。 日本画の技法は、そのつど顔料を胡粉に混ぜる。擂鉢で団子状にして、 数百回打ちつけ、練りあげたものを、筆に取って唾液で湿しながら描く。 (うろおぼえだが、いまもこんな不衛生な技法を守っているのだろうか) (Day'20050428) ──────────────────────────────── 続・抹茶の倦怠 インスタント・コーヒーやティー・バッグの紅茶にも倦きてしまった。 紙フィルターのコーヒーも、くどく感じる。 すこし面倒だが、略式で抹茶を点ててみる。 夜中に抹茶を喫みたくなった。道具類はあるが、抹茶が見あたらない。 一度あきらめたが、ふと見ると透明プラスチック容器に、白っぽい粉 が入っていた(はじめ塩昆布のように見えた)。 家人が、なにかの拍子に入れかえたものらしいが、抹茶は光によわい。 かきまぜてみると、緑色にもどったので、エイヤとばかり点ててみる。 ほとんど香りが失われているが、久しぶりに満喫した。 抹茶は、父の香りでもある。 中年のころ、母に茶化されながら始めたが、母に先立たれてからも、 ときどき一人で点てていた。ときに息子が所望すれば応じた。 母は、ひとり息子に、いずれ成人したら、男でも茶華道を習うべきだ と云っていた。(Day'20050312-20050421) このコラムは「抹茶の倦怠」から「退屈論」「茶能指数」につづく。 ── 《茶能指数 》 ── 《厭世考 20050429 》 ── 《続々・抹茶の倦怠 20050419-0427 》 ── 《続・抹茶の倦怠 20050312》 ── 竹内 康《退屈させない人間 19670120 》 ── 武市 恒子《抹茶の倦怠 19570620 山脈・第13号》 ┌┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┐ ↓=Non-display><↑=Non-display └┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┘ (20050427-20090507)
| 1957年06月15日(土) |
ホザナ・コーラス発表会12 〜 シンフォニエッタ・デビュー 〜 |
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19570615 http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/list?id=87518&pg=000000 http://www.enpitu.ne.jp/tool/edit.html http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/day?id=87518&pg=19570615 Ex libris Web Library; 1.F.J.ハイドン《交響曲 第100番 ト長調“軍隊”第二楽章 Allegretto, in C 17940331 London》 2.F.J.ハイドン《交響曲 第100番 ト長調“軍隊”第三楽章 Menuetto, Moderato 1793‥‥ Wien 17940331 London》 阿波 雅敏・指揮《ホザナ・コーラス発表会 19570615 同志社栄光館》賛助出演(録音なし) ──────────────────────────────── http://d.hatena.ne.jp/adlib/19580614 ホザナ・コーラス発表会13 〜 シンフォニエッタ 一周年 〜 1.J.シュトラウス II《春の声 Op.410 1882‥‥ Wien》 00:28 / 05:20 2.A.I.ハチャトゥリャン《組曲「ガイーヌ」ばらの乙女たち 19421209 Russia》 阿波 雅敏・指揮《ホザナ・コーラス発表会 19580614 同志社栄光館》賛助出演 ↑03:13 / 05:20 ↓00:08 / 05:08 3.F.J.ハイドン《交響曲 第 94番 ト長調“驚愕”第三楽章 Menuetto, Allegro molto 17920323 London》 ──────────────────────────────── http://d.hatena.ne.jp/adlib/19581125 第一回校内ポピュラーコンサート 19581125 同志社高校チャペル ──────────────────────────────── http://d.hatena.ne.jp/adlib/19590613 ホザナ・コーラス発表会14 〜 シンフォニエッタ 二周年 〜 1.F.J.ハイドン(?)《おもちゃの交響曲 ハ長調 1770-1788‥‥ Austria》 有賀 誠一・指揮《ホザナ・コーラス発表会 19590613 同志社栄光館》賛助出演 ↑07:37 ↓18:25 / 22:31 2.L.van ベートーヴェン《交響曲 第8番 Op.93 第二楽章 Allegretto 18131208-18140227 Wien》未献呈 追記 ── おもちゃの交響曲(Toy Symphony)はオーストリア、チロル地方 出身の作曲家でベネディクト会の神父エトムント・アンゲラー(Edmund Angerer)が1770年ころに作曲した、いわゆる "Berchtolds-Gaden Musick" (ベルヒテスガーデンの玩具店製のおもちゃを加えた音楽を意味する造語) とよばれる、三楽章からなる小交響曲である。(Wikipedia) (20111110)
| 1957年06月02日(日) |
客体から主体へ 〜 現代芸術の理解のために 〜 |
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19570602 http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/list?id=87518&pg=000000 ↓Edita for text ↑Index 000000=19020102〜99991231 http://www.enpitu.ne.jp/tool/edit.html from Our Pictures;19570602-0 >> 客体から主体へ 〜 現代芸術の理解のために 〜 竹内 康 …… 近頃、「電子音楽」だとか「アンフォルメル」という様な芸術が はびこり出して、奇異な感じを持たれる人々も少なくないと思いますが、 私がこれから、言おうとする事が少しでもそういう物の理解に役立て ば幸いだと思います。 今ここで私は客体から主体へという哲学的な言葉を取り上げましたが、 哲学と芸術と何の関係があるのだと思われる方もあると思います。しか しそうういう関係があるという事がもう既に現代の芸術の性格なのです。 さて前置はこれぐらいにしてテーマの「客体から主体へ」という事に ついて書いて見たいと思います。 客体から主体へという変化はまず他律から自律へという事により始ま ります。この段階に於いては一人の人間とその周囲の他のものが問題に なるわけです.即ち社会とかそういう個人以外のものが客体であり、一 人の個人が主体となるのです。 次の段階にはいると所謂外面的な自己というものから内面的自己へと 変っていきます。これは言い換えれば自己というものを意識しない状態 から意識する状態へと変るわけです。 更に進みますと、ここに自己の意識の中に客観的な自己から主観的な 自己へと変るのです。客観的な自己とは、即ち自分自身の中に第三者た る自己を作るのです。そうして自分の行動とか精神とかそこの第三者の 目を通して見るわけです。一般にこの第三者というものは一つのある価 値判断の基準として存在します。そしてそれは自己の言動に価値を下す わけです。こういう状態を最も良く現わしているものに「モラル」とい うものがあります。即ち人はこれを絶体的なものとして自己の内に持つ のです。そして、自分の行動あるいは精神的な活動をこれによって良し としあるいは悪しとするのです。そしてその価値判断により自己の存在 を決定するのです。 しかし何もこういった状態はモラルには限りません、もっとおし広め て考えるなら、人間というものは大程この状態にあるものです。人生に 目標を持って生きて行くだとか、日々の生活を反省してより良きものに するだとかいう事は、すべてこの状態にあるのです。 しかしこういう状態では残念な事に、一度その客観的な絶体としてい るものが無くなると、たちまち自己を見失なってしまうのです。それに 又、もう少し考えて見ますとその絶体としている価値判断の基準は決し て絶体ではありえないです。もしそれが絶体なればそれほとりもなおさ ず真理であり、価値の基準というようなものがあるならば何も我々は無 限という事に悩まされる必要はないわけです。謂はばその様な状態では 自分で自分の身体を自分で編んだ縄で縛っているのにほかありません。 こう云う事が馬鹿げた事であるといっ事は云うに及びません。 所で先に少し触れましたが、絶体としている客観的自己がその非絶対 性を表わしてくると、たちまち自己を見失ったり、非常な精神的危機か やってくるのです。自殺というものがその最も端的なものです。もっと も自殺の総てがこれではありませんが、しかし、この様、な自殺が最も 多いのではないかと思います。しかしながら、こういう危機を通してこ そ、人間は更に進んだ段階へと進むわけです。 さて、主観的自己と申しますと、その字の示す通り、自分自身を主観 的に見るわけです。即ち、自己の感情とか理性に忠実に行動しようとす るのです。こういう状態の典型を私は、ヘッセの「デミアン」の中に見 い出します。しかしこれとても、自己自身を主観的に見て自己という客 休を作っていて、それを絶体化しているわけで、前述の段階とは大差無 いものなのです。 所でいよいよ次の段階として私の本題とする所の主体的自己というも のが出て来ます。これはキェルケゴールが「死に至る病」で言っている 言葉、即ち「自己とは自己自身に関係する所の関係である」というのが 最も良く現わしている様に思われます。しかしこんな言葉だけを書いて みても全く無意味なので説明をしてみましょう。 この段階にまでつきつめていきますともはや主体的になり得る可能性 を持ったものは自己自身しか残されていないわけです。そこでこの自己 自身は主体的になろうとするのです。所が主体的になるとそれはすぐ客 体となってしまいます。即ち主体的であろうとする観念が既に客体であ るのです。この関係は所謂弁証法的に無限に発展するわけでしてこの主 体的になろうとする無限の傾向がとりもなおきず主体的な自己なのです。 即ち自己自身に関係するその関係そのものなのです。もっともここまで 来ますともはや言葉や文字で表わせる領域ではありません。 所でこの主体的自己は更に一歩進めますと、その自己自身に関係する 所の閲係の否定という事にまで発展します。これほとりもなおさず自己 の否定です。自己の否定では、即ち一切の物の否定です、一切の物の否 定とは、即ち「無」なのです。仏教の、禅の本質とする所の無なのです。 しかしながら、ここに又一つの問題が有ります。と言うのは、我々は決 してその無にはなり切れないのです。そこでここに無になろうとする無 限の傾向が存在するのです。この傾向こそ我々が「実在」と呼んで良い ものではないでしょうか。 私が今迄、長々と書いて来た客体から主体への移行の最終の段階であ るのです。 以上何かこの文の札的にそれた事を書いてきた様に思われるかもしれ ませんが、この様な現代芸術の裏づけとなっているものの理解なくしで は、当然その作品の本質に触れる事は不可能な事です。 即ち換言すれば現代芸術とはそれ白身この実体になろうとする傾向を 持つと云うわけなのです。この傾向の音楽に於いての現われが電子音楽 であり、絵画に於いてはアンフォルメルです。 先ず電子音楽について述べたいと恩いざす。古い音楽として19Cのロ マン派の音楽を上げるならば、それは実さい、美しくもあり、人を感動 さす力を持っています。所が我々がそれを聴いて感動するのは音楽それ 自身に対してではなくて、その音楽によって起された我々白身の感情と か、感覚とかに感動するのです。 例えばショパンの「別れの曲」を聴くとすると、我々は別れという標 題から、あるいはその音楽の雰囲気から、悲しみという感情を感じそれ に心を打たれるのです。音楽の要素たる音程・リズム・和声とかいうも のは唯その組合せにより、そういう雰囲気を作り出す手段にすぎないの です。所が電子音楽に於いてはどうでしょうか、私は特に電子音楽の生 みの親であるウェーベルンの音楽について述べたいと思いますがそれは 最早や単なる感情をかき立てる手段という様なものではなくて、その音 程・リズム等はそれ自身が目的であり、一個の存在として、即ち主体的 存在として存在するものなのです。この様な事は言うまでもなく、その 音楽を聴いていただいたらすぐわかる事です。所が19C的な観地から それを聴ぐ人々はその音楽を、相変らず感情の手段として聴くもんです から奇異な感じを持たなくてほならなくなるのです。我々はこの音楽に 音楽以外のものを求めるべきではなく、音楽それ自身のもつ主体的な存 在を求めるべきなのです。だからあるイメージを浮はそうとしたり、感 情的な基準からその音楽を判断する事は大きな誤りです。唯何も思わず、 考えずにその音を一つ一つはっきりと聴いて、その存在を認めたら良い のです。そうすれば、そこに存在と存在との交通が起り、その音楽は我 々に実存的な感動を与えるのです。 アンフォルメルの絵画でも全く同様です。その絵から、何が書いてあ るかとか、色彩が美しいだとかいう様な事を求めるからいけないのであ って、何等の先入観にもとらわれず、透明な心で直接その作品を見れば 良いのです。 この様に現代の芸術というものは、単なる人間の付属物たる客体的存 在から、それ自身のための存在たる主体的存在に、更には実存に迄発展 して行こうとするものなのです。そこでその芸術を理解するためには鑑 賞者自身も客体的存在から主体的存在に、更には実存に迄達していなく てはならないのでず。そうでなくては芸術に見捨てられた存在になって しまいます。芸術と人間との関係というのは真に存在と存在との対決な のです。 以上で大体私のいおうとする事が理解していただけたかと思いますが、 ここで音楽と絵画について述べていながら、文学については何ら述べて いない事に疑問を持たれるかもしれませんが、私は文学というものは他 の二つと本質的に異ったものであると思っています。というのは、文学 が文字というものを仲介とし、人間存在についてのものである以上、客 体としての存在から脱しきれないからです。しかし文学について述べる には、もう紙面もありませんので又別の機会にまとまったものとして書 きたいと患います。 以上何かとりとめのない事を書いた様ですが極く短時間に一気に書き 上げてしまったので理解しにくい所もあるかと思いますが、この辺で一 応筆を置きたいと患います。(六・二) ── 《山脈・第十三号 19570620 同志社高校文芸部》P38-40 << ┌┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┐ ↓=Non-display><↑=Non-display └┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┘ …… 「ショパンの前奏曲は、おまえの叔父さんが死んだとき、どんな にか私の助けになったかしれない」という叔母のビジョワ──美は彼ら にとって同情的であると思う。ろくでなしめ! ── サルトル《嘔吐》 adlib/19690320 読み返した本 〜 デーやんの寸稿 〜 …… ピカソを論じることはほとんど興味がなかった。高校時代の竹内 君のように長いものは書けないので、ここでは影響を受けていない。 *竹内 康《パブロ・ピカソ 19581010 山脈・第十六号》参照。 adlib/19600225 孤太郎 〜 丸と四角と三角 〜 http://d.hatena.ne.jp/adlib/archive?word=%C3%DD%C6%E2%A1%A1%B9%AF key word of 竹内 康 ↓ 竹内 康 http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/search?idst=87518&key=%C3%DD%C6%E2+%B9%AF adlib/19570620 抹茶の倦怠 〜 退屈論から厭世考へ 〜 adlib/20010920 悪友四重奏 (20090601)
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