ジョージ北峰の日記
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2013年08月12日(月) 青いダイヤ

  大人がいざ子供に正義を教えようとすると、実は自分自身が“正義”についてよく分かっていないことに気付きます。
ハーバード大学のサンデル教授がテレビで学生に��正義“にかんする講義をされているのを拝見したことがありました。 教授は個々の事例について紹介した後、 “この場面でどうすることが正義だったと思うか?と学生に質問された時、彼等の答えはまちまちでした。
教授はどの答えがよいかにつてはコメントされず、答えは人によって異なること、共通の答えを提示することの困難さを強調されたように思います。
  正義観は国によって違います。
日本人の“正義”は、他国にとっては“悪”であることがあります。一方他国の正義が日本にとっては悪であることも勿論あります。
第二次世界大戦中、日本の国を守るために死んでいった特攻隊員は日本人にとっては桜の花とか軍神に譬えられ“英雄”として賛美されました。しかし敵国にとっては“悪徳の行為”としか捉えられなかったでしょう。
アメリカの“原爆投下”は日本人にとっては特に“悪徳”と捉えられるでしょうが、一方アメリカでは大戦を早く終わらせた功績を高く評価、賛美する人が多かったのです。
同じことでも立場が違えば、判断は全く異なってしまいます。中国、韓国、日本の歴史認識の違いについても同じことが言えるのではないでしょうか?どこまで相手の立場が理解できるかが今後問題解決の重要な糸口になるでしょう。
原子力の平和利用に関しても、疑問を抱く人が多数いますが、一方福島の原子力発電所の事故後も、矢張りエネルギー源としての魅力を捨てきれずにいる人も多数います。
このように人々の正義観は宗教、民族、イデオロギー、政治体制、経済情勢、その人の立つ位置よって違いが出てきます。
 で----私達が子供に“正義”を教える場合、どこに基準を置けばよいのでしょう?
色々な意見はあるでしょうが、ある特定の政治思想、イデオロギー、歴史観など、余計な先入観を与えないで、子供には人類共通の普遍的倫理観を尊重する人間性を養うよう工夫する必要があると思います。
難しい表現を使えば、他人の自由権的基本権(思想、良心、学問、表現の自由など)を尊重できる人間性を養うことを目標とする、となるでしょうか。
  適切な例でないかもしれませんが、子供の教育体制を考える場合、現代の車社会に見られる法律は良いモデルのように思います。

他人の安全運転を侵す行為は法律で、固く禁じられています。車を安全運転するための技術習得、道路上での規制があることによって、運転者は安全に車を運転することが出来ます。最初規則に抵抗を感じることもありますが、やがて慣れてくると、規則に縛られる意識はなく、遭遇する場面、場面で適切に運転する能力が獲得されるのです。
さらに事故を起こした場合、当事者間同士でさえどちらが悪いのかを自分で判断出来るようになります。
ところで、如何して運転者はこの規則を有効に身につけられるのでしょうか?
私はこの規則の背後に警察があるからだと思っています。
どんなルールも罰則なしで有効に機能することはありません。
交通規則違反の場合、警察権力によって“強制的”に罰金が科せられます。さらに悪質な場合は逮捕されることさえあります。
つまり、この規則が有効に働いているのは、違反した場合“強制的”に罪が問われる“警察権力に強制”の部分が与えられているからです。
運転者は車社会の中で、何度か強制的に罰金を払うことがありますが、そのような強制される失敗の過程を通して、安全に運転する能力を身につけてゆくのです。
  運転者は最初、規則に不便さを感じますが、慣れてくると、規則をあまり意識しないくても車を安全に運転することが可能になるのです。
しかしそれには違反した場合、罰金を強制的に払わせられると無意識的な意識が教育の原点になっているのです。
しかも平和的に----(交通違反で罰金を払わされる場合は暗くありません。現在では笑い話ですますことさえ多いのです)
  子供教育を車と一緒にするのは無節操と言われるかもしれませんが、罰則は車社会を安全にかつ民主的に運営するための手段であって、目的ではありません。それがこの罰則の重要なポイントです。それに交通違反の罰則にはもう一つメリットがあります。
つまり車社会のルールは、政治体制、イデオロギー、思想・信条を超えて世界中でおおむね共通に受け入れられる点です。
 
子供社会にも、例えは悪いかもしれませんが車社会のように、あまり暗くない法体制を整備することが、現代のような放任主義とも言える自由社会にあっては、“特に”重要なのではないでしょうか?

警察と言うとアレルギーを感じる人も少なくありませんが、現代のように親、先生の権威が全く失われた放任社会では子供がルール違反を犯した場合、やはり罰する場として警察の権威を利用することも必要なのではないでしょうか?
それも一番よいのは罰金制度を設けることだと考えています。
子供には罰金は払えませんから、親が支払うことになります。
これは親が子供教育にかかわることが如何に大切を伝える意味ではとても有効だと思いますが、いかがでしょうか。
(危険な子供を抱かえている親は子供のために保険加入することも必要になるかも知れません)しかしそれ以前に、この方法は子供が社会で生きていくためのルールを覚えさせる上で、親の役割がどれほど大切かを自覚もらう手段として有効なのではないでしょうか
 
子供のための法体系は、思想・信条を含まない、出来る限り人が生きていく上で、最小に濃縮された普遍的な道徳に限定されるべきでしょう。
少なくとも政治的、宗教的目的を含まないで、世界中で理解されうる、かつ子供教育に貢献出来る価値体系であってほしいと思います。
昔は、親やコミュニティ−が率先して子供を厳しく道徳教育していく義務があったのですが、それは時として、あまりに偏見に満ちたものであった為に、グローバル化社会にはふさわしくなくなったという経緯があります。しかし一方で、現代では親も、先生も子供教育に迷っています。
また過剰なまでの自由主義のため親やコミュニティ−全体の箍(たが)が外れてしまっていて、子供も自分達の生き方に迷っているのです。
もう一度社会全体で子供教育を正しく推進する。新しいグローバル化社会に通用する、罰金付きの子供むけ法体制(ルール作り)を考えてみたらどうかと思うのです。勿論そのようなルールが、子供の個性を奪うものであってはいけません。
また日本の昔の道徳教育持ち込もうとするのも安易すぎますし、アレルギーを起こす人がありますので、すべての人が「これで納得」という程度の法体制を早急に構築することが、現代に生きる大人の義務ではないかと思います。  

私の子供時代は、昔の厳しい道徳教育と、アメリカから導入された“自由主義”がうまく混ざり合って、子供にとってちょうど適度の縛りのかかった子供教育がされていたように思うのは私だけでしょうか?
   それに子供の住む環境は今ほど多様な文明社会ではありませんでした。


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