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どんなに責められても、どんなに怒鳴られても、どんなに打たれても、どんな辱めを受けても、私は目をつぶらなかった。自分の痛みより優先したいものがあったから。救いたかったのは孤独に蝕まれた父君の心。父君は「くそったれ!」とわめき散らしながら、「お前なんか死んじまえ!」となぶりながら、わけがわからなくなるほど食べ漁り、飲んだくれながら、常に孤独をうったえていた。助けを求め続けていた。しかし私がいくら手を差し伸べても、そっぽを向いて受け取ろうとはしない。孤独とは盲目。そして凶暴。自分も他人も傷つける。私は孤独に魂を売り渡すまいと心に決めた。本当に孤独だった時、私は孤独だと感じていたか?そして今、私は孤独ではないのに孤独に悩まされている。錯覚なんだと思う。夢で亡霊に取り囲まれ、銃を乱射。目を覚ますと大切な人の躯が転がっている。例えだけれど、そんな感じのこと。孤独な時は1人になろう。群集の中で孤独感を感じることもあるのだから、孤独な時に人を避ければ悪化するなんてあまりにも安易。孤独と言う錯覚。とても凶暴。しかし頭のよさそうな人達は口をそろえて言う。孤独な時は孤独だと言っていい。私は良くないと思う。だからと言って薬はよくない。過食嘔吐や薬物乱用、過剰性欲に似ている。満足したような錯覚に陥って有耶無耶にしてしまうだけ。錯覚を錯覚で処理しているに過ぎない。自殺を食い止めるにはいいかもしれないけれど、私は人間なんだ。錯覚は錯覚だと自分に言い聞かせたい。その根拠を握っていたい。そうすることに意味があるのか感じていたい。孤独な人はいつから孤独だった?多分、欲求が満たされないことに不満を感じた時。けれど過ぎてしまった日は帰らない。ならば手に入るものを手に入れればいい。大切なのは、手に入らなかった悔しさよりも、それを手に入れたいと思った気持ち。それを忘れている間は、孤独に打ち勝つことはできないと思う。思い出すのは自分。人が与えられるのはヒントまで。愛する心、大切に思う心、尊ぶ心、慕う心…。そんな心を忘れないように。私の哲学。私1人の哲学でもいい。人は孤独にはなれないんだ。そして、心は魂の鏡と言うけれど、心は魂を救うと思う。魂は穢れないと言うけれど、心あっての魂だと思う。
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2006年03月25日(土)
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