刑法奇行
INDEX|過去|未来
先日、ハルニッシュさんの「ドイツのOK」翻訳書完成打ち上げを、S文堂のH郷さんの企画で、大学近くの「個人まり」した西洋料理店で行った。久しぶりに、西原春夫先生にお会いした。T口先生、院生のI藤君、W邊君も一緒であった。恩師健在である。相も変わらず、「ギンギラギンにさりげなく」である。官房長官の例の諮問委員会から駆け付けて下さった。私が官房長官似といわれているといっても、ニコニコされているだけだったが・・・。 6月5日の法学会大会で恩師の基調講演が行われる。その内容について若干議論した。恩師は、現代の病める社会において、たとえば神とか御天道様などの絶対的なものの必要性を説かれた。今の風潮である「勝手じゃん」に対抗する手だてを模索することは、私の問題意識でもある。しかし、私は、絶対的なものを求めない。以前、奇行で書いたように、「勝手じゃん」を押さえるのは、「つながり」であると思う。恩師は、つながりは前提としてあるのだといわれた。暴走族にはそれなりのつながりがある。しかし、そのメンバーの一人の愛する彼女が泣きながら脱退を願ったならば、おそらく脱退することだろう。その相手は誰でもいい。いろいろなつながりの中で、強弱がある。最も強いつながりが、暴走族のメンバー達であるから問題なのである。つながりがあるくせに、つながりを求めてるくせに、「勝手じゃん」というからたちが悪い。もっと、素直に行こうではないか。 その他、中国との付き合い方、学会状況などお話しし、盛りだくさんの料理にも完敗した。とにかく、恩師は、とどまることのない前進の過程にある。「途上にて」という感じだ。依然として、日の出の勢いである。やはり、「春」は「あけぼの」なのである。「ハル」のほうは、メールで添付を少な目に願いたいが・・・。
(追伸) 学会で、MPIの所長がズイーバーになるという、嫌な噂が流れた。ペロンかヴァイゲントじゃないかとほくそ笑んでいたのに・・・。たしかに、Zさんは、EU刑法、情報犯罪など先端学者で、組織力もあるから、妥当な人事かもしれない。しかし、個人的によく知らないこともあるが、一度会食した際、印象が悪かったからいけない。やはり、癒し系ではないからかもしれない。その人といるとホッとするという感じがないからかもしれない。まあ、恩師はZさんと親しいから、Sollenの世界で、親しくなろうとは思っているが・・・。
ジャーニー to ザインとゾレン
| 2002年05月20日(月) |
祭りのあと、そして祭りの準備 |
刑法学会も無事終わった。毎度のことながら、昼の部と夜の部があるので疲労困憊である。もっとも、これは肉体的疲労であり、精神的疲労ではない。逆の方が数段疲れる。前者が小で、後者が大の場合である。祭りのあとの虚脱感、エンプチー感は、実は精神的にはさわやかなのである。学会はお祭りみたいなもので、休講、否、旧交をあたためる意味がある、と中野先生はよくおっしゃっていた。とすれば、報告等は(あまり)聴かずに、外でベチャクチャ喋っている、誰とはいわないが、その会員が真の会員かもしれない。祭りのあとのエンプチー感といえば、何といっても、昔の文化祭の後の「今日の日はさようなら」「悲しくてやりきれない」の合唱を思い出す。今は、カラオケでしか歌えないのだ。 学会夜の部は、金曜日には、G代K事法のI藤さんとT中さんとカラオケだった。学会でカラオケをやったのは、入会以来はじめてのことだったが、恒例化しても面白いかも。残念なのは、カラオケ好きのY口さんは来られなかったが、S伯さんの「オリビアを聴きながら」はしんみりした。おそらく、この曲を聴きながら、対話をしたのだろう。元気溌剌だったのは、前述のご両人はいうまでもなく、K斐さんとM生さん、そして私と、後から来た、N空君とM藤君であった。まあ、話題満載という感じだからこの辺でやめておこう。 それぞれの報告、分科会、ワーク等について、軽率なコメントもやめておこう。ただ、個人的には、もう少しショッキングなものが欲しい。岡本太郎は「何だこれは!」というのが最高であるといっていた。もちろん、これは芸術の世界のことであるが、若い人は強烈な問題意識と青臭い議論、若気の至りで「ええじゃないか、ええじゃないか」と思うのだが・・・。 祭りのあとは、次は祭りの準備である(この映画の趣旨は違うが)。6月に被害者学会、10月に犯社学会などなど、そして、また、刑法学会・・・。祭りは繰り返される。「また、来年お会いしましょう」という田宮先生の言葉を忘れることはできない。実際に会えることそれ自体がいかに重要かが分かる。とすれば、「やあ久しぶり」ということで、中で椅子に座っている暇などないこととなろう。 エンプチー感は、追われている仕事に没頭すると消えていくのが常である。今日1日で、G代K事法のRJ特集の原稿をほぼ書き上げた。祭りは日常性の破壊であるが、すぐに日常性が覆い被さってしまう。ドイツでの生活は、長い祭りだったのかもしれない。そして、それは夢なのである。 ホテルの朝食でM藤君の認識ある過失で熱いコーヒーを背中にこぼされ、熱い思いをした。この熱い思いだけは、学会において忘れてはならないことだろう。
(追記)学会において、この奇行の読者が思いのほか多いことが判明した。心して奇行ぶりを発揮したいと決意を新たにしているところである。
ジャーニー to 被害者学会(大阪市大)
今日は、K大とTY大を休講にして、成田高校へ模擬講義に行くことになっている。寝る前に奇行でも書こう。題名は、イタリアのボビー・ソロの有名な歌である。ジリオラ・チンクウェッティーなんていうのもいた。カンツオーネ流行の頃であり、伊東ゆかりががんばっていた頃である。もう何年前になるのか。 実は、涙をテーマにしたいがためである。S文堂のT中店長が、この奇行を読んで(どのテーマか分からないが)涙が出そうになった、というのである。N空君は、単に涙もろくなっただけじゃないかと分析するが、年をとると涙もろくなる原因論は何か。これはやはり、以前書いた「歴史の重み」だと思う。自分の過去のプロセスの中の何かに響きわたり、懐かしさと愛おしさが混合惹起されるのである。あるいは、「思えば遠くに来たもんだ」という感じか。あるいは、いろいろがんばってきたけど、所詮「人間なんて」という感じか。あるいは、これが重要だが、多くの人との出会いと別れがあり、それぞれが様々な糸で、想像を絶するくらい複雑に「つながり」合っていることを確認するからか・・・。そう、この「つながり」が共感となって「涙ひとたらし」となるのだろう。 土屋恵一郎『正義論/自由論』が岩波現代文庫版として再登場した。これは必読の書である。個人の自由と共同体との関係を考察する書であり、ロールズ入門書ともいえる。彼は、共同体思想に否定的である。しかし、修復的司法は共同体思想に基づくだけに、対決を迫られる。私は、ソフトな共同体思想論者かもしれない。やはり、「つながり」を重視するし、「勝手じゃん」という発想は嫌いである。だから、宮台・宮崎の評論にはついていけない。答えは、「風に吹かれて」という現状だが、人の「勝手さ」を制限するのは、人と人との「つながり」であるような気がする。それ以上は分からない。修復的司法の研究を通して、こうした問題を考える機会が多いのは幸運である。 この「つながり」の恐い面は、それが強力になると、悪しき共同体思想になり、排除の論理となることである。みんなバラバラでそれでいて共同体が自ずとできているというのが素晴らしい。何か良い具体例はないかなあー。学部のゼミとか私の研究室とか・・・しかし、メンバーをみると、天衣無縫者ばかりだから超バラバラで終わるだろう。バラバラの心地よさがそこにあるかもしれない。共同体形成はしんどいのである。だから、家族、夫婦、恋人など、一応共同体を目指すシステムは疲れるのかもしれない。それでは、刑法学会はいかなる共同体なのか・・・。 それにつけても(おやつはカール)、難産大は不便だなあー。
ジャーニー to バラバラが咲いた
1週間以上のご無沙汰である。IDもパスワードも忘れそうなくらいである。さらに、家のパソコンの調子が悪く、今はシグマリオン�兇能颪い討い襦� さて、今日は、択一日和である。いまだに受けている同期の友の顔が浮かぶ。しかし、その思い浮かぶ顔は、托鉢僧の顔ではない。満面に(高見)笑みリーなのである。何年も受けている人は不幸であると決めつけてはいけない。幸福か否かは、迷信犯をも不能犯ではなく未遂犯と解する純純主観説によるべきなのである。以前、こういう人は不幸だとか社会にとって損失だからなどと何らかの制限を設けようとしたが(理由は他にあるだろうが)、よけいなお世話である。その人の生き方を(他人に迷惑をかけない限り)、とやかくいう必要はないだろう。法科大学院によって、少なくとも一発勝負ではなくなるから、一生受け続けることはなくなるかもしれないが、受験資格の制限はやはりよくないだろう。 法科大学院のカリは難しい問題だが、どんな制度を作ろうとも、結局は人なのである。ダブルスクール排除といっても、大学の授業の意味を伝達できなかった我々の責任論が重要である。800人教室に20人じゃどうしようもない。絵に描いた餅である。その講義に出たいという欲求をどうしたら喚起できるかを真剣に考えるべきだろう。なりふり構わずである。 人を問題にすることはタブー化されている。問題にしてもしょうがないというか、みんな確信犯だから変えようがないのである。だから制度だけを変えようということになる。人を問題にすると不平等になり、これで多くの問題があったことは誰も知っている。しかし、もう少し人を問題にしていいように思うのだが・・・。 目隠しをしているユスティティアから、目を西川きよし並にパッチリ開けたユスティティアに変わってもいい場面がある。人格の陶冶を排斥しすぎてはいないか。 星飛雄馬と明日のジョーが1冊になって復刊連載である。これに感動してくれる若者が一人でもいればと思う。 拓郎の「人間なんて ららーらららららーら」を見よ。あのときの数え切れない多くの若者達の絶叫はどこへ行ったのか。この「人間」に、大学教員とか刑法学者とか司試受験生とかオーバードクターとか、各自具体的に挿入して叫ぼうではないか。字余りなところにつらい面があるが・・・。
ジャーニー to 次は論文(ローゾ)
| 2002年05月03日(金) |
奇行師と僕と私と・・・ |
個人的な日記を晒すことに抵抗がないのかという質問があったが、まったく抵抗はない。なぜなら、奇行師というキャラクターを背後の私がコントロールしているからである。まさに、「正犯の背後の正犯」である。しかし、それでは本当のことではないのでは、という疑問が予想されるが、本当のことが何かなど誰にも分からないのである。ただ、奇行師としての身分・地位として、この奇行を書くのみである。意識的か、無意識的か分からないが、一定のスタンスはすべてのことに備わざるをえない。たとえば、刑法解釈論についての論文を書くとき(さらに判例評釈など)と修復的司法についての論文を書くときとスタンスが異なるのは当然である。 ある意味で、人は皆ソフトな多重人格者なのである。K都大に移ったT山さんのHPにもきわどいのがあったが、あれはあれで素晴らしいことなのである。まさに、遠藤周作と狐狸庵、北杜夫と「どくとるマンボウ」である。私もこれを目指したい。 当たり前のことではあるが、我々は、身分や地位にもとづいて、いろいろな顔をもっている。親父として、パパとして、子として、夫として、男として、大学教員として、刑法学者として、友人として、後輩として、先輩として、そして、セブンイレブンに弁当を買いに行く(たまにである。かみさんの名誉のため・・・)おじさんとして・・・、切りがない。大学では教員として、学会では学者として存在するにすぎない。しかし、それを一度破壊することも面白いかもしれない。以前、新宿駅で、ソフィア・ローレン大のM野さんが小学生の息子さんと山かピクニックからの帰りのほほえましい姿を拝見したが、なぜか嬉しくなった。あのカミソリ学者(切れるという意味・・・同じか?)のパパの姿を見たのである。今度学会も、午前中全員で山登りをして、その後、その山登りのスタイルのままやるのはどうだろうか。和気アイアイであろう。あるいは、全員浴衣で町内会の拡大版というのはどうだろうか・・・。 結局、態度や言語のスタンスを決定するのは、やはり名宛人であろう。それでは、この奇行の名宛人は誰か。それは「癒しを求めるすべての人」と大風呂敷を広げておきたい。healingがキーワードである。ヒーリン・・ウオウオウオ・・ヒーリン・・という歌が聞こえる(あれはフィーリングである)。 大江は、障害児の光君を小説の中で「イーヨー」という名で登場させた。本当のことを彼は語ったのであろうか。彼が使う「僕」と大江自身・・・興味が尽きない。イーヨーは「クマのプーさん」にでてくる、臆病な馬?である。ちなみに、私は、娘にいまだに「プーちゃん」と呼ばれている。そのスタンスだけはけっして人前には出したくないと思っているわけである。
ジャーニー to シゴト・ハカドラーズ
河合隼雄さんが「論座」の連載を1書にした。『ナバホへの旅 たましいの風景』である。ナバホはお菓子のホームラン王ではない(あれは、ナボナである)。アメリカ先住民が住んでいる場所である。ナバホ・ジャスティスという修復的司法を実践しているところでもある。本書は、人と人、人と自然との「つながり」に焦点がある。「関係喪失」と「関係回復」という用語が最初から登場する。修復的司法は、まさに、関係喪失から関係回復へのパラ転と言えるかもしれない。ピュアリストであるN村先生の主張である。
たしかに、現代は関係喪失の時代であろう。電車の中の携帯メールを見れば分かる。携帯の相手とは関係があるようにみえるが、離れていることがすでに関係喪失であるし、となりの人との関係を一切遮断しているところに深刻な問題がある。「袖振り合うも多生の縁」は何処へ行ったのか。袖振り合うと殴られる時代である。うちのおばあちゃんは、電車やデパートで見知らぬ人に話しかけるくせがある(これもやっかいだが)。昔は、といってもつい最近までそういう雰囲気だったのに・・・。小学校から電車通学で、電車の中で気持ちが悪くなった時、必ず誰かが「坊や大丈夫?」と言ってくれたし、カバンの名札を見て、「たかはしくん」とほろ酔い気分のおじさんが言ったり、のどかだったなー。自分も含め、みんな急いでいる。それでは、何に向かってか?。 身近なところから、少しずつ変えていかなくてはと思う。「たましい」を問題にすることがなくなったからかもしれない。近代の弊害はかなり深刻である。刑政S先生の想う「早稲田精神の再生」は、おそらく、「たましい」を基本に据えて生きる人間の再生かもしれない。矛盾に満ちた人間が、矛盾のないように生きようとすることから無理がくる。もちろん、科学は矛盾があってはならない。しかし、月にロケットを飛ばすことと月ではウサギが餅をついていることとの両方を大事にしていかなくてはならないのである。後者によって救われる人々が大勢いることを忘れてはならないだろう。
そうなると、ナバホはポストモダンのホームラン王かもしれない。
ジャーニー to 安心ジャイアンツ
norio

|