スカーレットの心のつぶやき
つぶやき 目次|過去|未来
私の部屋に相田みつをさんのカレンダーが2つ並んでかけてある。
大きなカレンダーと小さな日めくりカレンダー。
どちらも私には大事なものだ。
相田さんの言葉を初めて本で読んだ時涙が止まらなかった。
娘がまだ小さい頃だった。
あの頃の私は初めての子育てで必死だった。
毎日毎日、朝から晩まで、否、24時間娘のことだけだったように思う。
本当に必死だった。
今思うと何であんなに一生懸命になったのだろう?と不思議な気がする。
娘が食べないと言っては悩み、
私よりも夫と仲良くするのを見ては落ち込み、
ピアノが上達しないといってはイライラし、
本当に母親として一番大事な「見守る」ということが出来なかった。
そんな時「トマトはトマト、メロンになろうと思わないでいい」という
言葉を知った。
そのままで良いのだと気づいた。
涙が止まらなかった。
娘を思いっきり抱きしめた。
あれから10年経ち、改めて相田さんの言葉の意味を考える日々。
心を元気に決して弱音を吐くまいと決めたとき、
「ぐちをこぼしてもいいがな
弱音を吐いたっていいがな
人間だもの
たまには涙を見せたっていいがな
生きているんだもの」
の言葉をもらった。
そうなんだ、弱音を吐いたって良いんだ、泣いても良いんだ・・と思ったら
少し楽になった。
悲しくて、辛くて、死んだ方が良いなんて思っていた時に、
「あのときの
あの苦しみも
あのときの
あの悲しみも
みんな肥料になったんだなあ じぶんが自分になるための」
の言葉に会った。
そうなんだ、今のこの悲しみや辛さがきっと私を大きくしてくれると思った。
言葉には魂がある。
人間だけが持っている言葉。
言葉は人を励ます反面人を傷つける。
何気なく言った言葉が相手にとっては相当の痛手になるときもある。
言葉はその人の心だから、私は言葉を大事にまた素直に表現していきたいと思う。
私の言葉が誰かの励ましになれたらこんなに嬉しいことはない。
ああ〜〜本当にため息が出る。
(メ▼.▼)y-.。o○ フーー
本当に情けない・・・
\(@;◇;@)/ぴぃぃぃぃぃぃ
こんなにも私は弱かったのだろうか?
自分が決めたことなのに、もう逃げ出したいと思っている。
行き詰っている。
何に?
(~ヘ~;)ウーン
人生に!
もっと楽に生きたいのにな。
何でも良いからとにかく楽しく明るく気持ちよく元気よく!
3歩すすんで2歩下がる。
すなわち毎日一歩ずつの前進。
アリのようでもかたつむりのようでも良い。
私は私なりのペースで進んで行きたい。
でも、時々嫌になるときもある。
投げ出して逃げて行きたいと思うときもある。
でも、私には家族が居る。
私の好き勝手なことはできない。
自分の思うままに生きられたらどんなに良いだろう・・・
束縛されない世界で、誰にも邪魔されず
好きなことをして
好きなように気ままに生きていけたら良いな・・
ここで言ってもただの愚痴になってしまう。
言う前に行動、
行動の前には熟慮。
そして結局もとのままなのだ。
堂々巡りの人生なのかもしれない。
これでも良いかと妥協して
これからの私の人生は展開するのだ。
これも私の生きる道かもしれないな。
なるようになる。
ケセラセラ!
人はどこまで残酷になれるのだろう?
中学三年の男子が親からの虐待を受け意識不明の状態だ。
虐待を受けていたこの男子は体重が24キロにまで減少し、
極度の飢餓から脳萎縮による脳障害を起こしていた。
また床ずれによって腰の一部分が壊死していたという。
中学三年生といえば、一番の食べ盛りだ。
特に男子なら食欲も旺盛だ。
そんな子が食べものも与えられず、痛いも言えず、
辛さも悲しさも、そして空腹さえも訴えることができないで、
部屋の中に放置されていた。
まさに地獄だと思う。
地獄よりもひどい生き地獄だ。
戦争で食べるものがなくひもじい思いをしていたのではない。
今のこの飽食の時代に、
何も食べることができないなんて信じられないくらいだ。
この親には親としての自覚や子供への愛情はなかったのだろう。
子供が欲しくても生まれない夫婦はいっぱい居る。
子供は親を選ぶことはできない。
貧乏でもいい、何もなくてもいい、
親から愛されていれば子供は間違いなく育つ。
甘やかすのではなく正しい躾は必要だと思う。
でも、今回は躾の範囲のことではない。
本当に殺人だと思う。
この父と母にも、息子が味わった思いをさせてやりたいと思う。
目には目をではないが、
わが身に起こらなければ一生わからないまま過ごすのではないだろうか。
かわいそうの言葉では簡単に片付けられないことだと思う。
鬼畜という言葉のとおりの親だ。
もしも命は助かっても生きる勇気もないだろうし、
思考力さえないこの男子が
死なないでこれからの人生を歩いていけるように、
様々な形で力になりたいと思う。
そしてこの男子が命を落とすことなく、
また時間がかかっても良いから
少しでも快復して笑顔が見える日が来ることを心から祈りたいと思う。
毎日の生活にちょっとした刺激がほしいと思う。
口癖のように母が言う「平凡が一番」と言う言葉に嘘はない。
でも、私は何かピリッとするものが欲しいのだ。
所謂、人生の香辛料が欲しい。
ラーメンの上にかけるコショウ、うどんにかける七味唐辛子のように
ラーメンやうどんの味を引き立たす役目をする香辛料のようなものが欲しい
のだ。
今まで生きてきた私の人生の中で私が失敗だと思うことがある。
それは本当の遊びの味を知らずに生きてきたことだ。
つまり、あまりにも真面目すぎた生き方しか出来なかったということだ。
何事でも一生懸命になり、頑張ってきた私。
時にはずるさや怠け心を持って生きてきたら良かったのにと思う。
50歳を過ぎ、人生の折り返し地点も過ぎた。
これからの残りの人生は私のものにしたいと思う。
一生懸命になって頑張ることをやめたい。
そして、少々のことには目を瞑ることができるようになりたい。
真面目だけが良いとは思わなくなったから、
時には人様から顰蹙を買うくらいのことをしてみたい。
本当に自分が一番楽しく生きられる方法を見つけたい。
お酒も賭け事も夜遊びもしたことのない私に一体何ができるだろうか?
毎日の生活をちょっとだけ刺激してくれる香辛料を見つけたい。
決して、人の道を踏み外すこのないよう、
でも、私の中での楽しみや刺激を求めて生きて行きたい。
たとえ、それが悪い結果になろうとも
私が選んだ道だから、泣いたり弱音を吐いたりせずに、
前を向いて堂々として歩いていきたい。
香辛料を入れすぎて食べられなくなるようなことのないように、
心して生きたい。
日替わりで選んだ好きな香辛料で、
動きの悪くなった頭や心に刺激を与えながら、
明るい明日を作っていきたいと思う。
「子供に教えるべきこと」についてある本にこう書かれていた。
親が子供に教えることは次に3つだと。
その3つとは、
�^Щ◆屬�早うございます」
��感謝 「有難うございます」
�2実未修蹐─ 峺綮亘�、責任を持つ」である。
�,琉Щ△和梢佑砲垢襪發里任呂覆�、自分のためにするものである。
挨拶は人と人とをつなぐ窓口だ。
だからその窓が閉じていたら、外の新鮮な空気は入ってこない。
挨拶をすることによって、窓は開き幸福がやってくる。
朝の散歩の時に自分から出会う人に「お早う」の言葉を言ってみよう。
10人のうち半分の人は挨拶を返してくれるはずだ。
そしてその中の1人か2人とは仲良くなって、話が出来るようになるかもし
れない。
それは自分が幸せになることだ。
挨拶は幸せを自分自身に運んで来てくれる。
幸せは向こうからくるのではなく、挨拶という心の交流の窓を開くことによ
って自分自身が招き入れるのだ。
�△里△蠅�とうは、感謝の言葉だ。
何にでも、誰にでも有り難いと思う感謝の心の持つことによって、
自分自身の気持ちがとても楽になる。
母が信心している眞の道教会の教えの根本が
この「有難うございます」という感謝の心なのである。
天地のものを粗末にしないことも、有り難いと思えばできることだ。
不満、不平を言わないことも、
自分の周りのことや人に感謝の気持ちで接していれば出てこないはずだ。
どんな時にでも有り難いと思う心、
感謝の心を持っていれば自然に心は幸せになってくる。
人を恨まなくなり、自分自身が満足できる。
�2実未修蹐┐箸いΔ海箸蓮∪嫻い鮖�つときうことに繋がる。
出したらしまう。
借りたら返す。
簡単そうでなかなかできないことだ。
日常の生活の中で、食事の時に座ったイスを元に戻す。
使ったものをきちんと合った所に戻す。
靴を脱いだらきちんとそろえる。
この何でもないことが、人生の中で自分がしたことに責任を持つということ
に繋がるのだ。
私はこの3つは自然に出来るようになった。
娘が小さい頃から教えていることでもある。
今のこの殺伐とした世の中で、人と人との出会いや触れ合いを大切にしたい
と思うなら、 これら3つのことを子供達に教えていこう。
そして私たち大人もこの3つのことを実行していきたいものだ。
私が今月から始めたヴァイオリンについて、
周りの人は皆「あなたのチャレンジ精神には感心する」と言う。
この私のチャレンジ精神は自分でも不思議だと思うほどだ。
私は元々が消極的な人だった。
そんな私が変わってきたのはいつごろからだろう?
色々な病気をし、人生を諦め、自暴自棄になっていた頃の私には
想像もできない世界だ。
多分、娘が生まれてから変わったのだと思う。
「母は強し」という言葉のとおりだ。
それまではいつも後ろしか見なかった私が、娘の未来を思うとき
過去ばかり見ていては駄目だと気がついたのだ。
未来は果てしない。
その果てしない未来を自分にとって素晴らしいものにするか
それとも暗いものにするかは自分自身の心が決めると思う。
もしも今何かをしてみたいと思うなら、
できるだけ実行したいと思い出したのだ。
それは私の残された時間が少なくなったからかもしれない。
ヴァイオリンだけではなく、何かに興味を持ちやってみたいと思うと
居ても立っても居られない気持ちになるのだ。
だから考えているより直ぐ行動を!ということになる。
その行動力が何所から来ているかは分からない。
でも、何もしないで人生を終えるのは淋しいと思う。
やれる、やれないは別にしても何かに挑戦してみたいと思うだけでも良い。
結果が問題ではない。
その過程が大事だと思う。
一つの目標に向かって一段一段登っていく気持ち、
初めから出来ないと思わない気持、
やろうと思う気持ち、
それらが大事なのだと思う。
結果を出そうと思わずに、その結果にいたる過程が大事なのだと思う。
そしてもしも本気でやりたいと思うことなら、
たとえ、失敗しながらでもしている過程の中に幸福感が生まれると思う。
これからも興味を持ち、やってみたいと思うことに挑戦し続けたいと思う。
| 2004年01月23日(金) |
大きな誤解と小さな幸せ |
今、自分が不幸だと思っている人へ。
今、何故か世の中の不公平に文句のある人へ。
今、悲しくて辛くてたまらない人へ。
今、とても焦りを覚えている人へ。
私は言いたい。
それらは皆大きな誤解だと!
そして私自身に言いたい。
「小さな幸せを探そう」と。
私はどうかしていた。
血迷っていたのかもしれない。
もっと堅実に生きていくことを真剣に考えるべきだった。
確かに今の私は決してチャランポランな生き方をしているとは思わない。
でも、直ぐに落ち込み、直ぐに悲しくなり、直ぐに自暴自棄になる私。 こんな私も少しずつ勉強をしてきた。
そう、勉強。
この世の中を生きていく上に必要な勉強だ。
学校の勉強だけが勉強ではない。
これは娘に言いたいことでもあるが・・・
世の中の出来事をそのまま受け入れることができたら
上に書いたような気持にはならないはずだ。
反対に、自分自身の小さいけれど心から思える幸せに近づくことが出来るよ
うな気がする。
自分自身の近くに転がっている小さな幸せ。
この小さな幸せを見つけることができる人は
絶対に大きな誤解をしない人だと思う。
一日の中で、自分自身が一番落ち着かれる場所へ移動してみよう。
そこは野原でも海でも山でも何所でもいい。
最初は不便だろうけれど、人は適応するものだから
いつかはきっと慣れて平気になり、いつの間にか自分がなんでこんなことで
悩んでいたのだろう?
と思うはずだ。
確かに人生はやり直しはきかないけれど、
間違っていると気づいたら、修正することは出来る。
人にどう思われようが迷惑をかけないなら
我慢しないで自由に心を泳がせてみよう。
そして、大きな誤解をしないで、小さな幸せを見つけよう。
大きな幸せを探しながら、今の自分のそばにあるた小さな幸せを大事にしたい。
こんな歌があったな・・
「心凍らせて」
女心を歌った歌。
今日は本当に寒い。
体もそして心も凍るくらいに寒い日だ。
雪が降り、家の中に閉じこめられたら
何となく人恋しく感じるだろう。
でも、私の周りには雪はない。
凍らせるほどの冷たさもない。
これが今の私には救いになっているのかもしれない。
もしも本当に外が凍るほどの寒さならば
私のこころも凍ってしまうかもしれないから。
春は必ずやってくる。
たとえ、私が立ち止まっていたとしても
向こうからやってくる。
もう少しの辛抱だ。
冬眠するのも良いけれど、
今の私にはそんな時間はない。
今日もやるべきことはいっぱいある。
考えていないで行動しよう。
外は晴れている。
心を凍らせないでいてくれるのだ。
有り難いことではないか!
さあ、防寒のためにブーツを履き
ダウンジャケットを羽織って出かけるぞ!
誰にでも人生の中で、決断しなければならない時があると思う。
その決断が苦しく辛いことであっても、
その時にどうしても決めなければならない時がある。
決断するということは、何かを選ぶことになる。
そして、何かを選ぶことによって
何かを捨てることにもなるのだ。
優柔不断な人が居る。
その人はいざと言うときに自分自身の気持ちを決めることができないで
迷い、決断できない人。
その人たちはとてもやさしく、柔らかい人なのだろう。
人を傷つけたくないから、
人への思いやりが深いから、
自分が決断することによって
誰かを傷つけることになるかもしれないと思うと
決められないのだと思う。
でも、よく考えてみたら
このやさしさややわらかさは嘘に思える。
いくら辛くても、いくら人を傷つけることになろうとも
決めないで迷うほうが人を傷つけることになるかもしれないから。
その時には誰かを傷つけるかもしれないけれど、
また、自分自身も傷つくかもしれないけれど、
後で考えた時に、あの時にきちんと決めて良かったと思えるに違いない。
そして、味わった苦しみや辛さが消えているのに気づくであろう。
時は流れている。
人の気持も変わっている。
事態も変化している。
だから、ひと時の苦渋のために
大事な決断をしないで後に延ばすことは
決して良いことではないと思う。
私は今決断すべき時を迎えている。
確かに今決めることは辛くて苦しくて、悲しい。
でも、このままずっと今の状態で居ることの方が
気持ちを引きずって生きる分、辛さも苦しみも大きくなるに違いない。
さあ、決断しよう。
結果に拘らず、今私自身が良いと思うことに決めたい。
そして、その決断はきっと明るい未来へと続いていると思う。
花を買いたいと思った。
真っ赤な薔薇を。
たった一輪の薔薇を。
そして一輪の深紅の薔薇を買い求めた。
マイク真木の歌う「バラが咲いた」という歌を思い出した。・・・
「♪バラが咲いた、バラが咲いた真っ赤なバラが・・
淋しかった僕の庭にバラが咲いた・・♪」
何故、今日買いたいと思ったのが真っ赤な薔薇だったのか?
私の好きな花は白い花。
そしてやさしい花だ。
薔薇の花は確かに美しいけれど、あまり惹かれる花ではなかった。
それなのに、何故今日は真っ赤な薔薇を買いたいと思ったのだろう。
この歌のように、私の心が淋しかっただろうか?
私の心の庭に真っ赤な薔薇の花を咲かせたかったのだろうか?
いくらやせ我慢をして、明るく元気に前を見て歩いてこうと決めても、
本当は泣きたいくらい淋しい思いをしているのだろうか?
買い求めた真っ赤な薔薇の花をずっと見ていた。
綺麗な黄緑色の茎が真っ直ぐに立っている。
少し濃い緑の葉は、3枚ずつまるで誇示するかのように元気だ。
痛い!と思ったら、あの三角形のとげで手を傷つけていた。
少しだけ血が滲んだ。
でも、私はそのまま薔薇を見ていた。
花びらは一枚一枚、自分たちの場所を知っているかのように
上手く重なっている。
ほんのわずかではあるが良い香りがしてきた。
100万本の薔薇をこの胸に抱くことができたら
きっとこの香りにむせるかもしれないなと思った。
見ているとこの一輪の薔薇の花が私を少しずつ元気にしてくれた。
そして、知らぬ間に墨をすっている私が居た。
言葉が次々に湧いてきた。
相手の顔が浮かんできた。
私は絵手紙を描いた。
心の中のものを全て薔薇の花に託して。
「有難う、そしてさようなら」
| 2004年01月19日(月) |
人の心は・・・移ろいやすく |
人は変わる。
人の気持も変わる。
これはどうしようもないことだ。
私だけは絶対に気持は変わらないと言えるだろうか?
変わることを批難できるだろうか?
私は人の気持が変わることを受け入れたくないという気持ちがあった。
変わることを受け入れることが出来ず、変わるということはもうそれで終わ
るということだと思っていた。
だから、人の気持が変わることがとても辛かった。
悲しかった。
でも、相手を自分と同じように一生変わらずに居て欲しいと思うことはただ
単なる我儘なのかもしれない。
子供なのかもしれない。
子供は変わるのを嫌がる。
いつまでも同じ状態で自分のものにしておきたいと思う。
それは純粋でもあり、また心が成長していないのだと思う。
もしかしたら、私は年だけ取っても本当の意味での大人になれていないのか
もしれない。
人の気持ちが変わるのが怖くて、不安でいつも怖れている。
そして変わらないで欲しいと願っている。
本当の大人ってどうなんだろう?
本当の大人の条件はいっぱいあるだろうけれど、
別れをちゃんと自分自身の中で受け止めることができること。
これが本当の意味での大人なのではないかと思う。
本当の大人は、何かを失うことが辛く悲しいことであっても
その失うという現実をきちんと真正面から捉えることができる。
自分がどんなに必要だと思っていても、手放さなければならないということ
を知っている。
そして、自分自身から離れて行ったことに悲しんでばかりいるのではなく
失うという本当の意味を知らなければならない。
失うものがあるからこそ、また得るものもあるのだと思う。
別れがあるから出会いがあるのだと思う。
人が変わるということをきちんと受け止めることのできる本当の大人になり
たい。
夫に聞いてみた。
「人間にやせ我慢って必要だと思う?」と。
夫は次のように答えた。
「ここだけは絶対にひいてはいけないと思うとき、
自尊心を持ち続けないといけないとき、
こんなときはやせ我慢が必要だと思う。
貧乏していて、何かいい条件を与えられた時、
その条件を受け入れたとき、
その場はいいかもしれないけれど、
一生敗北感に悩まされるかもしれない・・
そんな時にはやせ我慢は必要だと思う。」と。
私も時にはやせ我慢は必要だと思うのだ。
何かの決断をするとき、人生の中で苦渋の選択をしようとするとき、
自分自身のプライドを保っていきたいと思うとき、
元気に、やせ我慢をしながら、前を向いて凛として決断して実行することが必要だと思うのだ。
別れは特にそうだと思う。
悲しみと苦しみだけだとしても、次に踏み出そうと思うなら
自分の中で思い切って背中を押しださないといけない。
踏み切り板を思いっきり強くけって跳び箱を飛んだときのように。
別れは人だけではない。
時間との別れ、
ものとの別れ、
どうしようもない距離感、
そのような諸々のものを全部ひっくるめて、決断したいと思う。
真っ直ぐ前を見て、顔を上げて歩いていきたいと思う。
そう、女の意地、プライド、痩せがまん。
全てを前に踏み出すエネルギーに換えたいと思う。
新しい明日に向かって。
あのタラの地で言ったスカーレットの言葉のように。
今朝5時46分、私は合掌して黙祷をした。
私の中で時間は止まっていた。
9年前のあの日の朝も今朝と同じように台所に立っていた。
揺れを感じて心は動揺したけれど、使っていたガスの火やファンヒーターのスイッチを切ることができなかった。
その後TVで流れるニュースに目が釘付けになった。
神戸の街が火に包まれ、たくさんの犠牲者が出たことが分かるに連れて 本当に恐怖心が湧いてきた。
私の大好きだった神戸の街、
思い出のいっぱいあるあの神戸の街が、
真っ黒な煙と真っ赤な炎と共に焼け崩れていく様子を見るのは悲しかった。
6433人の犠牲者を冥福するローソクの火、
この一本一本のローソクの火を、家族はどんな思いで見つめているのだろうか?
まだ終わってはいない。
きっと家族にとっては一生心から消えることのない悲しみだと思う。
去年訪れた神戸の街は、震災があったとは思えないほどの復興を遂げていた。
焼け落ちた所には新しい家が次々と建って綺麗になっていた。
ひび割れた道路もなく、まるで何事もなかったような神戸の街。
でも、あの一番被害のひどかった長田区の人口は80パーセントにとどまっているという。
一人ぐらしをしている老人のうち誰にも見取られないで孤独死をする人が多い。
この目では見えない傷跡は今も残っているのだ。
今日の朝日新聞の天声人語の最後に書かれていた言葉がとても印象的だった。
「これはいつかあったこと。
これはいつかあること。 だからよく記憶すること。
だから繰り返し記憶すること。
このさき
わたしだちが生きのびるために。」
今年は震災後10年目に入る。
私の母は今年83歳になる。
6年前に大病をしてから随分年をとった気がしてならない。
私にとって、母の存在は特別なものだった。
否、今も同じように特別なものだ。
それなのに、この頃は私は自分のことばかり考えていた。
母のことを気にかけながらも、元気で居てくれるから安心していたのだと思う。
今日母の歯医者への送り迎えをした。
歯の具合がずっと悪かったらしい。
辛抱しきれないでとうとう入れ歯をやり直す気になったという。
あれほど母のことが大好きで大事で私と一卵性双生児のごとく居たはずなのに、
私は母の歯の具合の悪いことにも気づかずに居た。
母に心でごめんと言った。
母は私に悪いと言って遠いのに電車で行くと言った。
私が母にしてあげられることは車を出すことしかできないのに、
私はたったそのくらいの親孝行でさえ、自分のことに気を取られて忘れていたのだ。
情けない。
こうして私は私の一番大事な家族でさえ忘れて行ってしまいそうだった。
私には現実を思い出させる家族が居る。
段々年老いていく両親が居る。
私は私、勿論それは正しいと思う。
でも、私には忘れてはならない人達が居るということを覚えていなければならない。
もう少しで私は私のことばかりに気を取られて後で後悔する結果を招くところだった。
もっと私は今立っている地面を見つめていなければならないのだとつくづく思った。
母に私のできることをしてあげたいと思う。
そして今の私の幸せは私一人が作り上げたのではないということを忘れないようにしたい。
あのときのあの気持ちは今何処人の心の頼りなさ
流れ行く月日と共に忘れるという特技の有り難さ
何にでも一生懸命取り組んだでも人の心は力及ばず
夢に見た二人で歩く京の町紅葉の季節に行こうと言っていた今は本当に夢
極限の状態になってみて分かる生きる嬉しさ&難しさ
期限切れの二人の思いはもう腐りかけ冷蔵庫に入れておけばよかった
ヒストリーこれはもう過去のことなのか惨さと悲しさばかりのツゥデイ
ゆっくりと焦らず投げず諦めず日々の積み重ねが明日につながる
期待はしない現実を見つめて歩くと決めたから今を大事に生きていこう
ちょっとした勇気と思いやりがあれば良い人は人として生きられる
嘘のない心で居たいあの頃の澄み切った空のようなあなたへの想い
三日月を眺めながら思うこと私の心は限りなく広く尊く彼方へ続く
生きているこの意味を改めて考え納得でも平凡な人生に一つの焦り
楽しかった思い出が多すぎるその分悲しさも津波のように押し寄せてくる
自分自身の行動と心が伴わないことって駄目なことだと思っていた。
ずっと昔から、そう思っていた。
だから思う通りに生きることが出来ればどんなに良いだろうかと思っていた。
でも、最近は行動は行動、心は心だと思えるようになってきた。
心は自由だから。
私の心は誰にも束縛されず自由なんだと思うから。
人を想うことも自由。
人を憎むことも自由。(憎む心なんて今の私には存在しないけれど)
自分の心は心を割り切れるようになった。
少しだけ強くなったのかもしれない。
心に傷を得ると、その傷を治すまでには時間もかかる。
でも、治ったら、癒されたら、その心はとても強くなるように思う。
今までの私の心はいつも何かに縛られているような気がする。
何かをしたいと思っても、制約を感じてしまう。
もっと自分自身の心に素直に、心を自由にすることはできないのだろうか?
我儘かもしれないけれど、もっと自分の気持に正直にしたいと思う。
私の心は自由に泳ぎたいと願っている。
自由に!
自由を求めて!
私を理解してくれるとか理解してくれないとかの問題ではない。
私自身の気持の問題である。
少しは強い自分になりたい。
人へ気を使うことだけの人生には疲れた。
心の自由!
これってやはり我儘なのだろうか?
この頃よくあるのだけれど、
このお腹というか、胃というか・・
この辺りにとても激しい痛みを覚える。
まるで胃に穴が空いているのではないか?と思う位の痛みだ。
私は正直なところ、病気に関しては神経質ではない。
他のことでは結構神経を使い、心配したり悩んだりするくせに、
事、病気に関しては気にならないのだ。
しかし、これは私自身の病気のことであって、
家族や友人の病気のことはとても気になってしまう。
私が自分の体のことについて心配しないのは、 心配してもどうしようもないということもある。
また、他の人よりも小さい頃から病気に慣れているからかもしれない。
何か重い病気になったとしても、気にならない。
これは決して強がりでもなくやせ我慢でもなく、私の正直な気持だ。
最近よくあるこの胃の痛みも自分の中では別に良いや・・と思う部分がある。
でも、痛みは嫌だ。
痛みがあると他のことに集中できないから。
忘れることができないから。
食事も摂れなくなるから。
人の心と体が切り離せないと思う。
心が元気でも痛みは感じる。
でも、その痛みについて気にするのと気にしないのとの違いがある。
気にしても気にしなくても痛むのは同じだ。
この痛みが消えれば食事もしたいと思える。
ヴァイオリンの練習にも集中できる。
この頃は食べることに気持ちが行かない。
おなかも空かない。
食欲もあまりない。
一食抜いても平気だ。
これは心からくる所謂神経性食欲不振症ではないと思う。
機能的に食欲が出ないのだと思う。
否、そう思っているだけか?
やはりこの間からのあの出来事が尾を引いているのだろうか?
分からない・・
でも痛みは嫌だ。
少し楽になったらヴァイオリンに向かおうと思う。
| 2004年01月12日(月) |
必要とされるということ |
人は一人では生きていけない。
誰かと一緒に、また一人でも誰かと関わり合いながら生きている。
もしも自分が誰にも人に必要とされないとしたら?
生きる意味がないように思うのではないだろうか?
自分がこの世に居ることだけで誰かのためになっていると思えるからこそ
生きていけるのではないだろうか?
これからの高齢社会の中で、高齢者の生きる場所、生きようと思う意欲、こ
これらのことを考える時、
やはりその人が必要とされているかに掛かってくるのではないかと思う。
何もかもに恵まれ、満たされていたとしても、その人のするべきことがなかったらきっとその人は生きる意味を見出さないだろうと思う。
年をとっても尚、元気で居る人達を見ると、皆何か毎日自分のするべき仕事を持っている。
そして家族はその仕事を高齢者にしてもらうことに感謝している。
家族の中での自分の役目のあることが大事なのだと思う。
高齢者だけではなく、私も今私がこうして生きていることを必要としてくれている人達が居るからこそ生きていけるのだと思う。
私を必要としてくれる人達のためにも私は生きようと思う。
それは決して人のための人生ではなく、私自身の人生だと思うから。
人に左右されるのではなく、私自身が考え、選んで生きる道だから。
| 2004年01月11日(日) |
思い残すことのないように・・・ |
昨日に引き続いて思うこと。
それは今私がしたいと思うことをしておきたいと思うことだ。
思い残すことのないように!
親友と話していてつくづくそう思った。
私は今は自分の死というものを感じない。
でも、今から15年くらい前までの私はいつも自分の死というものを身近に感じていたように思う。
身近に感じるというのではなく、いつも死というものと隣り合わせに居たような気がする。
今も死というものを怖いと思わないのは同じだ。
いつ死んでも良いと思う。
人は生まれてきたときから死に向かって歩いて行っている。
死は絶対に避けることのできないことだ。
私がもしも悪い病気で後数年の命だと言われたとしても、
決して取り乱したり、ショックで立ち直れないことはない自信がある。
もしもそう言われたら、後の数年の間にし残しのないように、自分が一番やりたいことをしたいと思っている。
この最近の私は何かに急かされるように新しいことや今まで出来なかったことをしようとしている。
何故だろう?
私にはもう時間がないのだろうか?
分からない・・・
でも、思い残すことのないようにしたいと思う。
私の人生は私のもの。
私が主人公なのだ。
心残りのない、後悔のない人生を歩いていきたいと思う。
この頃つくづく思うことがある。
今のこの時間は二度と返ってこないと。
私には高齢な両親が居る。
夫の両親も年をとってきた。
今は4人とも自分たちだけで何でもできて、私に面倒や心配をかけることはない。
でも、いつかはきっと何かが起きると思っている。
昨日も実家の両親を医者に連れて行った。
昨日の診察の結果では今すぐどのこうのということはなかった。
少し父に(・_・?) ン?と思うところがあり、血液検査の結果待ちだ。
結果次第では新しい展開になるかもしれない。
夫の父も今月の中ごろにある病院での精密検査を受けることになった。
こうして元気だった親たちが段々と弱り、病院通いや寝込むことになるのだと思う。
私はずっと自由に何でも出来ていた。
そして、それが当たり前のように思っていた。
有り難いとは思っていたけれど、その度合いは小さかったと思う。
この間から始めたヴァイオリンのレッスンも、こうして好きな時間PCに向かうことも、これからはどうなるか分からない。
だからこそ、始めたのかもしれない。
今だからこそ出来ることをしておきたい。
この自由に使える時間のある時にしておこうと思った。
今なら時間はある。
体に無理のない程度に頑張れる自信もある。
今できることを!したい!
つくづくそう思う。
私はいつも思う。
分かるということは本当に難しいと。
頭では分かっていても、心で分からないことがいっぱいある。
また、その時は分かっていると思っていても
それが後では全部わかっていないということが多々あるのだ。
情けないとは思うけれど、
反対に、そんなに簡単に物事が分かってたまるか!という気持ちもある。
色んなことがあって、とても辛い時期に、自分自身が楽になりたいために良いように思おうとすることがある。
そして、その時は一生懸命にそう思うようにしている私。
何とか少しずつ心も癒されて立ち直れるようになってきたと思っている。
それが、突然何かの時にど〜んと落ち込んでいまうのだ。
結局それは何もわかっていなかったのだと思う。
分かるということの難しさをつくづく感じる。
昨日のヴァイオリンの初レッスンで、色んなことを始めて知り、経験した。
文章を書くことや、絵手紙や、漢検の勉強は私がすればするほどの結果が出ていた。
そして、何とかできるって思う気持もあった。
でも、昨日から始まったVnのレッスンは今までのそんなこととは大違いだった。
これは本当に分かるということとできるということに大きな差があるのだ。
昨日も先生に説明を受け何とか分かって帰ったつもりだった。
でも、夜復習をしてみて、何もわかっていなかったことに気づいた。
頭では分かっていても体で分かっていなかったのだ。
心で分かるのでもない。
理論的に納得するのでもない。
これは自然に体が分かるものだ。
分かるということよりも体で覚えるということかな?
感覚的なもののように思う。
慣れかもしれない。
自然に取得できるのかもしれない。
私は思う。
分かるということが難しいなら、分かろうと思うだけにしようと。
出来なくても良いじゃないかと思うことにした。
そうしたら少しだけ気持ちが楽になってきた。
そう、無理をしない。
頑張り過ぎない。
一生懸命に努力してもその努力の結果が比例して出るものでもない。
レッスンの前に思った「ぼちぼちに」とこれからも実行しよう。
今は分からなくても、いつかは分かると思うから。
| 2004年01月08日(木) |
良いパートナーとは? |
ある本で「パートナーの6つの条件」というのを知った。
その条件とは次の6つである。
�� 人間として成長しようとしている
�� 素直な感情表現ができる
�� 高潔な人格を持っている
�� 人間的に成熟しており、自分に責任が持てる
�� バランスのとれた自尊心を持っている
�� 人生にポジティブ(前向き)に取り組んでいる。
私はこの6つの条件を見て、はっとさせられた。
私にはこの6つのうち、どれだけができているだろうか?と思った。
夫にとって私というパートナーは果たして良いパートナーだろうか?
私がこの6つの中で出来ているのは�△料把召粉蕎霽集修�できるだけのような気がする。
ああ〜〜情けない・・
相手の見た目とか、特徴とかではなく、人格を見なければならないことを忘れていた。
これら6つの条件を満たしている人なら、安心して付き合っていけると思う。
恋はいつかは冷める。
夢中になっていた時期から反発の時期、そして落ち着いた関係になり絶対的な関係になるまでに、大抵の人たちは別れてしまう。
お互いに夢中になって相手が見えないときがある。
それが付き合っていくうちに色んなことが分かり、喧嘩もしながらお互いに理解しあっていくことが大事だと思う。
いくら激しい恋愛感情で結ばれた夫婦でも、年月が経つにつれてはじめの感情は段々となくなっていく。
そんな時こそ、本当に相手の人格を見なければならないのではないかと思うのだ。
私はこの6つの条件を少しでも満たすことができるように努力しようと思う。
今までの私はいつも人の評価ばかり気にしていたのかもしれない。
人に偉いと思って欲しい、
親に褒めてもらいたい、
そう思って一生懸命に努力はする。
でも、自分の中での達成感が感じられない。
だから、いつも何か不完全燃焼のような、何か満たされない気持ちがするのだ。
人にどう思われようと、自分自身の気持ちの中で満足していればそれで良いではないか!
人にどう思われようと私がこれで良いと思えたらそれで良いのだ。
人生は決して人のためのものではない。
自分自身のものだ。
だから、私の中で満足して楽しければそれが一番。
もう人の評価を気にするのはやめよう。
このHPだって、私の自己満足の世界で良いと思えるようになった。
だから、今までのように無理をしないようにしている。
勿論、見てくれる人達に良い感じを持ってもらうのは嬉しいものだ。
でも、まずは私自身が満足して楽しいものにするのが大事なことだと思う。
明日から始まるヴァイオリンのレッスンだって、
人のためにするのではないから、
私のペースで私が満足する音を出せればそれで良いと思うのだ。
私が私のための楽しみで始めるのだから。
絵手紙もそうだ。
私が描きたいと思ったときに描けば良いのだ。
何でも、私の中で満足感が持てればそれで良いと思えるようになった。
これもこの間からの辛かった思いをしたお陰のように思う。
立ち直れないと思っていたけれど、これも人に左右されているからだと思った。
私の人生だ。
私の中で一良いように生きていこう。
私の悪い癖で、昨日から何も手につかない。
家事をしていても気持ちが入らない。
考えてもどうしようもないことなのに、考えてしまう。
考えてどうにかなる問題なら、とことん考えれば良いだろう。
そうでないなら、考えるのをやめなければ。
無駄な考えは心身を疲れさすだけだ。
明るく気持ちを持ち、何事にも感謝の気持ちを持っていれば 自ずから良い方向へ向く。
朝、起きて笑顔でにっこり。
人に会えばこちらから「こんにちは」の挨拶をする。
仏頂面ではなくて、にっこりと微笑んで・・・
好きなピアノの蓋を開ける気にもならず、
絵手紙も今年になって一枚も描いていない。
8日から始まるヴァイオリンのどうでも良い・・と思ったりする。
ああ〜〜情けない私だ。
こんな私は私自身が一番嫌いな私だ。
本当にもう考えることはやめよう。
前を向こう。
後ろは見るまい。
前進あるのみ!
どこかへ旅に出てみようか?
何所へ行っても同じだとは思うけれど・・・
この私の心のもやもや、ぼろぼろが消えるなら、それも良いかもしれない。
逃避したい!
卑怯だと言われても良い。
今のこの状態から逃れたいのだ。
どこかで私のことを「卑怯者!弱虫!」と叫んでいる声が聞こえる。
「助けを求めても誰も助けてくれないよ」と言っている声が聞こえる。
「自分で立て!」とう言っている声が聞こえる。
そして、「分かってるよ。でもそれが出来ないんだよ。」と 心の中で叫ぶ私が居る。
今日は2004年の仕事始め。
お正月気分から抜け出して日常の生活に戻る。
なんでも始まりはある。
どんなスタートの仕方でも始まりは嬉しいものだ。
勿論先を見て少しは不安に思うこともあるだろうけれど、
大抵は未来へ向けて明るい気持ちでスタートを切る。
私も後ろばかりみていては仕方ないと思う。
始まりがあったからこそ、終わりを迎えるのが当たり前だと思おう。
人は死に向かって歩いている。
終わりのない無限というものが存在するとすれば、
それは一人一人の心の中に存在するのだと思う。
自分自身の環境や周りの状況が如何に変わろうとも、
心さえ変わらなければ全て変化しないのだ。
心の中に今までずっと思っていることを忘れずに
残し続けることができればそれで良い。
私の周りの状況も日々変化している。
その変化に私自身の心が左右されることなく
私の心の中に大事なものを永遠に存在させ続けてさえいれば良いのだ。
始まりのあの楽しかった思い出は思い出として否定しなければ良い。
何も消す必要なんてない。
一人が心の中で懐かしく思えば良いのだ。
でも、もっと心を強く持とう。
私の心は私だけのものだ。
私が一番楽なように、また幸せになるように、
私が私の心を支配したい。
感動とは、感じて動くと書く。
そのとおりだと思う。
私は単純馬鹿だから、何でもに直ぐ感動する。
絵をみてもそう。
音楽を聴いてもそう。
映画を観てもそう。
本を読んでもそうだ。
そして悪い癖で直ぐに自分自身に結びつけるところがある。
小さい頃からいつも私がその中の主人公だったら?とか
私があのピアノを弾いているんだとか、
私があの絵を描いたとしたら?とか・・・
人が聞いたらきっと呆れられるであろうことを思ってしまう。
そしてすぐにやりたくなるのだ。
できないことは分かっている。
年を重ねるにつれて自分自身の能力のなさを嫌というほど知らされたから。
なのに、まだ私にはその癖が直っていない。
感動してすぐに行動に移す癖だ。
今朝、「題名のない音楽会」を見た。
あの有名なストラディバリの最高傑作の幻の名器デュランティを使っての 千住真理子さんの演奏だった。
夢のようにうっとりとして聴いた。
そして愛のあいさつを聴いていると自然に涙が出てきた。
感動した。
名器の奏でる調べは聴いている人達へ何かを訴えたかったのではないかと思った。
素晴らしい!
やはり音楽は良い!
人の心に響いてくる。
心がふるえてくる。
8日から始まるヴァイオリンのレッスンがまた違った意味で楽しみに感じられるようになった。
私がもしも聴く人に感動を与える演奏ができたなら?
こんな素晴らしいことはないと思う。
感じて人を動かすことが出来たらどんなにステキなことだろうと思った。
| 2004年01月03日(土) |
無限の宇宙、無限の愛 |
ちっぽけな私。
そのちっぽけな私の心の狭さよ。
この宇宙の無限さに比べてなんというちっぽけさか!
愛は無限なのか?
無限の愛なんて存在するのか?
会いたい!
あなたに会いたい!
会えないこの心はあなたを求めている。
悲鳴を上げている。
どうしようもなく淋しい。
「空の彼方にいるあなた、会いたい気持ちよ天まで届け」
あの絵手紙のトンボのように羽があったら直ぐにでも飛んで行きたい。
会えるなら・・・
どんなことでもして行きたい。
私の心の中にあなたへの想いは限りなく広がっている。
限りなき宇宙のそのまた彼方に居るあなたに逢いに行けたら、
私はどうなっても良いとさえ思う。
新しい翼がほしい。
あなたへの想いを伝えることができるなら
どんなことでもしたいと思う。
それが100パーセントに近い不可能さだとしても
残りの可能性にかけてみたい。
ああ〜〜〜〜〜
私の新年の叫び声はあなたの元に届くだろうか?
今日はお正月の2日。
初夢は何を見たのかな?
「一富士ニ鷹三なすび」と言うけれど・・・
私は夕べみた夢を覚えていない。
なにも見なかったのか?
見たけれど覚えていないのか?
どちらだろう?
今日は店の初売りだ。
今年初めての買いものに出かける人も多いはずだ。
今日はこれから松山へ行ってみようと思っている。
8日から始まるヴァイオリンのレッスンのための譜面台を買いに行こうと思う。
昨日と今日家事をせず、こうして好きなことばかりしているのが有り難い。
母は元気なうちはこうして甘えることが出来るのだろう・・・
でも、いつかはそんな日もこなくなることは確実だ。
考えると悲しくなるのでやめた!
過去は振り返らないと決めたけれど、良いことは思い出に残しておきたい。
後悔はしないけれど、そして過度な期待も持たないけれど
時には懐かしい思い出に浸りたい時もある。
あの時に、あの別れ道を選びなおすことはできないけれど、
今こうして居る私を悲しまないようにしたい。
揺れ動く女心の中で、確実に一歩一歩歩いていこう。
そして、必ずこれでよかったと思える未来を見つけよう。
2004年の幕開けだ。
穏やかなお正月だ。
昨日から夜が一夜明けただけななのに
何故か心が新たになる。
今年はどんな年になるだろう?
どんな年にしようか?
いつも思いながらも出来なかったことをしたいと思う。
まず考え方を前向きにすること。
後ろを見てばかりでは何も始まらない。
済んだ事を後悔しても仕方がない。
何でも前向きに、心を元気に歩いていきたい。
ヴァイオリンのレッスンも始まることだ。
新しいこと、生まれて初めてのことに挑戦する年だ。
無理をせず、焦らず、あるがままの私で生きたい。
心は自由に捉われず、
一日一日を大事にして、
私を支えてくれる人たちとの交流を大事にして、
身近な小さな幸せを大事にして。
私は私の人生のストーリーを私の手で書いていきたい。
勿論私の人生の主人公は私自身だということを忘れずに!
スカーレット
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