スカーレットの心のつぶやき
つぶやき 目次|過去|未来
| 2008年06月30日(月) |
娘から心配なことを・・・ |
昨日はとても蒸し暑い
梅雨独特の鬱陶しい一日だった。
毎日、忙しくしている娘は
先週の金・土と所属している
演劇サークルの公演があり
金曜日の夜も遅く電話があったときは
とても疲れているようだった。
昨日は日曜日なので
ゆっくりと休めたかもしれないと思っていた。
お昼前から用事があり
何度も何度も電話してみるが
電源が入っていない・・・という声が流れるばかり。
連絡がとれない状態がずっと続いた。
その娘から夕方5時半頃に電話がかかってきた。
今、起きたという。
えっ!今?
何と、昨夜は、打ち上げの後部室で仲間たちと過ごし
帰宅は朝だったというのだ。
仲間たちが大勢居たから良いようなものの
私としては不安もある。
毎日、そんなに忙しくしていては
家のこともなかなかできないだろうし
食事の緬でも大丈夫なのだろうかと思ってしまう。
体だけは気をつけないといけないよと言うと
娘からちょっと心配なことを言われた。
まだはっきりとは分からないが
病気ではないかと疑う症状が出ているというのだ。
私は、来月、9日から13日まで大阪へ行く予定にしている。
そのときに医者に行こうと言って置いた。
後二週間、
どうかそれまで症状がひどくならないように祈るばかりだ。
やはり、離れていると私の目で見えない分心配だ。
母に話すと、毎日娘のことを父の仏壇や
神棚に向かってお願いをしているからと言ってくれた。
私も、父に娘を守ってねとお線香を上げながら
心の中でつぶやいた。
今夜も同じように夜中の0時過ぎに目が覚めた。
寝たのは23時半頃。
ある夢を見て目が覚めた。
そして、気になって気になって仕方なくて起きてしまったのだ。
夢は変な夢だった。
今、私が立ち上げたHPに関して
私がHPのアドレスを知らせた友人が
その友人に知らせ見てくれたと言う。
そして、その友人の友人から
私に何か聞きたいこと、言いたいことがあると
友人からメールで言ってきたのだ。
そんな夢が気になって起きて受信箱を開けてみた。
夢なのだからそんなメールが来ているはずはない。
夢は正夢ではなかった。
正直ほっとした。
大東亜戦争のことを書いているから
私なりに相当注意して書いているつもりだ。
でも、見方によったら
保守で右よりのものだと思われる。
書いていることに誤字や誤植があれば
揚げ足とりをされる可能性も大だ。
文句を言われてもそれは仕方ない。
覚悟はできている。
でも、実際にそんなことが起きたらきっと動揺するだろう。
今回は夢でよかった。
昨夜もHPのトップを変え
中身の追加をしていたから
そんな夢を見たのだろう。
お腹はやはり痛む。
睡眠が一番だ。
今からでも寝よう。
今は夜中の1時。
今夜も眠れない。
お腹が痛い。
この数週間前から、痛みは毎日出るようになった。
私が三度三度、きちんとした食事をとるようになり
体のためには良いことのはずなのに、
本当のところは負担がかかっているのだろうか。
娘が家を離れ、
夫と二人暮しになって以来、
一人分の食事を作るよりも
二人分が経済的だとわかってから
私もバランスの良い食事をとるようになった。
元々食は細い。
一日にたったこれだけ食べていて生きていけるのが
自分でも不思議だった。
それが、今では普通よりは少なめではあるが
それでも、主食・副食とまともなものを食べるようになった。
間食は全くしない。
お菓子類も全く欲しくない。
三度の食事をとるだけで私のお腹の容量は超えるみたい。
そのためにこうして腹痛が起きるのだろう。
すずめのえさほどの食事をしていた頃に比べると
今の方がまともなはずなのに。
そろそろ寝なきゃと思うのに、
痛みが治まらない。
昨夜、チャンネル桜の番組内で
とてもいい話を聞いた。
今から約120年前、
和歌山・串本港沖でトルコの船が遭難・座礁したとき
付近の村民は命がけで救出作業をして
一割の60人を助け、
翌年、日本の軍艦で無事トルコへ帰ることができた。
その恩をずっと忘れていないトルコは
1985年、フセインによる航空機爆破予告によって
脱出しようとしてものの
イラン空港へ取り残された日本人たちを
日本政府に代わってテヘラン空港から
トルコ航空の飛行機で
日本まで連れて帰ってくれたのだ。
いわゆる「エルトゥールル号事件」だ。
このことは本でも読んで知っていたが
昨夜聞いた「インディギルカ号事件」は知らなかった。
これは、昭和14年に北海道宗谷岬猿仏村の沖合いで
ロシア漁船「インディギルカ号」が嵐にあい遭難。
地元の村民たちは12月の極寒の海に飛び込んで
702人を救出(500人余人死亡)する事件が起きた。
ほかにも、日本の道徳性の高いことを示す事件はある。
このようないい話をどうして学校で子供たちに教えないのか?
教科書に載せて教えるべきである。
日本は戦争で悪いことをしたという
自虐史観ばかりを煽り
今も日本の外交は謝罪ばかりしていて
当然して良い主張をできない情けない状態だ。
7月に開かれる洞爺湖サミットの場で
「インディギルカ号事件」のことを
話すのも日本にとって国益にかなうことだと思う。
日本国内ではお互いに理解できあっても
これが外交の場となると
お人よしばかりが評価されないことを知ってもらいたい。
一言で言えば、
福田首相の外交は愚策ばかりである。
今日にも、北朝鮮の核計画の申告書が提出され
いよいよ、日本にとって恐るべき
「テロ支援国家してい解除」通告がされようとしている。
この通告は発動まで45日間の猶予があり
解除を取り消す可能性があるにもかかわらず
福田首相は、
「北朝鮮の核問題が解決する方向に向かうならば、歓迎すべきことだ。」
と述べた。
日本国民の大方の意思に反する発言であり
決して許される発言ではない。
この米の北に対する「拉致支援指定国家解除」が
こんなにも早まったのは
何を言おうか
日本政府が北の拉致問題に大して
再調査をする姿勢を評価し
経済制裁一部解除を決めたことが大きな誘引になっていることは確かだ。
こうなれば
米はあてにならない。
日本が独自の北に対して強い姿勢をとるしかないのに
今の福田内閣は外交に関してだけでなく
全てが頼りにならない政策をとっている。
先日合意された
東シナ海ガス田の日中共同開発においても然り。
この問題も、我々国民が気づかないことがおきている。
中国はそもそも日本の領海内にある白樺(春暁)が
中国のものであると言い張り
今回の合意も、
中国外務省は
「東シナ海について、中国の立場は変わらず、
(日中)中間線を認めないという立場も変わらない」としている。
白樺は日本の領海内にあり
日本が開発すべき所であるにもかかわらず
日本国内ではその動きがなかったために
今回のような合意になったまでのことだ。
日本にはガスを引くパイプラインがない。
だから、日本は金を出して権益を買い
ガスをもらっても
そのガスを安価な値で中国に引き取ってもらわねばならない。
その値は権益で出した金の十分の一だという。
差額は日本国民の税金や企業資本が負担することになるのだ。
このへんのことを日本では全く報道しないから
国民には分からない。
拉致問題だけでなく
福田首相の外交は全て愚かだと言っても言い過ぎではない。
こんな首相は早くやめてもらうしかない。
しかし、今の日本を救ってくれる総理大臣が
果たして居るのだろうか・・・・
昨夜、夕食に「さばの生姜煮」を作った。
私は魚料理が苦手だ。
内臓を出すのも嫌いだ。
なんといっても、生魚の臭いが嫌い。
まな板、包丁、そして、手につく臭いはたまらない。
魚好きな人は臭いは気にならないかもしれないが
もともと、魚料理が嫌いな私にとって
生魚の臭いはたまらなく嫌だ。
昨夜も、手についたさばの臭いがなかなか取れなかった。
お風呂に入ればとれるかと思ったが
出た後も、手に臭いが残っている気がした。
何気なくそのことを夫に話すと
夫が「これで手を洗ってみたら?」といって
「ステンレス石鹸」なるものを持ってきてくれた。
それは名前の通り、石鹸のかたち(楕円形)でステンレス。
水にぬらして、普通の石鹸のように手でこすると良いらしい。
騙されたつもりで試してみてびっくり!
洗ったあと、手の臭いは消えていた。
なぜ??
ネットで検索してみると
「臭いの粒子はステンレス石鹸でこすることでマイナスイオンになり、
それが水のプラスイオンに吸着して流れていく」のだそうだ。
臭いを消すために、手洗い用の泡石鹸で洗ったら
後で、その石鹸の香りが手に残ることがある。
その手では食品を直に触りたくない。
そんな時、この「ステンレス石鹸」は重宝するという。
まさか?と疑いながら使ってみて納得した。
それにしても、時代は変わったものだ。
日進月歩の名の通りだ。
臭いの嫌いな私は、扇子や香水の香り(私にとっては匂い)も嫌だ。
何でも無香料のものを選ぶ。
だが、魚だけは無香料というわかにはいかない。
というわけで、今回は夫のお蔭で助かった。
夫は色々なものを持っている。
いつ入手したのかは分からないが
困ったときはまるでドラえもんのポケットさながら
便利なものを取り出してくれる。
有難いことだ。
この「ステンレス石鹸」でこれからは魚嫌いも少し解消するかもしれない。
私の母は今年87歳、
母の従姉妹であり
亡き父の叔母は今年94歳になる。
二人とも、元気で自分のことは自分で出来るし
叔母など、毎日三越へ行くことを日課とするような
有難い生活を送っている。
数日前、
その94歳になる叔母の娘の一人が亡くなった。
この数年は肝臓がんを患って
入退院の繰り返しだったという。
母がたまたま電話して、そのことを知った。
母は従姉妹が気落ちしていて
病気にでもなりはしないか?と心配したそうだが
案外、元気そうな声だったらしい。
母がそのことを私に話してくれたのだが
私は思わず「年を取ったら、そんな風になるみたいだ」と言ってしまった。
年を取るということは良い意味で鈍感になるということだ。
鈍感は決して悪いことではない。
物事にこだわらず
気にしないでいられるからストレスも感じない。
若い頃は、自分の周りに居る人の存在が気になる。
それは、自分がどういう風に他人に見られているか?が気になるからだ。
年を取るということは
そんな自分の評価を気にせず
他人の思惑とか、目などを気にしないで生きるということだと思う。
それは鈍感になったというか
ずうずうしい生き方が出来るようになったというか
いずれにしても、自分が生きる生き方が楽になるということだと思う。
それはそれで良いのだと思う。
私は母にこんな言葉を付け加えた。
「母ちゃんでも、後10年もしたら
もし、私が先に逝ったとしても
今、思うような悲しみや辛さは感じないと思うよ」と。
少々言いすぎの感もあるが正直な私の気持ちだ。
人はそんな風にして年老いていくのだと思う。
自分のことしかなくなって当然。
人のために生きてきた今までの自分の人生を
やっと自分のことだけ考えて生きていけるようになったのだから。
大いに鈍感になってもらいたいと思う。
またやってしまった。
昨夜は午後10時半に寝たものの
夜中の12時に目が覚め
PCを開き、メールが届いているのを確かめた。
そのまま寝ればよかったのに
気になって開いてしまったのだ。
メールの送信者は
作成しているHPの共同制作者からだった。
私が載せているHPをチェックしてくれて
誤字を指摘してくれる。
私も注意して書いてはいるのだが
本を見ながら書くという作業はついつ間違いを犯してしまうのだ。
昨夜指摘された箇所はすぐに直した。
共同製作者は私よりあらゆる点で勝っている。
知識も多いし、今まで色々なことを教えてもらった。
私が現在あるのもその共同制作者のお蔭だと言える。
その人が、昨日は十数枚にわたる
台湾についてと題する資料を送ってきてくれた。
勿論、HPに載せるつもりだ。
でも、その前に私自身が理解する必要がある。
そのために、夜中にもかかわらず読み始めた。
そして、十数点、疑問点があったので
メールにそのことを書き、
HPの原稿用にまとめなおしていた。
気がついたら、外では新聞配達の自転車が止まる音がした。
PCの時計を見てびっくり、何と4時を過ぎていた。
夢中になってやっていたので
時間が過ぎるのも忘れていた。
もう寝るわけにはゆかない。
着替えて、家事を始めたものの
顔はげっそりした感があり
胸もむかむかしてきた。
思考回路がとまってしまって働かなくなっているみたいだ。
今日は、午後、「めざす会」の学習会がある。
会であくびばかりしていてはだめだ。
何となく朦朧となりかけている。
あまり、無理はしないようにしているが
自分がここまでやり遂げたいと思ったことは
出来る限り頑張る私だ。
でも、若い頃とは違う。
若い頃は徹夜なんて平気だった。
段々と年を取るにつれて、平気ではなくなる。
せめて、今日一日はHPの更新・作成はやめておこう。
運転中に事故でもしたら大変だ。
ほどほどにしないといけない・・・
やはり、頑張って良かった。
探していた答えが見つかったのだ。
昨日の朝、自由主義研究会理事の杉本先生から
返事が届いたのだ。
数年前のことなので
私が出典を探している言葉を
どの本から引用したか?
今はちょっと分からないから
後数日待って欲しいというものだった。
ただ、その言葉を見たのは
名越ニ荒之助先生の著書の中だったと思うと書いていた。
私の持っている名越先生の本は二冊しかない。
一冊は「世界から見た大東亜戦争」
もう一冊は「武士道のこころ」だ。
「世界から見た大東亜戦争」はまだ途中だったので
先を読んでみた。
そうしたら、探して求めていた言葉があったのだ。
やった!一種の興奮を覚えた。
胸が高鳴った。
出典を探していた言葉は、
ルイス・マウウトバッテンの言葉で、
「私がインド・ビルマ戦線で戦った日本軍将兵は、
その忠誠、勇敢、規律厳正さにおいて古今東西無類の精強でした。
あのように素晴らしい将兵は
今後いずれの国にも生まれれる事は無いでしょう。」だ。
名越先生の著書「世界から見た大東亜戦争」の
第2部「大東亜戦争のクライマックス」の中の
P160〜P161にかけて、
F機関長としてインド独立のための工作を担当された藤原岩市中佐が、
遺骨収集を終え、皇太子殿下に報告されたときに
皇太子殿下が仰った言葉の中に
マウントバッテン元帥が殿下にこの言葉を言ったということが
藤原岩市「進めデリーへ」の反響に想う
に書かれていることが分かったのだ。
ここまで到達するには
時間も体力も相当使ったが
やはり、頑張った甲斐があった。
杉本先生にはお礼のメールを送った。
そして、探して欲しいと依頼された人にも
見つかったと報告しておいた。
この言葉は日本人として忘れてはいけない言葉だと思う。
今、私が作っているHPに
「日清・日露・大東亜戦争に生きる武士道のこころ」として
他の言葉と共に載せるつもりだ。
執念の実りはあったということだろう。
われながら、何かをし始めたら
遣り通すまでやめられない性格が不思議であり、
死ぬまで直らないのではないかと心配になってくる。
適当という言葉を知らない、
いい塩梅という言葉も分からないというわけではない。
それなのに
なぜこんなに執着してしまうのだろう。
執念という言葉はあまり良い意味では使われない。
でも、昨夜からの私をもう一人の私が見ることが出来たら
何と執念深い人だと言うだろう。
一つのことに拘る、
最後までしないと途中でやめられないのは病気か?
あることを調べて欲しいと言われた。
英軍東南アジア総司令部司令官マウントバッテン大将が
言った言葉
「私がインド・ビルマ戦線で戦った日本軍将兵は、
その忠誠、勇敢、規律厳正さにおいて古今東西無類の精強でした。
あのように素晴らしい将兵は
今後いずれの国にも生まれれる事は無いでしょう。」
の出典を調べてほしいといわれたのだ。
ネット検索して奥深く入っていった。
そして、最後には
自由主義研究会理事の杉本幹夫氏が
ある所に書いているのを見つけた。
まさに執念の結果だ。
先生に質問できるコーナーを見つけ
早速質問メールを送った。
もし、返事をもらえればこれで解決するだろう。
後は返事をもらえることを祈るしかない。
少し答えに近づけた気がする。
気づいたら日付が変わっていた。
体の疲れを感じないなんて
何かおかしい。
でも、眠れないのだ。
回答を得ることが出来たら
きっと安心して眠れるだろう。
執念?
それとも私の悪い性格?
昨日は、午前中、車の修理のため
大雨の中、車屋さんへ車を持って行った。
先日の車検の時に部品がなかったため
修理が出来なかったのをしてもらうことにしたのだ。
出来上がりは土曜日、それまで代車を借りた。
自分の車じゃないのでとても気を遣う。
なるべくは乗りたくない。
そう思っていたが
午後、娘から電話があり何となく体調不良のようだ。
首と頭が痛いからもしかしておたふく風邪?かもしれないと言う。
小さい頃に予防接種はしているが
実際におたふく風邪にはかかっていない。
気候不順のため風邪でも引いたのかもしれない。
大阪へ持って行っているパジャマも
夏用がひとつしかなかったので
長袖で寝ているらしい。
汗をかいてそのままにしたのかな?と思う。
大事にならねば良いが・・・・
そこで、夏用のパジャマを二着買い
ほかにも食料品や日用品などを
大きな箱に入れて郵パックで送った。
そのことを電話で知らせると
弱々しい声で「ありがとう」と言っていた。
心配しても仕方ないしきりがないが気にはなる。
一人暮らしを何とかしているのだとは思うが
顔が見えないからどうしても心配してしまう。
大学のサークル活動で何か嫌なことがあったみたいだ。
家に居たら夫や私に話しをすることが出来ていたが
今は愚痴をこぼす相手も居ないだろう。
誰か友人に話したら良いよと言って置いた。
黙って、自分だけで悩んでいたら体に悪い。
気晴らしに、7月の連休にでも帰省できたら良いのにと思う。
でも、試験もあるとかでなかなかそうはいかないみたい。
次は元気な声を聞きたいものだ。
一昨日、昨日と二日に渡って
「めざす会」のお手伝いをしてきた。
二ヶ月に一度発行する
「なでしこ通信」という機関紙の印刷、
それを入れる茶色の封筒の印刷、
機関紙と一緒に封筒に入れる情報書類の印刷・・・
枚数としたら計1万5千枚ほどを印刷した。
簡単なようで大変だった。
一枚の裏にも印刷するので
用紙をセットするときに
方向を間違ったりしないようにしなければならない。
用紙を印刷した後は
数枚ずつ束ねてホッチキスで留めたり
折りたたんで冊子風にしたりと
根気のいる地味な仕事を黙々としてきた。
私がしたのではないが
印刷する前の製版が大変だっただろう。
私は出来上がった原稿を印刷するだけだから
楽といえば楽だ。
でも、昨日はずっと印刷機の前で立ちっ放しだったので
夜は疲れてしまって食事をする気にもなれなかった。
今日は、座ってしたので少しは楽だったが
印刷済みの紙を折るのに右の手で扱いたから
右手の小指の横がすれて痛い。
私の性格から、やるなら今日中に済ませたいと思い
ほかの人が帰った後も頑張ってしてしまった。
しんどかったけれど、お手伝いできたことは良かった。
今回の機関紙の中に私のエッセイも載せてくれている。
「専業主婦万歳」と題したものだ。
母に見せたら、そのとおりだといわれた。
上手に書いているねとも言われた。
単純な私はその一言で
疲れも吹っ飛んだ気がした。
昨日、姉から携帯へ「やった!」というメールが届いた。
件名だけを見たとき
何か事故でも起こしたのか?と不安になった。
姉が送信した相手は私を含めて数人、
ますます変。
でも、本文を読んで安心した。
毎年、城川町で開催される
「全国かまぼこ板の絵展」で、ある後援団体賞を受賞したのだ。
二年前、私の作品が受賞したのと同じ。
姉は私より数年前から出品していたので
やっと努力が叶ったことになる。
その喜びもひとしおだろう。
早速、「おめでとう!」のメールを送った。
そして、電話をした。
受賞すると、作品集に作品・顔写真・コメントが載る。
そのコメントの草案を送ってきた。
姉の嬉しい気持ちが素直に表されていた。
本当に良かった。
今年は展覧会を見に行く甲斐がある。
また次の作品製作の意欲もわいてくるだろう。
姉の受賞を心から喜びたい。
「おめでとう!良かったね」
生まれて初めて名刺を作った。
結婚して23年、
ずっと専業主婦である私にとって、
名刺は生活上全く必要もなく無縁なものだった。
今春、娘が大学に入学し、家を離れ、
私自身のための時間を持つことが出来るようになった。
幸い、夫の母も私の母も元気だ。
だから、今、自分に出来ることをやろうと思い、
いくつかの会に入会した。
入会して学習会や講演会などに参加するようになり、
人と知り合う機会も多くなった。
中には議員さんや大学教授、
地元で活躍されている人も居る。
会の仲間から、その方たちに紹介されるとき、
相手の方から名刺をいただき、挨拶されても、
私には差し上げる名刺はない。
だから、言葉でご挨拶するしかなかった。
名刺交換は、
お互いの地位や名誉を誇示するパフォーマンスと思っていたが、
それは間違いだと分かった。
やはり名刺があると、
相手に自分の存在を覚えておいてもらえるメリットがある。
仲間に勧められ、パソコンで、
この世に一つしかないマイ名刺を作ったというわけだ。
左隅にピンク色の桜の花びらの絵、肩書きは専業主婦。
さて、初めての名刺を誰に差し上げるだろうと
何となくわくわくしている。
昨日は雨の中
「日本を読む会」の総会と講演会に行ってきた。
今回の講演会は
青年海外協力隊に参加した
小学校の女性教師の「地球色の日焼け」と題する講演だった。
行った国は中南米のホンジュラス共和国。
青年海外協力隊は
訓練期間が3ヶ月、その間にスペイン語をマスタしたとか。
派遣期間である二年間は帰国することは出来ない。
現地の人と同じ言葉・同じ家・同じ服・同じ生活をするという
現地同化主義をとる。
そして、教師の立場で行かれたので
活動は現地の子供たちだけではなく
教師に教えることをされた。
ホンジュラスの学校では
国旗を掲揚し、授業の前には国歌を斉唱し
人としての生き方や国に対する誓いをする。
しかし、
援助をしてもらうことに慣れた国民性は
自分たちで何とかしようとする姿勢ではなく
援助してもらうのが当たり前という気持ちが大きく
それがものを大切にしないことや
節約をすると気持ちがないことに繋がっている。
家の中も戸外もごみが散乱している。
自分に用がなくなったものは
瞬間的に捨てる習慣があるという。
国柄といえばそうかもしれないが
こういう話を聞いて日本の道徳性がいかに高いかを
思い知った気がした。
私の娘がこの青年海外協力隊に興味を持ち
行きたいと言っていたので
昨日の講演会はとても関心があり
先生が言われることを聞き逃さないように
一生懸命に聞いてメモして帰った。
私など、一生日本の外へ出ることはないだろう。
しかし、外から日本を見ることも
とても重要なことだと思う。
ホンジュラス共和国だけではなく
治安も悪く、道徳やマナーが悪い国は数々ある。
その点、この今の日本でも良い所もあるじゃないかと思うのだ。
女性差別もない、
男尊社会でもない、
貧富の差でも、諸外国に比べて最悪ということはない。
やはり、日本は恵まれていると思う。
その恵まれた国に居て、何でもが当たり前になり
物事に感謝しないようになったら終わりだ。
日本は日本の独自の文化や伝統を重んじ
これからも世界の中で尊敬される国にならねばと
講演会を聴きながらつくづく思った。
今日は6月第三日曜日、つまり「父の日」だ。
一昨年に、私の父が6月、夫の父が12月に亡くなって
私には「お父さん」と呼べる人が居なくなった。
父が生きていた頃は
毎年、こころばかりのものをプレゼントしていたから
父の日が近づくと何を贈ろうかと
デパートへ行くのが楽しみだったことを
懐かしく思い出している。
父の日も母の日も
商売上のものだと割り切ってしまえば面白くない。
やはり、そこには商売上ではない
家族としての心が存在する。
ちょっとした心遣いや感謝の気持ちを
父や母に伝えることで
家族の大切さを思う機会にもなる。
5月の母の日には
娘から私の携帯へメールが届いた。
今も保存して時々見ているが嬉しいものだ。
娘は今日が父の日だということを知らないし気づいてないだろう。
さっき、娘の携帯へ今日は父の日よとメールを送った。
夫は娘からの感謝の気持ちやプレゼントは
全く期待していないだろうし
そんなのはいらないと言うだろう。
でも、娘から携帯へありがとうのメールをもらったら
きっと嬉しいに違いない。
そんな些細なことだが
仕事をする意欲にもつながると思う。
娘が私のメールに早く気づいてくれたら良いな・・・
昨日、ここに北朝鮮の拉致問題について書いたのに
今日は、先日の日朝協議の結果が
思わないものになったことに対して
とても失望し、憤りを感じている。
北朝鮮側が、拉致被害者の再調査をすると言ったから
今までとっていた経済制裁を一部解除するというではないか。
対北制裁緩和について、
北との人の往来や
北からの航空チャーター便乗り入れの制裁解除などを挙げている。
入港が禁止されてきた北朝鮮籍の船舶については、
民間の人道支援物資を日本から北に運搬したいとの希望があれば、
「人道的措置の例外」として入港を認める方針だ。
また、入港規制緩和の対象となる船舶には、
「万景峰号」も含まれるとみられる。
「人道」の名目で、
核やミサイルなどの製造に使われる部品が運ばれる可能姓がある。
上のことを実行するまでに
もっと検討してもらいたい。
北の再調査がどういう風に行われるか?
また、嘘の結果を報告するのではないか?
今までも、金正日総書記は「白紙からの再調査」を約束した。
そして、再調査の結果として、
拉致被害者の横田めぐみさんのものとする“遺骨”を出してきた。
今回もきっと同じことが起きるだろう。
煮え湯を飲まされることになるだろう。
北朝鮮という国は信じられない。
よど号ハイジャックの犯人の引渡しは
北が米のテロ支援国家指定解除をねらってのことだ。
決して、日本のためを思ってすることではない。
昨日も書いたように
日本政府の方針は
北が誠意を見せ、拉致を認め全員を返す交渉に入ったとき
初めて進展とみなすものだった。
それなのに、再調査するということだけで
一部制裁を解除するなんて、間違っていると思う。
家族の気持ちを思うと、心が痛む。
家族が求めているのは
拉致被害者全員の帰国だ。
再調査というのは、北が拉致被害者を返すかどうか決めるに過ぎない。
私たち国民の気持ちは被害者の家族と同じだと思う。
なぜ、日本政府はことを急ぐのだろう。
この程度の提案で制裁を一部解除するのは、
あまりにも時期尚早である。
六カ国協議で孤立することがそんなに怖いのか?
たとえ、孤立し、バスに乗り遅れると言われたとしても
日本は、断固として経済的・人道的制裁を取り続けるべきである。
| 2008年06月13日(金) |
「救う会」愛媛の総会・講演会 |
昨日は、拉致被害者の救出をめざす「救う会」愛媛の
総会と、その後全国協議会の会長の佐藤勝巳氏の講演会が
水産会館であった。
五月の末には、山崎拓を中心に
「日朝国交正常化推進議員連盟」が発足した。
これはまさに、拉致議連に対抗するものである。
北朝鮮と国交を正常化することにより
拉致被害者を取り戻すことが出来るという論だが
北朝鮮の国を考えてみたら
それが誤りだと皆気づくはずである。
山崎拓の目論見の裏にはレアメタルの利権が存在している。
拉致被害者やその家族の方を見ていないのは明らかだ。
昨日の講演会でも
佐藤会長は、
「北朝鮮が政府間交渉で誠意を示さないことや
日本本政府に虚偽の資料を提出した」事実を挙げ
制裁解除などもってのほかだと指摘していた。
同感である。
拉致問題がなんの進展も見せていないのに
国交正常化など考えるほうがおかしい。
正常化すれば北朝鮮が拉致被害者を返すと
本気で考えているとしたら
それは北朝鮮という国の実態を知らないということだ。
佐藤会長は日本で数少ない
北朝鮮を研究する組織の人だった。
だから、北朝鮮を知り尽くしている。
その会長が言うことは、山崎拓が言うことよりも
信憑性は大きいと思うのだ。
北朝鮮は「政治目的のためには手段を選ばない非道な国」だということを
日本人は肝に銘じておく必要がある。
そして、拉致問題の解決が最優先だということも
譲ってはならないことだと思う。
拉致問題進展とは「北朝鮮が拉致を認め、返す交渉に入ったとき」
を意味する。
この方針を全面的に正しいとし、国民は支援すべきだ。
国民一人ひとりが「もし、自分の家族が拉致されたとしたら?」と
考えるべきだ。
そして、関心を持ってもらいたいと心から思う。
四川地震が起きて今日でひと月が経つ。
まだ、地面の下で眠ったままになっている犠牲者は数多い。
それでも、人々の生活の時間は
まるで何事もなかったかのように過ぎていく。
わが国では、史上最悪の無差別殺人事件が起きた。
被害者の方々のご冥福と一日も早い回復を
心から祈りたい。
それにしても、この日常はなんと残酷なのだろう。
殺された人の遺族のことを思うと自然に涙が出てくる。
もし、あの若者が私の娘だったらと思うと
居ても立っても居られない心境になるのだ。
何も悪いことはしていない。
平凡でも、皆それぞれが幸せな生活を出来るはずだった。
それが、一瞬にして未来の人生を奪われてしまったのだ。
人の人生を奪った犯人に強い憤りを覚える。
そして、この犯人が育った家庭環境や社会にも
何か原因があるようにも思える。
確かに、犯人と同じような境遇に居る人は山ほど居る。
しかし、その人たちが、犯罪を犯すわけではない。
皆、自分で納得し、自分で探した生活、日々のことを
懸命に生きているに違いない。
私自身、昔、苦しんだことを忘れているわけではない。
ただ、私の場合
人のせいにするのではなく
自分自身を責め、自分の存在を消そうとしたことが
今回の犯人と違う点だと思う。
今の私は、あのとき死ななくて良かったと素直に思える。
日々のことに目を向けられることが出来るようになった。
物事を突き詰めて考えることも少なくなった。
これは多分に年齢を重ねた結果だと思う。
もし、犯人が事件を起こさず、
年を取ったとしたら、
きっと20代の時の自分を笑って考えられていたのかもしれない。
世の中は動いている。
その流れの中に身をおき
たまには流されてみるのも良いのかもしれない。
それが出来なかったことが犯人にとって不幸だったのだと思う。
途中だけど、やっとここまで出来た。
し始めたら完成するまでやめられない性格が
良いのか悪いのか?
でも、まだ残っているのが気になって仕方ない。
今回作ったHPはこれで二つだ。
一つ目は大阪へ行く前の日の夜に作った。
昨日作ったのは、大阪に行く前に作ったのと趣旨は同じだが
内容が少し違う。
前のは簡単ホームページというサイトを利用して作ったから
確かに、面倒さはない。
掲示板もついている。
でも、何かしっくり来なかった。
昨日作った(まだ工事中)のは
ホームページビルダーを利用して
サーバーを借りたものだ。
でも、以前のHPと作り方が同じだから
要領がわかるだけに、とっつきやすかった。
内容は興味のある人とない人が居るから
見てもらえないかもしれない。
まあ、自己満足の世界だから良いか・・と思っている。
これも、先日八幡浜でお会いした先生から
作ってほしいといわれたものだ。
作りながら、色んなことを思った。
そして、日本はやはりすごかったのだと思う。
これからもすごい日本で居てほしいと心から思う。
昨日は父の三回忌の法要をした。
父の命日は6がつ13日だが
昨日が日曜日だということで
来て下さる人たちの都合を考えて少し早目の法事となった。
先週の水曜日(4日)から土曜日(7日)まで
娘のいる大阪へ行っていたから
父の法事のしたくなどは母がほとんどしてくれていた。
集まってくれた人は15人ほどでこじんまりとしたものだった。
父方の従兄弟や母方の叔母・叔父・そして従兄弟。
皆、気心のしれた人ばかりなので
お寺の法要の後の食事も和気藹々、
3時間ほどのお喋りを楽しむことができた。
父は、人が集まり皆で食べて飲む宴会が大好きな人だったから
きっと、昨日の法事の後の食事会を満足してくれているだろう。
ホテル椿館は初めて利用したが
食事内容もとても良く
部屋もゆったりとしてとても感じ良く
もし、これからもこういう機会があればここにしたいと思う。
それにしても、親戚というものは
こんなことがなければ顔をあわせることもないのだな・・・
めでたいことで顔を合わせるのなら良いが
これからはきっとお葬式で会うことになるのだと思う。
小さい頃は兄弟のようにして育った
父方の従兄弟たち。
私にとっては忘れることのできない従兄弟、
でも、年月が経つということはこういうことなのか・・・
昨日は、従兄弟にお礼の挨拶をしただけで
そのほかには一言も会話することがなかった。
やはり、私の心の中に何かこだわりがあったのかも?
人生の中でとても重い存在ではあるが
今ではもう過去のこと、過去の人間になっているはず。
そんなことを思っている限り
私の人生を良しとできない。
父の法事は私にいろんなことを考えさせてくれた。
もう、どうでもいい存在なのだから。
と思おうと思っている私が居た。
先日、ここにも書いた眼の手術について、
あれから、色々な経過を経て
結局、手術は見合すということになった。
眼科の医者から言われたリスクが
私が決められない一番の原因であった。
また、母や夫や友人など
確率的に100パーセント、
しない方が良いのでは?という意見だったことも
今回、私が手術を見合わせることを
決める大きなきっかけになったことも否めない。
今まで56年間、これと言った支障もなく
生きてこれたのだから
今更、手術をして治す必要はないのではないか?
と母も夫も言う。
これは、私の問題であり
たとえ、誰が反対しようとも
私が決めるべき問題ではある。
今回、見合わせるという結論に達したのは
私の心の中に迷いが存在していたと言っても言いすぎではないだろう。
確かに、左の目の視野は右目の半分しかない。
だから、その分、右目を酷使しているのだろう。
右目が使えなくなったとき
私の左目でしか見ることが出来ない状態になり
それは、とても不便なものになるに違いない。
昨日の眼科の医者は
その時になってから、手術しても遅くはないと言ってくれた。
そうだな・・そうしようと時期は未定のままで延期ということにした。
私が待合室で待っている時
私の前の患者が同じ手術をするという話が聞こえてきた。
リスクについて医者が話していることを聞き
やはり、やめようという気持ちが強くなったのも確かだ。
体にメスを入れないのが一番。
心臓やお腹に傷を持つ私が
今更こんなことをいうのはおかしいが、
やはり、手術はしないのに越したことはない。
週刊文春の5月22日号掲載の鈴木幸一氏
の連載「まだ宵の口」の中で
昭和天皇の存在感について触れる部分があった。
引用させてもらう。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
昭和天皇の崩御から、かれこれ二十年である。
海外の会議などで知り合う要人たちに訊くと
いちばん鮮明な日本の記憶は、
昭和天皇に拝謁した短い時間だった
と答える人が未だに多い。
「あの存在感は凄かった。
なにを話されるというわけでもないのに、
こちらが気圧されるような存在自体の重みがあった」
引退した外交官や日本に赴任した大使も、
大方、同じような印象を語る。
今もある国に大使として赴任している私の友人が、
��小平の側近と知り合いだったとかで、
��小平ですら
拝謁の後はただただ疲れたとしか言わなかったという。
数ある日本人との会談のなかで、
緊張したのが昭和天皇だけというのも寂しいはなしだと、
友人は苦笑していたのだが。
昭和天皇の存在感とは、
おそらく2千年の間、
ひたすらに国 民の安寧を祈り続けてきた
皇室伝統の重みから出ているのであろう。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
実際に昭和天皇のお顔をTVや写真で拝見するとき
凛々しさと無言の中にある優しさとを感じる。
昭和天皇は歴代天皇の中でも
一番、苦難の時代を生き抜き
ご自分の立場が180度変換しても尚
国民の幸せを祈ってくださり
我々国民と共に生きてこられた方ではないだろうか。
昭和天皇を戦犯扱いする左翼たちは
本心からそう思っているのかどうか
私は疑問に思う。
昭和天皇だけではなく
御皇室の存在こそが
日本国が世界に誇れる唯一のものであることは間違いない。
今日、本当は
県議の中矢さんの講演会に行くことになっていたが
急に用事が入りいけなくなってしまった。
別府から八幡浜へ知人が来られことになったからだ。
私の友人から紹介された方で
76歳くらいの近現代の歴史研究をされている。
南京問題・沖縄問題・靖国問題・大東亜戦争など
ご自分で研究され資料や書物を
靖国神社の偕行文庫に寄贈されたりしている。
友人に紹介され
是非お会いしたいとお願いをした。
会う前に、私がどういう考え方をしているか?
はじめに分かっていた方が良いといわれたので
今まで新聞に投稿し採用された中から
9点ほどコピーし、手紙を添えて郵送した。
直ぐに友人に返事が来て会ってくださるとのこと。
本来なら別府まで出向くことになっていたが
八幡浜まで来てくださると言う。
朝8時半頃に着く船で来られるから
私は7時過ぎに家を出ることにしている。
昨夜は緊張してなかなか眠れなかった。
何を聞かれるか?不安もある。
まだまだ勉強不足の私に、
がっかりされるかもしれない。
私が一番勉強している沖縄集団自決に関することが
話題に上ったら、少しは話の輪の中に入れるかもしれない。
会う前からドキドキする。
お天気も良いし、
きっと良い日になるに違いない。
私にとって新しい一歩を踏み出す機会になるような気がする。
スカーレット
|