与太郎文庫
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2004年07月04日(日)  アリス&キャロル 〜 金色の昼下がり 〜

 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/20040704
 
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 真夏の白昼夢 〜 恋文としての童話《不思議の国のアリス》 〜
 
 一八六二年七月四日。「この日付けはアメリカの歴史にとっても、
文学の歴史にとっても記念すべきものである」(W・H・オーデン)
 アメリカの七月四日は独立記念日であるが、一八六二年というのは特
定の意味を持たない。しいていえば、南北戦争勃発後二年目ということ
であろう。ポトマックもミシシッピも暗雲がたれこめていた。
(略)
 三十歳の数学教師、チャールズ・ラトウィッジ・ドジソンは、友人の
ダグワースと、学寮長リデルの三人の娘をボートに乗せて、ゴッドスト
ウまでのささやかな遠足を試みた。このときのことを、三人娘の真中の
アリスはつぎのように回想している。
「あれは夏の午後だったと思います。あまり暑かったので、私たちはボ
ートを岸に近づけ、ようやく干し草の積んであるところに日陰を見つけ
ました。そこで私たち姉妹は、いつものように『何かお話しをして』と
せがんだのです。あの、めったにない面白いお話は、その時はじめて語
られたものです」
     (一八九八年三月一日付「セント・ジェイムズ・ガゼット)
(略)
 あの、幸福な夏の日からちょうど三年目の七月四日に、当時の人気画
家ジョン・テニエルの挿絵を入れ、本文の量も倍近くにふやした初版が、
宗教書を多く出していたマクミラン社から出版された。題名は『不思議
の国のアリス』と変えられた。このとき、ルイス・キャロルという筆名
も考案された。名前のチャールズ・ラトウィッジをラテン語読みにカロ
ラス・ルドヴィカスとし、その順序を逆転して、響きのよい英語読みに
戻したのである。
(略)
 ドジソンはこの年、十三歳のアリスに求婚して、彼女の両親から拒否
され、六十六歳で死ぬまで独身生活を送った。生前、『アリス』は各国
語版を含めてミリオン・セラーとなっていたが、かれは最後まで自分が
「キャロル」であることをみとめようとはしなかった。
── 紀田 順一郎《世界の書物 19890320 朝日文庫》P319
 
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→ 《七月四日の米日列伝 19920323 歴史研究》
http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/day?id=87518&pg=19920704
 


 Tenniel,Sir John 挿絵画 18200228 London 19140225 96 〜Dropping the Pilot,”  
 Carrol,Lewis 作家/数学 18320127 England 18980114 65
 籍=Charles Lutwidge Dodgson 〜《不思議の国のアリス》
 
♀Ridel,Alice Pleasance  18520504 London 19341115 82 ハーグリーヴズ夫人
(Liddell=リデル←リドル)〜《不思議の国のアリス》のモデル
 パブリックスクール校長・牧師、古典学者 Ridel,Henry Georgeの次女
 
 Auden,Wystan Hugh  詩人 19070221 England 19730928 66 〜《怒れる海》
 紀田 順一郎   書誌評論 19350416 神奈川 /籍=佐藤 俊


2004年07月03日(土)  ヤナーチェク 生誕150年 〜 Birth from 18540703 〜

 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/20040703
 
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 小交響曲 〜 シンフォニエッタ 〜
 
 レオシュ・ヤナーチェックは、一八五四年七月三日にモラヴィアの東
北部、ポーランド地方との国境に近いフクヴァルディという村に生まれ
た。同じ世代の作曲家に、フンパーディンク、マーラー、プッチーニな
どがいる。その人柄は熱しやすく、激しやすく、馬鹿正直で、しかも気
まぐれだったそうだ。その音楽もじつに独自な発想によっていままでの
音楽の概念を打ち破ったもので、同じ世代のどの作曲家とも似ていない。
しいていえばモラヴィアの民族的な素材のとりあげかたが、いっぺん分
析と昇華をへた現代の民族主義のやりかただった点で、二十七歳下のバ
ルトークを予感させるところがある。とにかく、そういうきわめて独創
的な作曲家だったために、世の中に認められるのが遅れ、プラハの楽壇
でさえ、生前彼をあまり認めていなかった。ヤナーチェックの出世作で
あり、スメタナの「売られた花嫁」以後もっとも世界的な人気を博した
チェコのオペラでもある「イェヌーファ」Jenufa(一八九四〜一九〇三
年)は五十歳の年にモラヴィア地方の首都ブルノで成功裡に初演された
が、プラハの国立劇場がこれをとりあげるまでには、さらに十二年間も
待たねばならなかったのである。(略)
 ヤナーチェックは「モラヴィアのムソルグスキー」と呼ばれることも
ある。事実彼はムソルグスキーの音楽に親しみを感じていたようだし、
その自由奔放なところや、語り物風な旋律、また、作曲のヒントや材料
をしばしば十九世紀ロシアのリアリズム文学から得ていること──トル
ストイの「クロイツェル・ソナタ」から霊感を得た弦楽四重奏曲第一番
(一九二三年)、オペラではオストロフスキーの「嵐」による「カーチ
ャ・カバノーヴァ」 Kata Kabanova(一九一九〜二一年)や、ドストエ
フスキーによる「死の家の記録」Z mrtveho domu(一九二七〜二八年)
など──は、「モラヴィアのムソルグスキー」と異名をとるのも無理で
はないだろう。だが、この両者は似て非なる個性だった。ヤナーチェッ
クは、ムソルグスキーやモーパッサンのような、冷徹な客観主義者では
決してなかった。もっと主観的な感情家であり、ふくよかな夢に生きた
芸術家だった。彼の音楽には、しばしばアンリ・ルソーの絵や宮沢賢治
の童話にみるような、あどけない偶然性がみられ、それが非常に人間と
しての真実にふれている場合がある。また、この人の音楽は、シュトゥ
ッケンシュミットが「現代音楽の創造者たち」の中で指摘しているよう
に、自由な空のもとに生まれたという感じの生命肯定の芸術である。こ
れらはムソルグスキーにはみられない面だろう。(略)
 小交響曲はヤナーチェックの最後の交響作品で、また唯一の交響曲で
もあるが、ふつうの交響曲とはひどく趣のちがったものである。(略)
 作曲者自身これについて「自由の微風が町(ブルノ)にただよう。勝
利のトランペットのひびき、夜の影、緑の丘の息づき──かぐわしい偉
大なヴィジョン──こうしたヴィジョンが私の小交響曲を生んだのであ
る」とのべている。
── 佐川 吉男《名曲解説全集 18 補巻 19641201 音楽之友社》P126-134
 
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← ヤナチェック or ヤナーチェック
 
→ Janacek,Leos《Quartet for Strings No.1 19241017 Praha》
 〜 トルストイのクロイツェル・ソナタに霊感を受けて 〜
http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/day?id=87518&pg=20030524
 
→ K.Umezawa《Works of Leo? Jana?ek 20030309》簡易作品表
http://www.interq.or.jp/classic/classic/data/perusal/saku/Janacek.html
 
〜《Sinfonietta“Symphonietta”1926》
〜《Haydn“オーストリア国歌”編曲》
〜《Rhapsodie“Taras Bulba”1915〜18/1921》


 Janacek,Leos 作曲 18540703 Czecho 19280812 74 言語メロディ理論
 佐川 吉男 音楽評論 19260817 青森  20000510 73 武蔵野美大教授
/日本チェコ協会長


2004年07月02日(金)  アントワーヌの日記 〜 19180702-1118 〜

 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/20040702
 
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  ル・ムースキエ
  一九一八年七月二日
 夜も終わりに近く、たったいま、ちょっとうとうととしたあいだに
ジャックの夢を見た。もうその話の筋をたぐりあわせることもできなく
なっている。昔、ユニヴェルシテ町の階下の部屋でのことだった。その
ことから、おれは、ふたりがいっしょに、きわめて身近に暮らしていた
ころのことを思いだした。いろいろな思い出のなかでも、とくに、少年
園を出てきたジャックをおれの部屋に引きとった日のこと。しかも、お
やじの監督からのがれさせてやろうと思って、それを思いたったのはこ
のおれだった。それでいて、鼻持ちならぬ反感、利己的な後悔の気持ち
をおさえることができなかった。いまでもよくおぼえている。おれは心
にこう思った。<<よかろう。おいてやろう。だが、そのため、おれの習
慣、おれの仕事がじゃまされないようにしなければ>>成功! 一生を通
じて、おれはいつでも<<成功>>の二文字をくり返してきた。おれにとっ
ての合い言葉、そして唯一無二の目的。そのためにささげられた十五年
の努力……しかもいま、このベッドの上で、けさ、その成功の二文字が
なんとばかばかしくひびくことか! ……
 
(略)
 七月八日
 三十七歳。これが最後の誕生日!
(略)
 
  一九一八年十一月十八日月曜
 三十七歳、四ヵ月と九日。
 思ったよりもわけなくやれる。
 
 ジャン・ポール
                エピローグ 了
── Du Gard,Roger Martin/山内 義雄・訳
《チボー家の人々(第5巻)19560905-19620630 白水社》P270,347
 〜 Martin'du Gard《Les Thibault,1922-40》《Ete 1914,1936》
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 山内 義雄 早稲田大学教授 18940322 東京  19731217 79 仏文学〜仏蘭西詩選
 アントワーヌ,Jean-Paul(架)18810708 France 19181118 37 自殺
 デュガール,Roger Martin  18810323 France 19580822 77 1937ノーベル文学賞


2004年07月01日(木)  《初演366年譜 0701-0731 Awa Library》

 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/20040701
 


178307..-178402.. 作曲 モーツァルト《弦楽四重奏曲第16番変ホ長調》
178507.. 作曲 モーツァルト《ピアノ四重奏曲第1番ト短調》
178507.. 作曲 モーツァルト《結社員のための葬送曲 ハ短調》
178907.. 作曲 モーツァルト《ピアノ・ソナタ 第17番 ニ長調》
178907.. 作曲 モーツァルト《ロンド「君を愛する人の願いに」》
179007.. 作曲 モーツァルト《ヘンデル「アレクサンダーの饗宴」編曲》
179007.. 作曲 モーツァルト《ヘンデル「聖セシリア祭日への賛歌」編曲》
179107.. 作曲 モーツァルト《小カンタータ「無限なる宇宙の創造者を崇敬する汝らが」ハ長調》
182607.. 作曲 シューベルト《シルヴィアに》
182607.. 作曲 シューベルト《セレナード》
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19330701 初演 シュトラウス,R《歌劇「アラベラ」》
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17160702 初演 バッハ,J.S.《カンタータ第147番「心と口と行いと生きざまもて」》
18230702 初演 ドニゼッティ《歌劇「アルフレッド大王」》
19000702 初演 シベリウス35《交響詩「フィンランディア」》カヤヌス
────────────────────────────────
....0703
────────────────────────────────
....0704
────────────────────────────────
18150705 作曲 シューベルト《さすらい人の夜の歌》
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18260706 初演 ドニゼッティ《歌劇「エルヴィーダ」》
18290706 初演 ドニゼッティ《歌劇「エリザベッタ」》
18430706 初演 ワーグナー《使徒の愛餐》
────────────────────────────────
....0707
────────────────────────────────
17860708 作曲 モーツァルト《ピアノ三重奏曲第3番ト長調》
18790708 作曲 ヴォルフ《秋の決意》
18850708-0922 作曲 チャイコフスキー《交響曲「マンフレッド」Op.58》
19340708 作曲 プロコフィエフ43《交響組曲「キージェ中尉」》
────────────────────────────────
17790709 作曲 モーツァルト《交響曲第33番変ロ長調》
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17880710 作曲 モーツァルト《ピアノとヴァイオリンのためのソナタ第43番ヘ長調》
17980710-0831 作曲 ハイドン《ミサ曲第9番ニ短調「ネルソン・ミサ」》
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18840711 作曲 ヴォルフ《荒野の乙女》
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19190712 初演 ファリャ43《バレエ「三角帽子」》アンセルメ36、アルハンブラ
19370712 初演 ハチャトウリャン《ピアノ協奏曲》
19460712 初演 ブリテン《歌劇「ルクリーシア(ルクレティア)の陵辱」》
────────────────────────────────
....0713
────────────────────────────────
17880714 作曲 モーツァルト《ピアノ三重奏曲第5番(第6番)ハ長調》
19240714 初演 ヴォーン=ウィリアムズ《歌劇「牛追いのヒュー」》
────────────────────────────────
....0715
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17820716 初演 モーツアルト《歌劇「後宮からの誘拐」》
17880716 作曲 モーツァルト《カンツォネッタ「もはや見当たらず」変ロ長調》
────────────────────────────────
19270717 初演 ヒンデミット《歌劇「行ったり来たり」Op.45a》
────────────────────────────────
19620718 初演 ファリャ《カンタータ「アトランティーダ」》
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18830719 作曲 ヴォルフ《交響詩「ペンテジレア」》
────────────────────────────────
....0720
────────────────────────────────
18790721 作曲 ヴォルフ《問うなかれ》
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17760722 初演 モーツァルト《セレナード第7番ニ長調「ハフナー」》
18440722 初演 ワーグナー《序曲「ファウスト」》
18470722 初演 ヴェルディ《歌劇「群盗(イ・マスナディエーリ)」》
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....0723
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18790724 作曲 ヴォルフ《秋》
19380724 初演 シュトラウス,R《歌劇「平和の日(講和記念日)」》
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....0725
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17730726 初演 ハイドン《歌劇「勘違いの不貞(当てはずれの不貞)」》
18820726 初演 ワーグナー《歌劇「パルジファル」“舞台神聖祭典劇”》
19250726 初演 シェーンベルク《三つの風刺》
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18730727 作曲 ムソルグスキー《組曲「展覧会の絵」》
18740727 初演 ムソルグスキー35《歌劇「ボリス・ゴドゥノフ」》
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18240728 初演 ドニゼッティ《歌劇「リヴァプールのエミリア」》
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19450729 初演 ミョー《フランス組曲Op.248b》
19490729 初演 シューマン《民謡風の5つの小品Op.102》
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17760730 初演 モーツァルト《ディヴェルティメント第11番ニ長調》
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....0731
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2004年06月28日(月)  ある日本人 〜 続・もうひとりの人生 〜

 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/20040628
 
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 拝復
 いつもながらユニークな「文庫」を読ませて頂きました。
(奇談)おもしろいね。
(年譜)のコピーをとの仰せなので同封します。興味を持ってもらえる
なら嬉しい。
 
 きょうは 視聴者ふれあいセンターという部屋で台風情報を横目に 
電話の問い合わせに追われています。〜 今は昼休み 〜
 そちらに被害がないことを祈ります。
                        敬具
 雅敏 兄                      速雄 拝
 
<<
 
Let'20040621-0623 from Mr.Nakabayasi,Hayao
 同封資料「ある日本人(氏名不詳)比較年表/自分(中林 速雄)」
── 中林 速雄《ある日本人(氏名不詳)比較年表 2003》手稿による。
 
 速雄 兄へ。いわゆる“転生説”かと思ったのですが、どうやら趣向が
ちがうらしいので、とりあえず清書してみました(委細後日、返信無用)。
Files'20040628 for Mr.Nakabayasi,Hayao
 


 【ミスターX】↓西暦年月日(旧暦)<(元号) 年月日(歳)↓【ミスターN】
 
     “誕生”18590331 安政 6.0227 昭和11 19360331 00“誕生”
万延改元     18600408 万延 1.0318 昭和12 1937   01
文久改元     18610329 文久 1.0219 昭和13 1938   02
         1862‥‥ 文久 2 ‥‥ 昭和14 1939   03
         1863‥‥ 文久 3 ‥‥ 昭和15 1940   04
元治改元     18640327 元治 1.0220 昭和16 1941   05
慶応改元     18650501 慶応 1.0407 昭和17 1942   06
         1866‥‥ 慶応 2 ‥‥ 昭和18 1943   07
         1867‥‥ 慶応 3 ‥‥ 昭和19 1944   08
明治改元“維新” 18681023 明治 1.0908 昭和20 19450815 09 敗戦(引揚)
         1869‥‥ 明治 2 ‥‥ 昭和21 1946   10
         1870‥‥ 明治 3 ‥‥ 昭和22 1947   11
         1871‥‥ 明治 4 ‥‥ 昭和23 1948   12
         1872‥‥ 明治 5 ‥‥ 昭和24 1949   13
明治改暦“太陽暦”18730101 明治 5.1203 昭和25 1950   14
         1874‥‥ 明治 7   昭和26 19510908 15 対日講和(占領終結)
         1875‥‥ 明治 8   昭和27 1952   16
         1876‥‥ 明治 9   昭和28 1953   17
西南戦争     18770130 明治10   昭和29 1954   18
         1878‥‥ 明治11   昭和30 1955   19
         1879‥‥ 明治12   昭和31 1956   20
         1880‥‥ 明治13   昭和32 1957   21
         1881‥‥ 明治14   昭和33 1958   22
         1882‥‥ 明治15   昭和34 19590410 23 皇太子ご成婚
         1883‥‥ 明治16   昭和35 1960   24
         1884‥‥ 明治17   昭和36 1961   25
         1885‥‥ 明治18   昭和37 1962   26
         1886‥‥ 明治19   昭和38 1963   27
         1887‥‥ 明治20   昭和39 1964   28
         1888‥‥ 明治21   昭和40 1965   29
         1889‥‥ 明治22   昭和41 1966   30
         1890‥‥ 明治23   昭和42 1967   31
         1891‥‥ 明治24   昭和43 1968   32
         1892‥‥ 明治25   昭和44 1969   33
         1893‥‥ 明治26   昭和45 1970   34
日清戦争はじまる 18940801 明治27   昭和46 1971   35
日清戦争おわる  18950417 明治28   昭和47 1972   36
         1896‥‥ 明治29   昭和48 1973   37
         1897‥‥ 明治30   昭和49 1974   38
         1898‥‥ 明治31   昭和50 1975   39
         1899‥‥ 明治32   昭和51 1976   40
         1900‥‥ 明治33   昭和52 1977   41
“20世紀”   19010101 明治34   昭和53 1978   42
         1902‥‥ 明治35   昭和54 19790612 43 元号法“復活”施行
         1903‥‥ 明治36   昭和55 1980   44
日露戦争はじまる 19040206 明治37   昭和56 1981   45
日露戦争おわる  19050905 明治38   昭和57 1982   46
         1906‥‥ 明治39   昭和58 1983   47
         1907‥‥ 明治40   昭和59 1984   48
         1908‥‥ 明治41   昭和60 1985   49
         1909‥‥ 明治42   昭和61 1986   50
朝鮮併合     19100822 明治43   昭和62 1987   51
         1911‥‥ 明治44   昭和63 1988   52
大正改元     19120730 大正 1   平成 1 19890107 53-52 平成改元
         1913‥‥ 大正 2   平成 2 1990   54
         1914‥‥ 大正 3   平成 3 19911225 55 ソ連消滅
         1915‥‥ 大正 4   平成 4 1992   56
         1916‥‥ 大正 5   平成 5 19930609 57 皇太子ご成婚
         1917‥‥ 大正 6   平成 6 1994   58
         1918‥‥ 大正 7   平成 7 1995   59
         1919‥‥ 大正 8   平成 8 19960331 60“還暦”
         1920‥‥ 大正 9   平成 9 1997   61
         1921‥‥ 大正10   平成10 1998   62
         1922‥‥ 大正11   平成11 1999   63
         1923‥‥ 大正12   平成12 2000   64
皇太子ご成婚   19240126 大正13   平成13 20010101 65-64“21世紀”
         1925‥‥ 大正14   平成14 2002   66“緑寿”
昭和改元     19261226 昭和 1   平成15 2003   67
         1927‥‥ 昭和 2   平成16 2004   68
         1928‥‥ 昭和 3   平成17 2005   69
         1929‥‥ 昭和 4   平成18 2006   70“古希”
         1930‥‥ 昭和 5   平成19 2007   71
満州事変(柳条湖)19310918 昭和 6   平成20 2008   72
満州国建国宣言  19320301 昭和 7   平成21 2009   73
国際連盟脱退   19330328 昭和 8   平成22 2010   74
         1934‥‥ 昭和 9   平成23 2011   75“比寿”
         1935‥‥ 昭和10   平成24 2012   76
         1936‥‥ 昭和11   平成25 20130331 77“喜寿”
日支事変(盧溝橋)19370707 昭和12   平成26 2014   78
         1938‥‥ 昭和13   平成27 2015   79
         1939‥‥ 昭和14   平成28 2016   80“傘寿”
         1940‥‥ 昭和15   平成29 2017   81“半寿/盤寿”
大東亜戦争(開戦)19411208 昭和16   平成30 20180520 82“万寿”
         1942‥‥ 昭和17   平成31 2019   83
         1943‥‥ 昭和18   平成32 2020   84
         1944‥‥ 昭和19   平成33 2021   85
大東亜戦争(終戦)19450815 昭和20   平成34 2022   86
         1946‥‥ 昭和21   平成35 2023   87
         1947‥‥ 昭和22   平成36 20240331 88“米寿”
         1948‥‥ 昭和23   平成37 2025   89
         1949‥‥ 昭和24   平成38 20260331 90“卒寿”
         1950‥‥ 昭和25   平成39 2027   91
         1951‥‥ 昭和26   平成40 2028   92
         1952‥‥ 昭和27   平成41 2026   93
         1953‥‥ 昭和28   平成42 2027   94
         1954‥‥ 昭和29   平成43 2025   95
         1955‥‥ 昭和30   平成44 2026   96
         1956‥‥ 昭和31   平成45 2027   97
         1957‥‥ 昭和32   平成46 2028   98
         1958‥‥ 昭和33 ‥‥ 平成47 20260331 99“白寿”

────────────────────────────────

 藤沢 幾之輔  衆議院議長 1859 0320 仙台  19400403 82 /安政 6.0216/進歩党
 □□ □□  “ある日本人”1859 0331 Japan  19‥‥‥ ? /安政 6.0227
 井上 篤太郎 京王電気軌道 1859 0712 神奈川 19481128 91 /安政 6.0613/政治
 Webb,Sidney James 社会学 1859 0713 England 19471013 88 /ベアトリスの夫
 中林 速雄  アナウンサー 1936 0331 大阪 名古屋     /1959-1996NHK
 毒蝮 三太夫     俳優 1936 0331 東京        /籍=石井 伊吉

 
 ◆
 
更新日: 2005/10/08
 
2004年06月27日(日)  ある日本人 〜 続・もうひとりの人生 〜
http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/day?id=87518&pg=20040627
 処理↓《与太郎文庫》の日付を 20040628 に修正する。
http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/day?id=87518&pg=20040628
http://d.hatena.ne.jp/adlib/20040628


2004年06月27日(日)  ◇

 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/20040627
 
2004年06月27日(日)  ある日本人 〜 続・もうひとりの人生 〜
http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/day?id=87518&pg=20040627
 移動↓《与太郎文庫》の日付を 20040628 に修正する。
http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/day?id=87518&pg=20040628
http://d.hatena.ne.jp/adlib/20040628
 
 ◆
 
更新日: 2005/10/08


2004年06月19日(土)  最初はグーグル? 〜 Google vs Yahoo! 〜

 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/20040619
 
 古典的なジャンケンに「最初はグー」というルールを創案したのは、
コメディアンの志村けんだそうである。「後出し」とか「フライング」
を補正する画期的ルールだから、後世もっと評価されるかもしれない。
 
 2000年問題はなやかなりし頃「最初はグー」だった。いまや Google
が検索エンジンの代名詞となったが、もとは Goo ではじめた人も多い。
 当時は検索機能が競合するなど、想像できなかったのである。
 
 次世代(2001〜2002)の怪奇現象は、たとえば映画《マトリックス》
をヤフーで検索すると、わずか86件だったが、グーグルなら数千件に
およんだ。知る人ぞ知る、両社の技術格差は歴然としていたのである。
 
 ところが、ウィンドウズの団塊世代でもある“ヤフー神話の信者”は、
あいかわらずヤフーで検索するものと思いこんでいたらしい。そこで、
ヤフーはグーグルに検索を全面委託するという大英断に踏みきった。
 
 それ以来、窓口がちがうだけで、結果は同じだと信じられていたが、
ヤフーを通じてグーグルを利用する人々と、最初からグーグルで検索
する人たちとの間に、ふたたび“二極分化”が生じていたのである。
 
 実は《与太郎文庫》にも異変があった。先月末(20040530)のメモに
「エンピツ&はてな」のアクセスが拮抗、カウント数は読者数にあらず、
という前提で“アクセスの安定的倍増現象”を書きとめている。
 
 過去の、一時的なアクセスの増減については、下記に詳述してある。
《与太郎文庫 20030222 アクセス・アップ“怪奇現象”》
http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/day?id=87518&pg=20030222
 
 このたび、アクセスと検索件数との因果関係をもとめて、かんたんな
テストを試みたところ、件数の多い Google が、少ない Yahoo! を網羅
していないことが判明した。
 
 それぞれの検索窓に“与太郎文庫”を入力した場合の抽出件数の比較。
 Yahoo!  15件(指定どおりのキーワードで、よく絞込まれている)
 Google 751件(与太郎+文庫を分割して、無関係なページを含む)
 
 つぎに“与太郎+文庫”と分括入力した場合はどうか。
 Yahoo! 480件(指定どおりのキーワードで、序列が変る)
 Google 751件(分割してもしなくても変らない)
 
 これだけで、どちらが優れているという議論にはならないが、個々に
検索のテクニックがあるにしても、たぶん“天動説”のようなシステム
に寄生依存しているにすぎないのではないか。   (Day'20040619)
 
http://www.hatena.ne.jp/1087195771
── はてな市民の守備範囲について(いわし掲示板)
http://www.searchdesk.com/survey.htm
── Yahoo! Japan:独自ページ検索の開始(最新版 20040602)
────────────────────────────────
http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/list?id=87518&pg=000000
2004年10月28日(木)  月々の語彙 〜 Google Zeitgeist 〜
2004年08月22日(日)  アクセス&あくせく 〜 Keyword Counter 〜
2004年06月19日(土)  最初はグーグル? 〜 Google vs Yahoo! 〜
2004年04月30日(金)  すっとこどっこい! 〜 最初はグーグル 〜
2004年03月31日(水)  泣かない女たち 〜 ダブル・マキコの対


2004年06月14日(月)  幻の弦楽技法 〜 失われた本をもとめて 〜

 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/20040614
 
 先月“でーやん”こと出谷啓氏の同僚だった文字武氏から、36年前
の録音テープ数巻が送られてきた。当時(与太郎が)十字屋楽器店役員
にインタビューしている情景が、まざまざとよみがえって感無量だった。
 
 そもそも出谷啓・文字武両氏が出会った後、文字武・高芝義和両氏が
倉敷で与太郎と33年ぶりに再会したのが発端である。“でーやん”と
与太郎は(電話で話しただけで)いままでのところ会っていない。
 
 以下は、彼が六十四歳となる誕生日を祝して、処女原稿を返却するに
あたり、5年前の未完草稿(書簡初稿)が出てきたので、再録する。
(このほかに、彼の本に直接書きこんだメモもあるが、いずれまた)
 
 昨年公開した未投函書簡《与太郎文庫 20030115 他》と重複する部分
もあるが、電話でのやりとりなど、後日の誤解をおそれず勢いあまった
あたり、一気に書きつけたので、それなりに捨てがたい。
 
>>
 
 高校生だったぼくは、十字屋に売れのこっていた一冊を買って帰るや、
数ヶ月くりかえして読みふけった。この本は、擦弦楽器(弓でこする=
打つ・叩く・擦る・弾く)奏者、数十人を訪問したものである。
 室内楽に限定していて、独奏者はとりあげていない。
 たとえば、第二ヴァイオリン奏者としてシュナイダーハンには、次の
ような質問ではじまる。
「いつも第一ヴァイオリンが弾きおえたあとで、おなじ旋律をもう一度
くりかえすのは、音楽家としてつまらない仕事ではないか」
 シュナイダーハンは、予想どおり、これを否定して、一席ぶつ。
「そんなことはない、第一ヴァイオリンが奏したとおりに反復すれば、
音楽としての輝きは失われるだろうが、わたしは反復することによって、
新しい生命を受けつぐのだ」(なんたる格調の高さ!)
 ヴィオラのプリムローズも登場する。
 
 ヴィオラ・ダモーレという六弦の楽器もはじめて知った。どんな素晴
らしい音が出るかと夢想すること数年、ようやく放送レコードで聴いた
ところ、とんだ期待はずれの響きだった。
 その後いくたびか聴く機会があったが、四度調弦の古楽器で、いかに
五度調弦が理にかなっているか、論より証拠である。
 クレモナ産のヴァイオリン属が完成する以前の“種族”らしい。
 
 ごく最近も、古楽器ばかりのクヮルテットで、ハイドン《皇帝変奏曲》
を聴いたところ、まるでちがう形態の弦楽四重奏なのだ。
 当時は、この曲でさえ、とても前衛的な趣向であったことが判る。
 おそれおおくも、ぼくは無理やり他の三人をあつめて、この第二楽章
を文化祭で演奏しようと試みたが、あまりにも地味なので《ひばり》に
変更した経緯がある。
 ベートーヴェンの《Op.135》なども、当時の聴衆にとっては、まるで
チンプンカンプンの作品だったにちがいない。
 
 それはともかく、高校生は考えた。自分でチェロを弾くよりも、この
ように熟達した弦楽器奏者を歴訪して、話を聞くようなことができたら、
あるいは生涯つづけることができないだろうか、と考えたのである。
 しばらく後に《カザルスとの対話》を読むと、これは大変だ。まずは
秘書になって寝食をともにしなくてはならない。だが、いくらカザルス
が偉大でも、とくに偉大な人物のそばで何年も暮すのはかなわない。
 あとからだんだん分ってきたが《カザルスとの対話》は、あきらかに
《ゲーテとの対話》をモデルにしている。それほど神格化せずに、風格
あふれていて、自由自在に主題が飛躍するのが絶妙である。
 
 たとえば、こうも考えたりした。
 高校を中退して上京し、この本の翻訳者である佐藤良雄氏を訪ねて、
チェロではなく、インタビューの技法を教わることはできないか……。
 当時のぼくは(十字屋の音楽教室で)才能教育研究会から派遣された
チェリスト・野村武二氏に教わったから、佐藤良雄氏の孫弟子にあたる。
ならば“カザルスの曾孫弟子”を自称しても許されるはずだ。
 下鴨の下宿先をふくめて合計5回のレッスンで挫折してしまったが。
(Let'19570322)
 
 (後日註)
 その後の最新情報によると、このころ野村先生は亡くなられたらしい。
 上野達弘氏のチェロで《野村武二メモリアルコンサート 20010825 》
 
 《月刊・アルペジオ》のころ、インタビュー・シリーズを企画したの
は、この本が拠点である。その途中で迷いが生じたときなど、もう一度
読みかえしたくなった。
 この本は、最後にコントラバス奏者数人が登場して、それぞれ室内楽
における役割を述べる。松本清張が「究極の文学形式は“供述調書”に
尽きると述べているが、まさに同感だ!
 こんなに面白い本が、市場から絶滅するとは思いもよらなかった。
(東京時代に、他の文学書にまぎれて売っぱらってしまったらしい)
 
 売り払ったのではなく、後輩の誰かに貸したままではなかったか、と
思いなおして、若林通夫と杉林博子の両君に電話すると、彼らは「ボク
も(ワタシも)そんな本は覚えていない」と強く否定した。
 不当に催促されたように感じたらしく、両君とも不機嫌な反応だった
が、後日むかしの書簡目録をひもといてみると、貸した日付は記録され
ている。(Let'19600225 from Mr.Wakabayashi,Michio)
 こんなことを書くと、古い証文をもちだして、相手かまわず催促する
ように見えるかもしれないが、まったく本意ではない。失なわれた時を
求めているだけで、その物を惜しんだわけではないのだが……。
 カンヌ管弦楽団に在籍する若林君に「むかしの手紙を公開したい」と
伝えたところ「恥ずかしいから勘弁してもらいたい」と返答された。
 この問題については《ラブレターの著作権 20021203 与太郎文庫》他
でも言及しているが、いままでのところ考えがまとまっていない。
 
 こうして数十年たつと、かつての高校生も還暦を過ぎて、回想の世代
に入ってしまった。
 そして、今朝(19990630)目ざめてすぐにこの本のことを思いだし、
今日こそは、この本を探しだそうと決心したのである。これほど有益で
格調たかい書物なのだから、どこかの図書館に保管されるか、かならず
や再版されたにちがいない。
 
1.倉敷中央図書館 086-425-6030
  購入ソフトを検索。1982コンピューター導入時の内容、絶版を含む。
2.音楽之友社 03-3291-7811
  むかしとは社風が変ったらしく、口の利き方がぞんざいになった。
  翻訳書の再版は、書名を変えることもあるらしい。
 (辻修編集長のことなど。当時の社員は岩崎かずお氏だったらしい)
3.神田書店 03-3261-1239(音楽之友社の紹介による古本屋)
4.図書新聞社 03-3234-3471(音楽専門の図書館はない)
5.白水社(心当たりなしの返答。他の出版社かもしれない)
6.全音楽譜出版社
 (最初に電話すれば解決したはずだが、いくつかの不運が重なった)
7.国会図書館 03-3581-2331 → 検索担当者
  隣席のオペレーターと(皆既日食のことなど)私語が聞こえる。
  「所蔵してないですね。もうちょっと(くわしい)情報を得てから
  問合せてください」ここは、まったく時間のムダだった。
8.東京芸大図書館 03-5685-7500 EX.7 図書館利用 → 検索担当者
 
 かつて《音楽100年表 19680801 十字屋楽器店》の寄贈に対して、
激励の手紙を下さった小川 昂氏の大著《日本洋楽書索引》はどうか。
おどろくべきことに、この本もインターネット上で発見できなかった。
《日本書誌大系(全4巻)日外アソシエーツ》にも掲載なし。
 
 ママよ“でーやん”なら知ってるはずだ。
 なにしろ彼は、つねづね“カタログが背広を着ているような人物”を
尊敬していたから、彼自身も相当なカタログマンにちがいない。
 いままで聞かれたことで知らないとは決して云わなかった男である。
 よし、これで判明するぞ。
 
「もしもし、出谷センセイのお宅でいらっしゃいますか」
「さようでございます」
「倉敷のあわ、と申しますが、センセイはご在宅ですか」
「少々お待ちくださいませ」(彼もエラクなったもんだ)
 
 前回の電話はムダ話ばかりだったので、今回やや簡略に口上を述べる。
 ところが、その彼も、そんな本は知らないという。
「キミが知らないということは、日本中で誰ひとり知らないことになる
ぞ!(ぼくを除いては)」
「そんなことはないやろ、ガチガチの物識りは、あんがい方々に居るで」
「この本を知っていそうなのは誰か、教えてくれんか」
「岩手の古本屋に一人いるが、その彼も知らんやろな」
「するとぼくは絶望すべきか。もしこの本が実在しなかったら、ぼくの
幻だというのか」
「カナダ発信のインターネットで、相当くわしいページがあるらしい」
「たとえば、キミの本でも載っているのか、いやこれは失礼かな」
「まさか、オレの本まで載っとらんやろが、漢字の本でも研究的文献は
網羅しているらしい」
「しかし何だね、出版社はともかくとして、図書館などもともとは商売
じゃないのに、蔵書以外の情報にはトンと無関心なのはけしからんね」
「それが現実やろな」
 
「しかし何だね……。(以下、ひとりごと)
 コンピューターだインターネットだのと騒いでいるが、結局じぶんの
所有物しか目に入らないのは困ったものだ。かつて、ぼくの描いていた
未来図書館のイメージは“蔵書をもたない図書館”だったのだ。
 どこに在るか、誰が持っているかを知ることのほうが、現物を扱うこ
とよりも有益なのだ。いまでいう情報の管理と機能である。
 結局、ぼくの存命中には理解されないだろうが……」
 
「ところで、もしキミが本気でこの本を探すとすれば、どうするかね」
「ボクの信念は、とことん探しあるく。日本中の古本屋を徹底的に歩く」
「カナダはどうした?」
「そこまでは行かん」
「しかし、キミが数枚の原稿を書いている途中、ひょいと調べたい本が
あれば、いくらもらうか知らんがそれでも北海道まで歩いていくのか?」
「依頼原稿は別や。本気で読みたいと思ったら岩手県まで出かけていく」
「すると、依頼原稿のときは調べもしないで適当に書く、というわけか」
「そうや、ワリきって書く!」
「なるほど二刀流か、かくしてセンセイに成りあがることができたんだ」
「そらま、そんなとこや。ワッハッハ」
「ま、結果は、そのうち手紙でも書こう」といって電話を切った。
 
── 《幻の弦楽技法 〜 出谷 啓君への電話 〜 19990630 Awa Library》
 
<<
 
Let'20040617 for Mr.Detani,Kei 同封資料
 
 19690510 リヒャルト・シュトラウスかく語りき
 19690616 ラフマニノフの遺産
 19700303 プロコフィエフ/ガーシュウィン/ショスタコーヴィッチ
 19700303 ジャズを読む(別稿)↓ 
 20001231 抜刷《虚々日々 20001231 阿波文庫》P202-203
 
 はじめ、これら処女原稿(正しくは処女期の生原稿)を現物そのまま
送るつもりだったが、編集上の技術的な印刷指定などが書込まれていて、
別の目的で参考になる部分があるので、コピーだけ送ることにした。
 
 できれば誕生日前日の夕刻に届くのが一番だが、いつもながらに手間
どってしまった。とくに前日が誕生日の杉井先生には、力が入りすぎて
不首尾のまま「来年でもいいか」と今年も見送ることになった。
 
 くどいようだが、5年前の電話のやりとりをメモするのはまだしも、
その走り書きを公開することには疑問もある。かりに録音テープが存在
しても、かつての“塩爺ぃ”みたいに「忘れました」と云えばよい。
 
 このあと、思いがけず篤志家があらわれ、ついに幻の《弦楽技法》に
めぐりあうことができた。しかし奥付をみると、すくなくとも15年後の
再版である。再版されながら埋もれていたのは、いかにも解せない。
                   (Day'20040612-0617)
 
http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/day?id=87518&pg=19680707
 あとがきにかえて
http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/day?id=87518&pg=20030217
 幻の《弦楽技法》
http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/day?id=87518&pg=20030115
 幻の《弦楽技法》 〜 出谷 啓氏あての未投函書簡より 〜
http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/day?id=87518&pg=20030309
 《弦楽技法》目次(画像目録)
── マーテンス,F./高杉 忠一・訳《弦楽技法 19720310 全音楽譜出版社》
────────────────────────────────
── 出谷 啓《クラシック この演奏家を聴け! 19960410 音楽之友社》
             (蔵書目録によれば 19980306 購入)


2004年06月13日(日)  白百合忌

 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/20040613
 
 Ex libris Web Library;太宰と富栄の遺体(Wikipedia)
 
── 太宰 治《如是我聞 19480300-0700 新潮》口述 0227 脱稿
http://booklog.jp/users/awalibrary/archives/1/
http://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/1084_15078.html
http://homepage1.nifty.com/yasuki-a/toku-nyozegamon.html
 
── 山内 祥史《太宰治の年譜 20121206 大修館書店》
http://booklog.jp/users/awalibrary/archives/1/4469222267
 
>>
…… なんとも奇妙な情熱にとらえられてしまった人、といっていいだ
ろうか──文芸評論家と呼ばれるわけでなく、作家でもなくて、太宰治
の“実像”を追うこと三十余年、長篠康一郎さん(本名康煕=やすひろ)
は、ついに、永年勤めた東京・目黒雅叙園をやめてしまう。二年前のこ
と、停年まで六年を残していた。ポストは営業課長だった。
「太宰さんだって、ぎりぎりを生きたんですね。私だって余技としてや
っていたら、いままでの範囲を抜けられない。徹底的にやろう、と思っ
たんです」
 はじめのうちは失業保険があった。次に退職金、それからは家族全員
の保険も解約してしまった。いま、長女は嫁にいって、二児の母。妻の
美代子さんと次女もそれぞれに職場を持っているが、長篠さん自身の固
定収入は月に九千円。『路』という観光ガイドの研修用雑誌に“太宰
文学散歩”を連載して、その原稿料だそうである。
 長篠さんの氏素性は、由緒正しい。愛知県南設楽郡鳳来町に跡が残る
長篠城主の直流なのだという。
 が、大正十五年、東京・大森山王に生まれてからの有為転変も激しい。
手広くゴム靴問屋をやっていた父が事業に失敗し、母は家を出た。残さ
れた長篠少年のその後は徳島や下関を転々。東京高等鍼灸学校、官立無
線(今の電気通信大)を出、中国大陸で陸軍航空隊の暗号係をやってい
るうちに終戦を迎える。十ヶ月ほどの捕虜収容所生活を終えて帰国後、
同志社大系の徳島外語専門学校に学んだ。
 「あれは昭和二十三年の春、徳島外専の二年生の時でした。友達から
『新潮』に掲載された太宰さんの『如是我聞』を読ませられたんです。
身につまされました」
 つまり、国のためと思って戦場にあった身が徳島に復員してみると、
復員兵に対する世間の目は冷たい。そればかりか「ものごとはすべて一
転して、アメリカ、民主主義、文化国家でなければ夜も日も明けない、
といった具合」だった。そんな世相を前にして、『如是我聞』の、いっ
てみれば“反時代的考察”に長篠さんは強く共鳴した、らしい。太宰と
の出会い、である。
「この人なら分かってもらえる、と思いました」
 で、上京を決意するが、実際には、上京する一ヶ月ほど前に入水自殺
してしまった。
 一般的にいって、太宰文学にひかれるのは、青春の一時期にすぎない。
“太宰熱”は一過性なのが普通なのである。ところが、長篠さんの場合
は、そうならなかった。子供の頃に去った母親が東京に住んでいるらし
い、という話にひかれたためでもあるが、ともかく予定取り上京した長
(以下、欠=URL 不詳)
<<


♀田辺 あつみ バー女給 19121202 広島 鎌倉 19301129 19 /服毒心中/籍=田部 シメ子
♀小山 初代 芸妓=紅子 19120210 室蘭 中国 19440723 33 /病死/太宰 治の前内妻
 太宰 治     作家 19090619 青森 東京 19480613 38 /玉川情死/籍=津島 修治〜《桜桃》
♀山崎 富栄 戦争未亡人 19190924 東京   19480613 28 /玉川情死〜《愛は死とともに》
♀太田 静子 太宰の愛人 19130818 滋賀 東京 19821124 69 /計良 満里子の母〜《斜陽日記》
♀津島 美知子 太宰の妻 19120131 島根 東京 19970201 85 /旧姓=石原〜《十二月八日》
────────────────────────────────
 長篠 康一郎 太宰研究 19260526 東京   20070216 80 /白百合忌主宰〜《雨の玉川心中》籍=康煕
 山内 祥史  太宰研究 19320619 香川          /神戸女学院大学長〜《太宰治の年譜》

 
 山崎 晴弘  富栄の父 18‥‥‥ ‥‥   19‥‥‥ ? /東京婦人美髪美容学校設立
── 山崎 清吉・山崎 信子・共著《技術原理 詳解婦人結髪術(全)
19190101 東京婦人美髪美容学校出版部》1930‥‥ 山崎 晴弘(?)
http://booklog.jp/users/awalibrary/archives/1/B008YSQ036
 

https://www.mozilla.org/ja/firefox/new/(Ctrl+F)
http://awalibrary.blog.so-net.ne.jp/
 |
http://twitter.com/awalibrary(ツイッター)
http://twilog.org/awalibrary(ツイログ)
http://booklog.jp/users/awalibrary(ブクログ)
 |
http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/list?id=87518&pg=000000
http://www.enpitu.ne.jp/tool/edit.html(与太郎文庫)
http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/day?id=87518&pg=20040613

 
(20160220)
 
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2004年06月08日(火)  戯歌問答 〜 手ぐすね三傑 〜

 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/20040608
 
>>
 
 前略 久しぶりに(全く!)会い語らうことが出来て本当によかった。
すっかりご造作をかけましたが、お許しを。楽しく美味しい数刻でした。
ふと浮んだ貴兄の名前詠み込みの戯れ歌を裏面の空白に。ありがとう。
 怱怱 
 
 あっという間に 別れの刻が またそのうちにと 
   さりげなく 友を見送る 白い髪 
 
── Let'20040608-0611 from Mr.Nakabayashi,Hayao
<<
 
(返歌)
 
 なつかしや 
 かみはしろくなろうとも
 はなせばもとの
 やさおとこ
 しばしのえがお
 はやおもかけ   (与太郎より まいくさん江)
 
 戯れ歌は こんな調子で いいのかな?
 あのときの 年譜のコピー 送られたし
 いささか調べてみたいので
 


 清水 紘治        俳優 19440211 京都 /1994大谷 直子と離婚
♀島倉 千代子       歌手 19380330 東京 /〜からたち日記/人生いろいろ
 中林 速雄 NHKアナウンサー 19360331 大阪
 コロンビア・トップ   漫才 19220506 東京 20040607 82 /元参議院議員
 森繁 久弥        俳優 19130504 大阪 /〜夫婦善哉/知床旅情
 九十九 黄人 東洋民俗博物館長 1893.... 奈良 19980215 103
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(つくも・こうじん)籍=九十九 豊勝(産経データベース)
《たけし・さんまの“偉人伝説” 19970402 》TV出演

 
(奇談)
 
 以下の余談は、すこし込みいっているが、面白い人には面白いはずだ。
 結婚披露宴が終ってから、与太郎がロビーであいさつなどしていると、
中林氏に、ひとりの老人を紹介された。偶然ホテルに居合わせたという。
 
「こちらは写真ライブラリーを構想中のカメラマン。この方は中国文化
のコレクターで、あやめが池で東洋民俗博物館のオーナー」と紹介され
たので、つつしんで名刺を交換する。(19670120)
 
 多忙な新郎は、すぐに他の人に話しかけられて、老人のことは忘れて
しまった。そのあと老人は、与太郎の女友達(歌手・清水まり)に着目
して、まことに手ぎわよく話しかけたらしい。
 
 彼女は大映映画の脚本家の娘であり、俳優・清水紘治の姉にあたる。
同志社女子高校を出たお嬢さん育ちだが、クラブで歌っていたところ、
与太郎の席に呼ばれたのがきっかけで、すっかり意気投合したのである。
 
 そういう間柄だったが、目鼻立ちの派手な彼女が、与太郎の披露宴で
《ラ・ビアン・ローズ(ばら色の人生)愛の讃歌》など表情たっぷりに
謳いあげたものだから、田舎から出てきた老人たちは驚いてしまった。
 
 すでにして与太郎の遊蕩ぶりは、知る人ぞ知るほどだったので、無粋
な親戚に「あの女は何者か」と後日誰何されたりしている。とはいえ、
いかなる愚か者でも、わけありの女に歌わせるはずもないのだが……。
 
 同伴者なしに招待された独身女性が、ホテルのロビーが混雑する中で、
すぐには帰る気にならなかったのだろう。いまなら予想できなくもない
が、友人の誰かがエスコートしてくれるべきだった。
 
 どことなくポツンとしている風情に、絶妙のタイミングで老人が接近
したらしい。彼女は、NHKきっての優男が与太郎に紹介したのを傍観
していたので、話しかけられると愛想よく応対したにちがいない。
 
「あなたも、新郎のお知り合いかな?」(与太郎の想像による会話)
「はい、そうですけど」「なかなか、盛大だったようですな」「ええ」
「新郎は、なかなか好青年ですな」「そうですね」
 
 この程度の会話で、わかい女性が心を開いたとしてもやむを得ない。
「わたしは、もと教職の身でしてな。いまは中国文化の収集家として、
ささやかな民俗博物館を開いています」「まぁ、どちらで?」
 
「近鉄沿線のあやめが池公園の中ですよ」「あら、こどもの頃に何度も
行ったのを覚えてますわ」「そうでしょうとも、ぜひもう一度ごらんに
なりませんか、よろこんでご招待いたしますよ」「それはどうも」
 
 ふつうは、ここまでの社交辞令で終るはずである。ところが意外にも、
まんまと(数日後だかに)彼女は出かけて行ったのである。そのあとで
与太郎は彼女から、耳を疑うような事実を聞かされた。
 
「あの先生がね、わたしの背中に触ってきたのよ」「なんだって?!」
 与太郎は彼女を問いただすよりも、素性の知れない老人の口車に乗せ
られて、ノコノコ出かけたことが心外だった(なにがセンセイか!)
 
 遊蕩や放蕩を非難される者なら、おのずから卑しい世界に通じている。
卑しい行為が恥ずべきことも知っている。誇りたかい女性なら、許され
ざる者を一蹴することを、切望してやまないのである。
 
 たぶん彼女は、決然として博物館を出たにちがいない。老人も無礼を
詫びたにちがいない。それ以上の事態は考えられないものの、与太郎は
その日を最後に、彼女と絶交してしまった(なにが好青年か!)
 
 いま思うに、与太郎は彼女を妹のように、淑女として遇していたのだ。
いかなる事情にせよ、たとえ老人であろうとも、わかい女性がひとりで
訪問するなど許せなかったのだ。どうして一言、相談しなかったのか。
 
 与太郎は、あやめが池の博物館など知らないが、どうやら“その道”
の逸品・珍品が並んでいるそうだ。資産家の息子だった九十九老人が、
戦前から中国大陸にわたって集めたコレクションの数々だという。
 
 与太郎の後日談を、はじめて聞いた中林さんは、付けくわえた。
「九十九さんは、すぐに触るらしいんだよ。気が小さいから、断わられ
るとすぐ引っこめるんだそうだ」(37年前に聞いておくべきだった)
 
 すきあらば だめでもともと 四十八手(あのてこのて)
 化人か偉人か 九十九黄人
 へのこもねむる 百三っ(草木も眠る丑三つ時)
 
「そりゃ“モリシゲ”だ」 与太郎は思わず叫んでしまった。
「そう! ダメモトだが、お金持ちだからね、断わらなかった相手には、
いっぱいプレゼントするらしい」森繁久弥の手くせは、有名だ。
 
 ふたりで散々“不良老年”を茶化したあとで、しみじみ語りあう。
「しかし、われわれだってエラそうなことは云えないよ。イザとなれば、
あるいは“スキあらば”その道に通じるかもな」「そうともさ」
 
 きのう、コロンビア・トップの葬儀では、島倉千代子がワイドショー
のマイクに向って(目頭を抑えながら)こう証言していた。
「おっちゃんは、すぐに触るのよ。あたしも随分さわられたの」
 
────────────────────────────────
(現況)
 この博物館とあやめ池遊園地は、まもなく閉鎖されるという。
 往年の情景は、つぎのサイトで活写されている。
 
http://www.kanshin.com/index.php3?mode=keyword&id=444102
── 東洋民族博物館《関心空間》
 
 つづく(Day'20040611)Day'20040603<20040605


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