| 2006年06月11日(日) |
向野 幾世『お母さん、ぼくが生まれてごめんなさい』★★★★☆ |
 『お母さん、ぼくが生まれてごめんなさい』 向野 幾世 産経新聞ニュースサービス (2002/06)
この本に出てくる母親や教師に比べて、自分はなんて未熟で怠惰で冷たい人間なんだろうと思わずにいられなかった。
人が生きること。 命の重さ。 尊厳。 苦しみの向こうに見える光。 絶望。 強さに裏付けられた優しさ。
ものすごい密度で日々を過ごしている人たちがいる。
脳性麻痺児として生をうけたやっちゃん。 彼が短い人生を終えるまでの、その軌跡。 家族の苦労と優しさ。学校教育の現場。
不自由であっても不幸ではない。
身体は健康でなくても、心は健康。
見返しのやっちゃんの笑顔がそれを雄弁に語っている。
私が喉が痛くなったエピソード。 重度障害者が集う施設を作ろうという運動が起き、資金集めの『わたぼうしコンサート』がひらかれることになった。 やっちゃんと舞台に上がり朗読することになった母京子さんは、やっちゃんの兄が友達を連れてくるのに、引け目を感じないだろうかと恐れ、ためらう。 それを当の兄に、「出てきたらうちのおふくろと弟やってみんなに紹介しようと思うてたんやがな」と逆に叱られたとのこと。
山元 加津子さんの『きいちゃん』と同じ、偏見と戦う痛みと強さと温かさがここにも見つけられた。(この本もうちの本棚にありますが、私も相方も途中で泣けてしまって読めなくなります) 自分の底の浅さをつきつけられるようで、申し訳ない思いでいっぱいになります。 私も心ない言葉を投げつける無知な差別者の側に今もいるからだろうか。
やっちゃんの兄は医大へ進み、弟は小学6年生で施設慰問のボランティアグループを立ち上げる。
やっちゃんがいたからできかなったこと。 やっちゃんがいたからできたこと。
マイナスをプラスに転じる強さ。 マイナスは、ネガティブなだけじゃない。 すべてのことに、意味があるのだ。
それを教えられる。
『ごめんなさいね おかあさん』に寄せられた、感動しました、以外の反感も忘れてはならない。 なぜ謝らねばならないのか。ごめんなさいと言わねばならない世の中にこそ、問題があるのではないか。それも正しい。 ほんとうにごめんなさいと言わねばならないのはどちらなのか。
この本について、うまく伝えられないことがもどかしい。 やっちゃんの中にもあふれんばかりの言葉があったろう。 それを伝えるのに膨大な時間がかかったということ、どんなにもどかしかったろう。
書き出しだけで1ヶ月かかったという(先生が思いつく言葉を羅列していきながら、やっちゃんがOKを出すまで続けるという方法)この詩。 たくさんの人に読んでほしいと私も思う。
『ごめんなさいね おかあさん ごめんなさいね おかあさん ぼくがうまれてごめんなさい ぼくを背負う かあさんの 細いうなじに ぼくはいう ぼくさえ 生まれなかったら かあさんの しらがもなかったろうね 大きくなった このぼくを 背負って歩く 悲しさも 『かたわな子だね』とふりかえる つめたい視線に 泣くことも ぼくさえ 生まれなかったら
ありがとう おかあさん ありがとう おかあさん おかあさんが いるかぎり ぼくは生きていくのです 脳性マヒを 生きていく やさしさこそが 大切で 悲しさこそが 美しい そんな 人の生き方を 教えてくれた おかあさん おかあさん あなたがそこに いるかぎり』
『お母さん、ぼくが生まれてごめんなさい』
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