活字中毒のワタシの日記

2006年08月05日(土) 落合 美知子『いい家庭にはものがたりが生まれる―子どもたちのわらべうた・絵本・おはなしから』★★★☆☆

いい家庭にはものがたりが生まれる―子どもたちのわらべうた・絵本・おはなしから
落合 美知子
エイデル研究所 (1992/11)

センス・オブ・ワンダー。

雷に打たれたような気がした。

センス・オブ・ワンダー。

これだ、と思った。
大事なのは。
大事にしたいと思っているのは。
このために絵本を読み、こども劇場で観劇してるのだ。
そして各地で文庫にとりくんでいる方たちも、きっとそう。
プレーパークに取り組む人たちも、きっとそう。
「こども」を大切に考える人たちが大事にしていることは、きっとこれだ。

この本を読んだ日、一日中この言葉が頭に響いていた。

保育園の文庫にあった本で、先日借りた『子どもが育つ魔法の言葉』同様、ヒット。

娘4歳と息子6歳となり、自分の内的世界も広がりつつある。
その豊さには感心したり、驚いたり、笑ったり、ほんとうに面白い。

絵が好きな息子はお絵描き帳もクレヨンもあっという間に使い切る勢いで先生にも驚かれてる。
書きなぐったような塊がちゃんと象や猿や鶴やゴリラに見えるのがすごい!(親バカ)
母はイヌすらまともに描けなくなってる(描けるがウマかブタかイヌか見分けがつかない)というのに。

娘は先日粘土で何か作ったそうで、聞くと「あのね、おくすり」。
見たら、箱の中に小さく切り刻まれた塊がたんまり。
正露丸?
粘土でそんなもん作ろうと思うアンタってすごいよ…。

こども劇場に所属して、観劇やいろんな工作に取り組んだりしているのは、家族で楽しい思い出作りができればいいなというのもあるけれど、こどもたちの心の「土」を耕したい(豊かな土壌にしたい)と思うから。

これから生きていく上で大切なのは、土の部分、根っこの部分がしっかりしたものであることだと思うから。
まぁこども劇場だけがそれを育んでくれるとは思わないけど、それでも、ものすごくいい体験させてくれてる。それも子どもも、母も、父も。
だからこれからも続けたい。

その思いに、この本を読んで改めて気づかされた。

心に残った所。

レイチェル・カールソン著『センス・オブ・ワンダー』の中で著者が「私の気持ちにぴったりの言葉」として紹介されている箇所。

「『子どもたちの世界は、いつも生き生きとして新鮮で美しく、驚きと感激にみちあふれています。残念なことに、わたしたちの多くは大人になるまえに澄みきった洞察力や、美しいもの、畏敬すべきものへの直感力をにぶらせ、あるときはまったく失ってしまいます。
もしもわたしが、すべての子どもの成長を見守る善良な妖精に話しかける力をおっているとしたら、世界中の子どもに、生涯消えることのない『センス・オブ・ワンダー=神秘さや不思議さに目を見張る感性』を授けてほしいとたのむでしょう。
そして『妖精の力にたよらないで、うまれつきそなわっている子どもの「センス・オブ・ワンダー」をいつも新鮮にもちつづけるためには、わたしたちが住んでいる世界のよろこび、感激、神秘などを子どもといっしょに再発見し、感動を分かち合ってくれる大人が、すくなくともひとり、そばにいつ必要があります』」(P90-91)

最近寝る前に読んでいる本が『星の王子さま』なんだけど、「センス・オブ・ワンダー」をもった王子さまと、失った大人たちの話。
次に読もうと思っている『モモ』もそうだね。
時間泥棒に時を奪われて気づかない、それでよしと雑事に追われ、潤いを失っていく大人たちを、「センス・オブ・ワンダー」を失っていないモモが戦い、救う。

「センス・オブ・ワンダー」があれば。

サンタクロースが存在できる。
てぶくろ』の中に入れる。
トトロ』に会える。
めっきらもっきらどおんどん』でしっかかもっかかたちに会える。
くまのコールテンくん』とともだちになれる。
ぐりとぐら』のケーキが食べられる。
おおきなかぶ』だって一緒に抜ける。
くだもの』が食べられちゃう。
ごめんねともだち』で蟻の上に涙が落ちるのが見える。
ラチとらいおん』のライオンをポケットに入れられる。

こども文庫を各地に根付かせてきて、多くの子どもたちに出会ってきた著者が、残念に感じたこと。
小学生になって 初めて『てぶくろ』を読んでもらった子がつぶやいた「こんな小さな手袋に何匹も入れるはずがない」。

これこれ!
と思った。そう、入れるわけないんだよ。
おじいさんが落とした手袋に、ねずみにうさぎにきつねにおおかみにいのししにくまが。

なのに入れてしまうとしたら、その感性、想像力、空想力、って素晴らしいものだと思うし、大事にしたいと思う。

この本のどこかに書いてあったと思うのだけど、一度サンタクロース(的なもの。)を信じられた子どもはサンタがいなくなった後も、その場所に別のなにかを住まわせることができるそうだ。
それが、生きていく上での力になる、気がする。

そういうものを、大事にしていきたい。
絵本との出会い、これまでもありがとう!なのだけど、これからもよろしくね!という気持ちをあらたにした一冊だった。

いい家庭にはものがたりが生まれる―子どもたちのわらべうた・絵本・おはなしから



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2006年07月29日(土) 五木 寛之編『うらやましい死にかた』★★☆☆☆

うらやましい死にかた
うらやましい死にかた
五木 寛之
文藝春秋 (2002/08)

市井の人々による身近な死について語られた投稿を五木寛之さんが編んだ40の「普通の死」。

私自身30年以上生きてきたけれど、身内の死は2回。
それが多いのか少ないのかわからないけど、これからは増える一方なんだろう。
考えないようにしていたことに、今気づいた。

死を考えることは、生きることを考えることなのにね。
大切なことなのに。

昨年、ママ仲間が一人亡くなり、彼女の死から教えられた「今を大切にすること」の意識は少しだけ高まったけれど、まだまだだ。
最近、子どもがお世話になっている保育園の職員の配偶者が亡くなった。
小さなこどもと妻を残して、どんなに心残りだったろう。
彼の亡くなった年齢まで、私は後2年。

残された時間が2年だったとしたら、どう生きるか。

そういうことを考えて、行動に生かしていくことは大事だと思う。

この本の中で心に残ったところ。

不自由な身体にも関わらず自立した書道教室を主宰していた叔母の死の準備。
葬儀は身内だけの密葬で。
そして親しくしていただいた方々には、死後に届くように自筆の挨拶状を用意。

『「□月□日、黄泉の国に無事到着いたしました。」』(p114)

私もこれ、やりたい!
と思った。
残された人が、悲しみながらも口元をほころばせる、そんなことができたら素敵。

そして、長患いの介護の末に夫を看取った女性の言葉。

「(略)あとには悲しみよりも開放感の方が大きかった。
あの人も解放されたが、残る私のほうも解放された。涙より微笑みがのぼってきました。安堵と、自分で自分をほめてやりたいような満足の微笑みでした。」(p136)

この方、葛藤と戦いながら、手厚い介護を続けてきたんだろうなと思った。
私にできるか、かなりこころもとない。

よく死ぬために、よく生きなくちゃね。

うらやましい死にかた



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2006年07月22日(土) あさの あつこ『バッテリー』★★★☆☆

バッテリー
バッテリー
あさの あつこ
角川書店 (2003/12)

こういう児童小説もありか、と思った。

内容(「BOOK」データベースより)
「そうだ、本気になれよ。本気で向かってこい。―関係ないこと全部捨てて、おれの球だけを見ろよ」中学入学を目前に控えた春休み、岡山県境の地方都市、新田に引っ越してきた原田巧。天才ピッチャーとしての才能に絶大な自信を持ち、それゆえ時に冷酷なまでに他者を切り捨てる巧の前に、同級生の永倉豪が現れ、彼とバッテリーを組むことを熱望する。巧に対し、豪はミットを構え本気の野球を申し出るが―。『これは本当に児童書なのか!?』ジャンルを越え、大人も子どもも夢中にさせたあの話題作が、ついに待望の文庫化。

読みながら、自分の胸に飛び込んでのは次の文章。

池の中に転落、水死しているかもしれない(そして死体はブルーギルに食われるのだ)病弱な弟を探し、不安に押しつぶされそうになりながら、よくやく見つけた矢先、草にからみとられて生臭い池に落ちた巧が豪に「ピンチに弱い」と指摘され、弟には信頼の言葉をかけられ、混乱し、吐き気と涙でどうにも動けなくなって感じた、

「心も身体もボールさえも思うようにならない。」(p228)

思うようにならないものなど何もない、そう思って生きてきた巧がおそらく初めて感じた無力感、絶望感。

あぁ、これがきっと「こども」から「おとな」になる瞬間じゃないのか、と感じた。

大人になるということは、
泣かなくなることでも、人に頼らないことでもない。
必要な時には、泣けること、誰かに頼れること。

それがこの本のテーマではないと思いつつ、私に一番響いたメッセージはこれだった。
こういったメッセージを、こんなに自然に、そしてわかりやすく伝えられる小説というのはいいなと思った。

そして読み終えて、一番心に残ったのは、著者のあとがき。

「それでも、この一冊を書き上げたとき、わたしはマウンドに立っていた。異議申し立てをするために、自分を信じ引き受けるために、定型に押し込められないために、予定調和の物語を食い破るために、わたしはわたしのマウンドに立っていたのだ。」(p254-255)」

著者は、ヌルい児童小説が書きたかったんじゃない。
著者の中から、書かねばならないと湧いて来たもの。
少年少女の凶悪犯罪が続く中で、ステレオタイプに語り捨てられるその時代とその時代を生きるコドモ、そういった世相や蔓延する価値観に対して、流されることにノーと言い、物書きとしてノーという作品を作り上げた。

その心意気が、『バッテリー』の巧を、青波を、洋三を、真紀子を、豪を生み出した。

野球の物語でありながら、試合すら出てこない小説。
あまり野球に興味のない私はそれまた面白いじゃない?と思ったのだけど、続きがあることに先日知って驚いた。
これだけで完結していても充分面白い(巧たちの中学時代は読者の想像にゆだねられて、自由に羽ばたいていけるから)と思ったけど、せっかくならば読んでみましょう。

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