活字中毒のワタシの日記

2006年09月10日(日) 波多野 ミキ『子どもの上手な叱り方・下手な叱り方―親が変われば、必ず子どもも変わります』★★★☆☆

子どもの上手な叱り方・下手な叱り方―親が変われば、必ず子どもも変わります
子どもの上手な叱り方・下手な叱り方―親が変われば、必ず子どもも変わります
波多野 ミキ
三笠書房 (2006/05)

相も変わらず、下手な叱り方ばーっかりの未熟なハハのワタシ。

めげないコドモに育ってくれて、感謝してる。

人の一生の中で、最も重要なのは幼児期であるということを痛感する筆者による、その時期のコドモへの接し方、叱り方について、豊富なカウンセラーの経験からのアドバイス。

ココロに沁み入りました。
ダメ母、いたく反省。

親の財布からお金を抜き取ったコドモ。
泣きながらもうしないと言ったのに、また同じことをした。
途方にくれる母親。

それに対する著者のアドバイスは三つ。
迫力を持って叱ること。
親自身がお金の管理をしっかりすること。
そして、他の生活習慣から改めるということ。

「お金を勝手に持ち出すような子は、何事においてもルーズな面があります。」(p102)

一時が万事。
それは本当にそうだと思う。
お金を勝手に持ち出すのは、そう育てたからなのだ。そのつもりがなかったとしても。
スジを通すこと、が育児においてとても大切。(あああ反省…)

「何か問題が起きた時、そのことだけを直そう、やめさせようとするだけでなく、生活全体を見直してください。そして、家族の中の人間関係も。親子のコミュニケーションがうまくいっているかどうかも、子どもの問題行動と深いかかわりをもっています。」(p103)

私は20歳過ぎてもずっと爪かみがやめられなかった。

やめたかったけど、嫌だったけど、やめられなかった。

それには理由があったから。
強く「やめなさい!」と言われなかったけど、気づいてほしかったんだろうなと思う。自分なりのSOSだったんじゃないかな。
私なりの、自傷行為。
もっと深刻な状況だったらリストカットが延長にあったのかな、とも思う。

だから、息子が一時期爪かみをしていた時はショックだった。
やめてほしかったけど、その行為自体をやめさせること、しないようにすることは無意味だとわかってた。彼のSOS。
彼が、教えてくれた問題、課題に向き合って変わらなきゃいけないと想った。
そして、いつのまにか治っていた。

その他、心に残ったところ。

「子どもの質問一つ一つに、ちゃんと応えるおとうさん、おかあさんのいる家庭を、『応答性のある環境』と言います。(略)
応答性のある環境で育てられた子どもは、小学生になっても、さまざまなことに好奇心をもちます。どうしてだろう、なぜだろうということを、常に考えています。
この好奇心をもつということが、ものごとを解決したり、新しいことを発見したり、発明したりすることの原動力となるのです。」(p152-153)

うちのコドモも「どうして冬は寒いの?」「どうして空は青いの?」「どうして夜は暗いの?」と科学のココロを育んでいる。
その時々で、「地球はね、太陽の周りを回っていてね…」だったり、「なんでだろうねー不思議だねーどうしてだと思う?」だったり、「おかあさん知らないのよ。今度図書館で調べてみよう」だったり。

「そんなの当たり前でしょ!」
「学校行ったら教えてもらえるわよ」
「うるさいな」
「知らんよ。聞かないで」

こういう言葉は。かけられたくなかったから、かけないように気をつけてる。
私自身、親をうんざりさせて「どうしてどうしてって言わないで」と言わせたコドモだったから。

伸びる芽なんだよね。摘んじゃいけないんだよね。

いつでもどんな時でも最良のことはしてあげられないけど、枯れるようなことはしちゃいけないよね(反省反省)。

それから、これも。

「受け身でいたのでは、親になるための教育を受ける機会はないのですから、いい親になりたい、子どもを立派に育てたいと思うなら、自分からすすんで学ぶ姿勢をもたなければならないということです。(略)
子どもは親を選ぶことができないということです。」(p161)

親に価しないような親の元に生まれた子どもが背負うハンデ。
私のコドモたちがそうでないとはいいきれない。
そうならないためには、学ぶこと、そして次のことを忘れないこと。

「昔から言われているように、『子どもは、親の言うとおりにはならないが、するとおりになる』のです。」(p162)

「親だって人間です。(略)
ただ大事なのは、親自身の価値観、生き方の問題です。どんな時に感動し、どんなことを喜ぶか、どんなことを大切にしているか。それは、毎日の生活の一つ一つのことに対する態度に自然にあらわれてくるのです。」(p162)

欠点だらけの親であっても、子どもと一緒に成長していくこと。
学ぶ姿を見せること。
人生を楽しむ喜びを教えること。
働く大切さを教えること。
他人に対して敬意をもって接することができること。

教えたいことであり、まだまだ自分自身が学ばないといけないこと。

そして、最終的にめざすのは、子どもの自立。
親離れ子離れをスムーズにできること。
それができない親子が増えているらしい。
私自身もそうかもしれない。

「子どもの出産と自分の結婚のどちらが喜びが大きかったか」というとある調査で、欧米では後者、日本では前者を選ぶ母親が圧倒的に多いそうだ。
私は欧米タイプだけど。
母子密着な日本だからさもありなん、と思う。
問題は、子どもが大きくなって離れて行くべき時期になってもそうできない母子。
母は自己満足かもしれないけれど、子どもは被害者だと思う。

経済的な自立。精神的な自立。そして、生活の自立。

一生一人で暮らすかもしれないわけだし、誰かと暮らしたって生活の雑務はあるわけだし、性別に関係なく、一社会人として自分の面倒がみられることは必要で、そこまでに育てるのが親の仕事だと思う。

と、自立と縁遠い育ちをしてしまった元ダメ子どもで、今ダメ母は痛感。

それでも、必要があれば助けを求められるようになったし、信じるココロも少し取り戻した。
そんな親からでも、生きていくのに必要なこと、大切なことを学んでいってくれればと思う。

そんなことを考えさせられた一冊。

子どもの上手な叱り方・下手な叱り方―親が変われば、必ず子どもも変わります



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2006年08月28日(月) リリー・フランキー『東京タワー ~オカンとボクと、時々、オトン~』★☆☆☆☆

東京タワー ~オカンとボクと、時々、オトン~
東京タワー ~オカンとボクと、時々、オトン~
リリー・フランキー
扶桑社 (2005/06/28)

たいてい『大泣き!』ととりあげられてニュースになるような『名作』に、私が泣ける本はない。

世界の中心で、愛をさけぶ』しかり『孤宿の人』しかり。

果たして、この作品もそうだった。

泣きドコロ、わからん。
著者の大切な人(母)が亡くなるというのは悲しいことだけど、別れは必然。
これ読んで泣けるような人がほんとに多いなら、電車の中でpodcastで事故のニュース聞いて涙をこぼすひとがもっといたっていいんでは?

私にとっては、著者は母の死が悲しかったろうなぁと思うけれど、又聞きの又聞きのような印象しか覚えなかったので泣けなかったのだと思う。
自分自身や友人、身近な人の話だったら泣けてしまうと思うので、この作品の著者にどこまで感情移入できるかが、泣ける泣けないの分かれ目なのかも。

でも私は自分の生活でいっぱいいっぱいの母からの仕送りを使い込んで尚かつ借金整理してもらったりもしてないし。

感情移入は、ちょっとキツい。
意識的に感情移入しないと楽しめない文学作品というのもどうかと。

『親孝行 したい時には親はなし』

これを再認識するにはいい本かも。

とまぁ、けちょんけちょんだけど、心に残ったエピソードが一つあった。

オカンの姉妹で海外旅行に行くことになり、現地で食事をした際に、持参した割り箸を洗おうとしたオカンの姉を、その息子が「みっともないことするな!」と叱ったシーン。

そうせざるを得なかった彼女のこれまでの人生を思って悲しくなった。
胸が痛くなった。

そーいう姉と似たり寄ったりの生活を送っていたオカンから、金をせびってたんですよね、この息子(著者)は。

だからこそ、泣けるのか?もしかして。

そんな息子がいよいよ親孝行できるようになったと思ったら、あああっって。

もっと気持ちよく泣きたい方には、『塩狩峠』あたりどうぞ。
死なないことが悲しくて(!)、たまらなくなってみたい人は『天北原野』なんかも。

東京タワー ~オカンとボクと、時々、オトン~



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2006年08月26日(土) 上野 正彦『死体は語る』★★★☆☆

死体は語る
上野 正彦
文藝春秋 (2001/10)

きれいな死体になりたいな…。

この本を読んで、そう思った。

異状死体になって検死を受ける身にはなりたくないけど、こればかりは自分で選べないから、もしそうなった時に監察医に「相当自堕落な生活送ってた身体だねこりゃ」と思われないように。

(著者の名誉のために書いておくと、こんなことを思ったとは一言も書いてません。むしろ、死者の人権を重視し、畏敬の念を抱いてらっしゃいます)

この本を読んで知ったのだけど、死の取り扱いには3種類あるそうだ。
病死。犯罪死。その中間の異状死体。

病死は主治医が死亡診断書を発行する。
犯罪死は検事の指揮下で司法解剖。

異状死体になるケースは、医師にかかわらずに突然死したり、自殺、災害事故死、病気か犯罪に関係しているのか疑わしい場合。
こういう場合は、警察に届けられてから警察官立ち会いのもと、医師の検死を受ける。
これを制度化したものが監察医制度で、現在5都市で施行されている。
(東京、横浜、名古屋、大阪、神戸)

この監察医制度は、死者の人権を擁護している制度だと著者は言う。

事故死とされたが、検死の結果、他殺とわかったケース。
自殺や心中に見せかけた殺人。
または殺人に見せかけた自殺。
そういった難しい状況を、死体の状態から推測し、調べ、真実を見つけ出す。

自殺のようなのに、首の紐の跡が並行になっている。吊った場合は、後頭部へかけて斜めになるはずだからそれはおかしい、他殺だ、だとか、いやそれは吊った後で暴れて外れかけたので圧力がなんとかだからやはり自殺だとか、監察医を悩ませる事件もいろいろあるようで、そんな話がとても読みやすい筆致で書かれている。

死亡推定時刻というのも、だいたいこの時間でこんな状況になる、というもんだと私は思っていたのだけど、日当たりや保存場所(大気中、水の中や土の中)や季節で全然違ってくるというのも驚きだった。
人間も野菜や肉と同じ(肉だもんね)だと思えばそれもあたりまえなんだけど。

私も死体は怖いと思ってしまうのだが(虫の死体もダメ)、著者は解剖や検死が気持ち悪くないかと聞かれると即座にこうこたえるそうだ。

「生きている人の方が恐ろしい」(p52)

理由がふるっている。

「生きている人は、痛いとかかゆいとか、すぐに文句を言う。そして何よりも死ぬ危険があるので、私にとっては、生きている人を診るよりは死体の方がはるかに気が楽なのである。」(p52)

生きた患者を診るのが嫌なのではなく、死んだ「患者」を診ることで、彼らの死の真実に迫り、その人権を擁護し、ひいては予防医学に貢献することができる。
そこにやりがいを見いだしている。

実際に、溺死や老人の自殺を多数検死してきた実績から、監察医でなければ見つけられない共通点を見いだし、発表した論文は社会的に役立っているそうだ。
(泳げる人が溺れてしまう理由や、独居老人の孤独による自殺が多いと思われていたが、実際は…など)

死を見つめることは、生を見つめることなのだなと思わされた。
いい死を迎えるためには、いい生を生きることが大切なのだ。

自分は死体となった時、何を語ろうか。

死体は語る



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